閑院宮家の紹介 天皇家の実家 | みどりの木のブログ

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今日は京都御苑内にもどり、
閑院宮家の紹介です。


閑院宮家跡の現在の正門(再現)です


閑院宮邸の説明板です

 東山天皇は徳川将軍の舅でもある関白近衛基熙を通じて、
実子である秀宮(直仁親王)に、新宮家を創設させるための
財政的な支援を幕府に求めます。このため1710年9月4日、
直仁親王(東山天皇皇子)を初代とする新宮家創設が決定
され、8年後に霊元法皇(東山天皇の父、東山天皇は1709
年に崩御)より直仁親王に対して、閑院宮の宮号と1000石
の所領を下賜された。こうして、1625年の有栖川宮が創設
されて以来の新宮家が誕生します。その屋敷地は、京都御苑
の南西隅になります。旧閑院宮邸は近年整備され、場所を変
えずに江戸時代の遺構を残す唯一の宮家屋敷です。
初代 直仁親王(東山天皇皇子)の子供の、二代 典仁親王
(光格天皇父、明治時代になってから慶光天皇の諡号および
太上天皇の尊号を贈られる)の子供が光格天皇で以後は、
仁考・孝明・明治・大正・昭和・平成と続いています。つまり、
閑院宮家の血統が今上天皇まで続いています。


 江戸時代に閑院宮邸のあった場所は、かつて松殿邸があっ
た場所とされ。松殿(松)家は藤原北家嫡流「第六の摂関家」
ともいわれる「まぼろしの摂関家」でした。しかし、木曾義仲に
肩入れして繁栄しますが、鎌倉時代に衰退をし断絶します。
その後家名が再興されますが、再び断絶しています。その場
所に閑院宮邸が造られました。


江戸時代公家町の南西部分です。南西角に
閑院宮(千石)とあります。

次に現在の閑院宮家跡の絵地図は


庭園にある池は2/3しか整備されておらず、残りの1/3は
地中に眠ったままです。閑院宮家の当時の敷地は、現代
のものより広大(古地図ではもっと東まである)であり、東
(上の地図では下側)は九条池(九条邸の庭園)のすぐ隣
まであったらしい。



平成15年から17年に再整備される前は


このような建物が残っていました。
おそらくこれが閑院宮家の遺構だろうと考えられます。
正確ではありません。

以下に撮影した写真です
邸の北側には武家風の長屋門があります


明治時代に造られたと思われます



閑院宮邸の北側です



長屋門入口です







ここが玄関です



玄関を南側から見たところです
ここから正門を見ると


正門と築山があります


長いのでもう一度地図です



玄関を入ったところから、中庭を見たところ


左側が収納展示室で、右がレクチャーホールです。




廊下でぐるっと中庭の周りを回れます。

この廊下を行くと

収蔵庫があります

収蔵庫の縁側から、発掘された池を見ると


四阿(あずまや)から池を見ると


この池と州浜の説明板は


収納室の展示を一部紹介すると


東山院の旧殿を移築した、初期の閑院宮邸です。
しかし、火災で焼けて建て替えられています。


公家町が意外とオープンで、江戸時代から
京都観光の目玉だったようで、庶民が公家
屋敷や公家さんを見物しています。


御苑の発掘についての展示です

その他に、出土した陶磁器などが展示されてました。






レクチャーホールから収蔵庫を見たところです。
左は玄関の建物です。


レクチャーホールから玄関の建物を見たところ

1947年(昭和22年)に皇籍離脱。春仁王は閑院氏
を名乗り、閑院純仁(すみひと)と改名します。
戦後の新生活は波乱にまみれ、閑院純仁は実業家
としては成功しますが、妻の直子とは離婚。妹の華子
女王は、皇族出身の元侯爵・華頂博信と結婚したが、
恋愛スキャンダルを起こし離婚。純仁は怒りの余り、
兄妹の縁を切るまでに至った。その後純仁は1988年
(昭和63年)6月、85歳で死去。純仁に実子はなく、
また養子を取らなかったので閑院家は断絶となりました。



最後に左の廊下を通り玄関を出ました。


正門を出たところです。

今日はここまでです。
明日は九条邸の南端にある、九条家の拾翠邸の紹介です。

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