大坂夏の陣 天王寺の戦い2茶臼山 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。
毛利勝永はもともと森勝永ですが、毛利と森は
発音がよく似ていて、もともと同族の可能性が
あります。


茶臼山辺りに咲いていた紅梅の花です。

 本多忠朝は勝永隊の雨森伝右衛門に首を獲
られています。そのため本多隊は壊滅します。
 
本多忠朝の墓が茶臼山の北側にある一心寺
にあります。
 

一心寺にある本多忠朝の墓です。
 忠朝は1582年に徳川家康の重臣本多忠勝の次男として出生。
父に劣らぬ勇将で、1600年に関ヶ原の戦いで、父と共に従軍して
活躍します。戦後、その戦功により父が伊勢桑名藩に移封されると、
父の旧領・上総大多喜5万石を与えられました。

 1614年の大坂冬の陣でも活躍しますが、酒を飲んでいたために
不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた
忠朝は、1615年の大坂夏の陣のとき、汚名返上しようと天王寺口
の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦したが
戦死します。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる
者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したといわれ、死後
「酒封じの神」として知られるようになりました。


一心寺と茶臼山が真田幸村の陣だったので、一心寺には
真田の抜け穴というものがあります。




一心寺境内の真田の抜け穴です。


今日は茶臼山の方を紹介します。


昨日UPした1806年の古地図です。部隊配置の(  )付が
大坂方です。

一心寺南門から茶臼山の紹介です。


一心寺の南門です。



天王寺公園の門から、一心寺の南門と、右側には
茶臼山に登る階段があります。現在は工事中で、
2016年3月31日まで茶臼山には入れませでした。
1806年の古地図ではこの辺りは池になっています。


茶臼山の周辺で咲く梅の花です。


拡大した梅の花です。



茶臼山です。古代の前方後円墳ではないかと言われます。



池の西側には通天閣が見えます。



このように工事中で入れません。

なので、2014年5月5日大坂の陣400年祭りの時に
UPした写真を使います。


大坂の陣400年祭りなのでコスプレイヤーさんがいます。







橋を渡ると、このような階段があります。


さらに山の頂上に登る階段があります


茶臼山の頂上に登る階段です。



茶臼山の頂上付近です。400年祭りなので真田幸村の陣が
再現されています。



この時に武将コスプレの方と写真を撮りました。
戦いは5月7日なので、ほぼ同じ時期の写真です。

さて戦いの方ですが、

茶臼山の中腹にある、天王寺の戦いの説明板です。
右が北になっています。

 茶臼山方面に前日の戦闘で損害を負った大和路勢の
伊達政宗と義理の息子の松平忠輝勢35000人と、
浅野長晟勢5000人を配したが、松平忠直勢15000人
が抜け駆けをして、大和路勢前方に展開し真田勢と対峙
しました。

天王寺口先鋒は本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、
松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら計5500人です。
第二陣に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪
忠恒、保科正光ら計5400。第三陣には酒井家次を大将とし、
松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野
忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら計5300人。その後方に徳川家康
の本陣15000人を置いた布陣でした。
不思議なのは、徳川方の軍勢に西国大名がほとんどいない
という布陣なのです。島津はなかなか決着かつかないと思い。
ゆっくりと大坂に向かっていましたと、後に家康に詫びています。
冬の陣で和睦して、すぐの家康の裏切り(大坂方が浪人を集め
堀を直すことも原因)なので、西国の方に連絡が遅れた可能性
があります。

 毛利勢は、忠朝を討ち取り幕府方先鋒本多勢を壊滅させます。
本多勢の救援をしようと小笠原秀政、忠脩勢が駆けつけますが、
毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明等による
側面からの攻撃を受け忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱
後に死亡します。第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄たちの
軍勢も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ壊乱、これらの敗兵
が雪崩込んだ、第三陣も同様の事態に陥ったことで、家康本陣は
丸出しとなります。

真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺
口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと
大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進撃します。
さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、
これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃
を繰り返します。

これらの攻勢によって、第三陣が逃げてきて、家康本陣は混乱状態
となります。三里も逃げた旗本がいたという混乱の中で、三方ヶ原
の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印を旗奉行は倒した上
に家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で
逃げる家康自身も切腹を口走ったといい(平野か堺方面に逃げたと
いわれます)ます。しかし豊臣方の損害も決して少なくなく、数で勝る
幕府方に次第に追い詰められていきます。大和路勢や一度は崩さ
れた諸将の軍勢も陣を立て直して豊臣方を側面から攻め立て始め
ました。
                 (ウイッキペディアより引用)


国土地理院の地形データより引用しました。


茶臼山の南の、当時の戦場で咲いていた梅の花です。

今日はここまでです。
この続きは明日UPします。

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