積善寺城の紹介1 | みどりの木のブログ

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今日は和泉積善寺城の紹介です。
この城は雑賀や根来寺を守るための、泉での
最前線でした。


城の城門のような、白壁の長屋門のある旧家①がありました。
この小栗街道(熊野街道)の坂を下ると、近木川があります。


近木川です



グーグルマップの積善寺城跡


近木川を渡った所から、振り向いたところ。


この道の左側に、積善寺城の説明看板②があります。



城の説明板です

積善寺は室町時代末期、根来・雑賀衆(ねごろ・さいがしゅう)
が近木川沿いに築いた中世城郭の一つです。
 もとは和泉国
の4長者の1人、「郡吉長者(ぐんきちちょうじゃ)」が所有する
持仏観音堂を、根来寺が岸和田城の三好氏との合戦の際に
砦として築いたものと伝えられています。その後、根来寺の
出城として整備され、豊臣秀吉の紀州攻めには35間(約53
メートル)四方の本丸に堀をめぐらし、出原右京を大将として
総勢約9500人が立てこもりました。これに対し秀吉は地蔵
堂村の丸山古墳に陣を置いたと言われています。
 江戸時代
に制作された「根来出城配置図」には、小栗(熊野)街道と近木
川が交差する地点、江戸時代の橋本村(現在の橋本町)の集落
を取り囲む形で堀をめぐらし、ほぼ中央に「観音堂」、四方に
「矢倉」の記載があります。

 城跡には現在、説明板が建てられています。

積善寺城は、貝塚市の南側にあり、近木川に面した段丘上に
位置し、北側には小栗街道(熊野街道)が走り、根来寺とは
根来街道を介して連絡できました。。推定地として貝塚市立
中央病院から近木川を挟んだ対岸の一帯で、江戸時代には
橋本村の集落があり、安楽寺付近に本丸があったのではない
かという伝承があります。和泉の戦いでは根来衆の主力部隊
がいました。城郭に関しては『春生随筆』によると、
東面七拾
八間二重堀(約80m)・西面九拾三間三重堀(170m)・南面
百弐拾間三重堀(約130m)外に横二十五間、長百五十間
貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五
間四面云々
とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐら
していた。外堀は幅6mで深さ1.8m(発掘の結果より)でした。



畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と
中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した3月21
日夜、城兵は城を自焼して退却した。

同じ日の夕刻、防衛線中核の積善寺城でも戦闘
が始まった。井出原右近・山田蓮池坊の指揮する
根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・
蒲生賦秀・池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は
石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒
細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大き
かったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭
に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌3月22日
貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺
城は開城した。

西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀
衆を攻めるのは高山重友・中川秀政の両勢である。
ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式
は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川
秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を
破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は
投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を
入れ、23日に開城した。
沢城の開城により和泉の
紀州側城砦群は全て陥落した。


上の積善寺城の地図を拡大すると




さらに拡大すると

この絵地図を半透明にして、回転して縮小したものを
グーグルの地図に重ねると


こんな感じの城でした

今日はここまでです。
明日は積善寺城跡の写真をUPします。

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