和泉の伯方藩陣屋跡 1 | みどりの木のブログ

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今日は大阪府和泉市にある、伯方藩陣屋跡の紹介です。
1698年(元禄11年)に武蔵国(野本藩)の所領を近江国
へ移されたのを機に、渡辺基綱は和泉国大鳥郡大庭寺村
(現在の大阪府堺市南区大庭寺)に陣屋を移し、大庭寺藩
が立藩されます。

1727年(享保12年)、渡辺基綱が居所を和泉国大鳥郡
大庭寺村(現・堺市南区大庭寺)から和泉国和泉郡伯太村
に移し、伯太陣屋が築かれた。
表高は野本・大庭寺時代と
同じく1万3千5百石で、以後9代にわたり在封し明治維新
を迎えます。
藩主は子爵となりました。

陣屋は現在の和泉市伯太町3丁目から4丁目にかけて、
信太山丘陵の西側斜面を利用して設置されています。
丸笠山古墳の周濠をはじめとする大小のため池と赤塀
が、御殿および家臣団の居住区を取り囲んでいました。


重臣だった向山家にある江戸時代後期の陣屋絵図です。


グーグルの地図です。

中心となる御殿は4丁目に所在し、信太山駅から伯太神社
を経由して丸笠山に至る道路と、熊野街道(小栗
街道)の
交点に大手口を設けていました。JR信太山駅からこの
道路
を歩くと、伯方神社があります。
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伯方神社です。このあたりに伯方村がありました。
左の道をさらに登って行くと表門です。


伯方神社です。
伯方村に陣屋を移した時は、はじめ陣屋が無く藩主
は庄屋の屋敷に、藩士は村の農家に間借りしていま
した。

陣屋は明治以降に破却され、現在では痕跡もほとんど
認められませんが、陣屋の裏門が小谷城郷土館(堺市
南区豊田)に移築されて現存しています。以前紹介しま
した。


小谷家に移築された陣屋の裏門です。
小谷家の紹介はここのリンクです。

伯太村の旧来の集落は伯太神社付近にあったが、
陣屋設置以降に小栗街道に沿って町場が形成され、
前者は下伯太(したはかた)、後者は上伯太(うえは
かた)と言われます。御殿および家臣団の居住区は
屋敷と通称され、明治以降もしばらくの間、伯太在住
と称して伯太村とは別扱いでしたが、元家臣らの転出
が次第に進み、1886年(明治19年)伯太村へ合併
され、現在は上伯太の一部となっています。

さらに坂を登る途中で花が咲いていました。



ハナミズキ

ハナミズキ





芝桜





つつじも満開でした。


つつじも満開でした。

さらに東の方に道を登ると、下の写真のようになります。

近づくと


左右の道が小栗街道(熊野街道)です。
そして、この交差点のあたりが陣屋表門のあった場所です。
さらに近づくと


段差があります。この段差の上側が陣屋の中です。
段上側を右に少し行くと


段差があります。右端が小栗街道です。
上の古絵図の表門付近(左端にある)を拡大すると


表門付近の絵図です(分かりにくいので加筆しています)
小栗街道側の塀は赤色のようです。
陣屋全体が赤い塀で囲まれていました。
表門(赤塗)の横だけは白い塀です。

今日はここまでです。
明日は陣屋全体と周辺を紹介します。