西代藩(本多家)陣屋の想像図を描きました。 | みどりの木のブログ

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 西代(にしだい)藩本多家の陣屋が今は
ほとんど跡形もなく少しの土塁だけが残る
状態です。2回現地調査をして、この陣屋の
大手門を再現してみました。
 西代藩は膳所藩の分家で、初代が本多
忠恒で2代目が本多忠統です。この2代目は
優秀な文人大名(1万石)で、8代将軍吉宗の
スタッフとして勘定奉行などの要職に就き、吉宗
の享保の改革を支えた人です。

西代藩陣屋大手門

何故このようになるか考察します。
この時代の古地図がありその大きさが分かっています。

黄色い御陣屋とあるところです.
東西に317mで南北145mの4Ha近い広さがありました。

この古地図にグーグルの地図(下図)

この地図を半透明にして、回転(既にしています)し縮尺を調整し、
①の崖と右端の西高野街道に接するように重ねてみました。すると
下図のようになります。


見難いですが御陣屋の黄色い部分が見えます。
再現した大手門は南の門です。
見やすくした地図を貼ります。



崖のある位置の写真は下図です。

想像絵図①の崖です。奥の方が大手門の位置です。


これは②の土塁の左側の坂道です。


下から②の土塁を見上げたところ。


これが②の土塁跡(写真左)です。この上に③の櫓があったと思います。
この陣屋は1711年から1732年(享保17年)
までありました、忠統が享保の改革で成果を上げ
たので、5000石の加増があり、領地替えでここ
から伊勢の神戸に、藩として陣屋ではなく城の築城
を許可されます。それが神戸藩です。

また、なぜ大手門に隅櫓を置いたかというと、門横の土
塁が大きく何かあったはずです。また忠統は延命寺の
住職(浄厳は幕府から帰依されて、江戸湯島に霊雲寺
を創建した真言宗の高僧)を師と仰ぎ、伊勢神戸移転
時に陣屋内の建物を譲っています。それが下の写真の
シャチホコのある蔵(他にもあり)ではないかと思います。


延命寺にある③の蔵です。シャチホコがついています。
この蔵の右側に空海お手植えの紅葉があります。

そして古地図にある西代(にしんだい)神社の入り口
の鳥居は3か所あり。一番古い鳥居は旧鳥居として
見やすくした地図の矢印にあります。


これが一番古い鳥居と思われます。この真直ぐ先には神祖森という
祠があります。享保の時代はそこに本殿があったと考えられます。

ネット上でも教育委員会発表(ラブリーホールにあった)にもない
新説ですが、私はこれが自然だと思いました。

最後に追加で、河内長野市がふるさと事業の資金で、
小学校の南側に建てた陣屋の模擬門があります。
建てるなら、史実どうりの位置に建てて欲しかった。

陣屋の模擬表門です。