狭山池尻城の変遷をUPしました。 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。
今日は池尻城の歴史ですが、先に、
池尻城跡で咲いていた花の写真です。
ユリの花にも水玉があったので、
撮影しました。





ユリの花にあった水玉に花が写っています

次はトマトの花です


トマトの花

次はアサガオの花



さて、昨日の池尻城のジオラマです。
これは、狭山池博物館内の狭山郷土史コーナにあります。


手前の池に、池尻体育館も埋め立てられて出来ています。

狭山郷は13世紀に、奈良興福寺の「社領」となっています。
現地は池尻氏が管理していたようで、その館が池尻館です。
南北朝時代に「楠木合戦注文」によると『元弘三年
1333年)一月十四日、楠木軍が狭山池の北堤から
池尻を攻め、池尻氏を倒し、次いで野田城を破り、
更に丹南の河内守護代を追い落とした』とあります。
池尻氏は降伏して、楠正成の家来になります。

なので、南北朝時代、狭山の地は『楠木正成』の支配下
にあったようです。南北朝動乱の中で、池尻館は拡大し
て、池尻城になります。水を支配することで、その水を
利用していた農民も支配できます。

池尻城を支配することが、この地域の支配になるので、
南朝と北朝の間で戦いが起こりました。


池尻・半田・野田城の位置地図です。
室町時代に南北朝統一がなると一時平和になりますが、
室町時代末期には畠山氏の内紛で、この地で合戦があ
ります。そして、豊臣政権の1600年頃に、片桐勝元が
狭山池改修工事をしたとき、現地監督の池尻孫左衛門
(池尻氏の末裔かは定かでない)に池守として、その支配
管理を申し付けます。
 いつの間にか名字が田中(孫左衛門の子孫と言われて
いる)に代わりますが、池守田中家が江戸時代、池尻城
の北側に住んでいます


 明日は半田城の紹介をします。
最後に池尻城跡に咲いていた花です。









今日はここまでです。
明日は半田城の紹介です。
皆様方のおかげで、今日は歴史ブログ10位とベスト10
に入りました。誠にありがとうございます。

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