大鏑神社(福島県郡山市熱海町)
大鏑神社(おおかぶらじんじゃ)。

福島県郡山市熱海町に鎮座。
御祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)、天知迦流美豆比売神(アメノシルカルミズヒメノカミ)。
御祭神の大山咋神は須佐之男命の孫で、国土建設の神。
山城国・丹波国の開拓事業において大きな功績があり、天才的な土木技術を持つ神として尊崇を受けたのだという。
そしてもう片方の御祭神、天知迦流美豆比売神はその大山咋神の母神。
須佐之男命の子である大歳神との間に奥津日子神・奥津比売命・庭津日神・阿須波神などなど、多くの神々を産んだ。
社伝によると、縁起は以下のとおり。
寛治三年(1089年)の秋、陸奥の豪族・安部貞任の反乱を征伐するべく、伊予守・源頼義と八幡太郎義家が陸奥国に出発した。
下野国で塩谷長者という豪族を打ち破り、その地の粉河寺の僧侶・海院阿闍梨という者を召し連れることとなった。
そしてさらに北上。
この安積の地を通りかったところ、八幡太郎義家公に安積の住民から願いを聞いてほしいとの申し出があった。
なんでも、安積の西山に「蛇龍」が住んでいて、その蛇龍が西から東に往来するたびに暴風雨が起きる。
そのため、農作物が実らずとても困っているのだという。
これを聞いた義家公。
権五郎景政に命じて、安積郡多々野ヶ原というところに御祈壇を築いた。
そして寛治四年(1090年)の4月7日、海院阿闍梨に陸奥の凶徒征伐・安積の蛇龍退治のための祈祷を命じる。
壇上には陰陽五張りの弓、そして本黒の鏑矢五筋を供え、海院阿闍梨による三日三晩の御祈祷が行われた。
そして祈祷の後、鎌倉権五郎景政が甲冑に身を包み、五本の鏑矢を天に向かって射ち放った。
一本目の矢は安積郡の竹ノ内在家に落ちた。
二本目の矢は安積郡の安子嶋に落ちた。
三本目の矢は安積郡の早稲原村に落ちる。
四本目の矢を射る際には弓を満月のように引き絞りって放つと、安積郡田村の荘の境福原村に落ちた。
最後に五本目の矢。
権五郎景政が矢を取ってしばし祈り、それを八幡太郎義家に渡す。
義家公は多々野ヶ原の西の嶺、物見ヶ舘に登り、
「いかにして安積庶民の憂いと、災難の蛇龍を退治するべきか」
と祈り、陰陽の弓の弦を強く張って東に向かって射ち放った。
すると!
その矢は中丸山の嶺に棲んでいた大蛇の頭に見事命中。
大蛇は猛り狂って山野を振動させ、空に雷電させながら西を目指して走り、西安積舟津の湖畔でついに倒れた。
大蛇に命中した五本目の矢はそのまま舟津に残ったという。
蛇退治により安積庶民の願いを聞き届けた義家公の軍は北上して陸奥国をさらに進んだ。
その後、康治三年(1144年)9月、権五郎景政公は相模で亡くなった。
その翌年の天養元年(1144年)、安積の庶民は災難が絶えたのは景政公のおかげと、景政公の霊を合祀して「御霊宮」と称し奉った。
矢の降った地に公の御霊を祭祀したのだという。
ちなみにこちらの大鏑神社さんの鎮座地は郡山市安積町安子島。
二本目に放たれた矢の降った地ということでしょうか。
ただ一つ気になるのは……
安倍貞任は康平六年(1062年)に厨川の戦いで討ち取られていまして……
社伝の寛治のころにはすでにこの世に亡かった人なんですよね。
そのあたりの年代の違いが気になるところです。
ただ、それを言ったら暴風雨を起こす蛇龍が実在したのか?ということになっちゃいますよね。
そういった蛇龍が居たのかどうかは分からない。
でも、この地にそういう“脅威”たる存在・勢力はあったはず。
それを伝承の中で、一般の民衆の力の及ばない『龍』などの姿で描いたのではないかと思います。
あるいは何らかの事情で固有名詞を出すことが出来なかったのか。
(ベッキーが金スマのインタビューでしきりに「男性」と言っていたような感じで)
そもそも、敵対する勢力の固有名詞を伝承に残してしまうと、
宿敵に名を成さしめさせた事になる。
だから実在しない龍などの姿に置き換えられて、歴史から存在を消されたのではないでしょうかね。
ですので、社伝の年代の違いも、
きっと何か裏側で事情や意味があったのかなぁ、と思います。
その年代で無ければならない、という必然性が有ってのことではないでしょうか。
上手くまとまりませんが。
そうやっていろいろと想像していくと、
ご由緒を読むのも別な角度から楽しむことができて二度美味しかったりします。


【 一の鳥居 】
道路沿いでひときわ目を引く、朱色の鳥居。
扁額の「大鏑大明神」も素敵ですね。

【 参道 】
綺麗に整備された参道。
こちらの参道は氏子の方が奉納されたもの・・・だったというのを境内で見た記憶があるんですが、画像を撮っておらず記憶が曖昧です(´・ω・`)


【 手水舎 】
なんとも風流な作りの手水舎。
右側にあるのは井戸でしょうか。

手水舎の隣の池。
こちらも綺麗に整えられておりました。

【 二の鳥居 】
木製のやや小ぶりな両部鳥居。

【 神輿庫 】
上記の二の鳥居をくぐって右側にある神輿庫。

【 神楽殿 】


【 狛犬 】
参道途中の狛犬。
アゴヒゲみたいな造形がなんだか可愛らしいですね。

【 境内社 】
境内社の「金蔵稲荷神社」。





【 拝殿 】
そしてこちらが拝殿。
雨が降ってたせいか、ピンボケな画像ばっかりに…(´・ω・`)
屋根の形がなんだか素敵ですね。
威風堂々とした感じに見えて、すごく立派です。
御神紋は三つ巴。

【 本殿 】
こちらは本殿……なのですが覆屋によって様子は分からず。
さてさてさて。
そんなわけで無事お参りが済みまして、社務所に伺います。
社務所は鳥居をくぐってすぐ左手。
が……宮司さんはご不在。
ご自宅にいらっしゃるということで、用事の際は電話連絡して欲しい旨の紙が置かれていました。

で、お電話をおかけして来て頂いた宮司さんに頂いた御朱印がこちら。
書いて頂いている間、社務所の入り口のところに居たんですが、
こちらの社務所の天井には日光東照宮か!と思うほどの立派な龍の絵が描かれていまして。
宮司さんに伺ったところ、伝承に出てくる龍の姿を描いてもらったとのこと。
御朱印を頂く際には、ぜひこちらも見せて頂いてみてはいかがでしょう。
◆神社への地図
◆神社の情報
大鏑神社 おおかぶらじんじゃ
御祭神 : 大山咋神、天知迦流美豆比売神
社格等 :
鎮座地 : 福島県郡山市熱海町安子島字町164

福島県郡山市熱海町に鎮座。
御祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)、天知迦流美豆比売神(アメノシルカルミズヒメノカミ)。
御祭神の大山咋神は須佐之男命の孫で、国土建設の神。
山城国・丹波国の開拓事業において大きな功績があり、天才的な土木技術を持つ神として尊崇を受けたのだという。
そしてもう片方の御祭神、天知迦流美豆比売神はその大山咋神の母神。
須佐之男命の子である大歳神との間に奥津日子神・奥津比売命・庭津日神・阿須波神などなど、多くの神々を産んだ。
社伝によると、縁起は以下のとおり。
寛治三年(1089年)の秋、陸奥の豪族・安部貞任の反乱を征伐するべく、伊予守・源頼義と八幡太郎義家が陸奥国に出発した。
下野国で塩谷長者という豪族を打ち破り、その地の粉河寺の僧侶・海院阿闍梨という者を召し連れることとなった。
そしてさらに北上。
この安積の地を通りかったところ、八幡太郎義家公に安積の住民から願いを聞いてほしいとの申し出があった。
なんでも、安積の西山に「蛇龍」が住んでいて、その蛇龍が西から東に往来するたびに暴風雨が起きる。
そのため、農作物が実らずとても困っているのだという。
これを聞いた義家公。
権五郎景政に命じて、安積郡多々野ヶ原というところに御祈壇を築いた。
そして寛治四年(1090年)の4月7日、海院阿闍梨に陸奥の凶徒征伐・安積の蛇龍退治のための祈祷を命じる。
壇上には陰陽五張りの弓、そして本黒の鏑矢五筋を供え、海院阿闍梨による三日三晩の御祈祷が行われた。
そして祈祷の後、鎌倉権五郎景政が甲冑に身を包み、五本の鏑矢を天に向かって射ち放った。
一本目の矢は安積郡の竹ノ内在家に落ちた。
二本目の矢は安積郡の安子嶋に落ちた。
三本目の矢は安積郡の早稲原村に落ちる。
四本目の矢を射る際には弓を満月のように引き絞りって放つと、安積郡田村の荘の境福原村に落ちた。
最後に五本目の矢。
権五郎景政が矢を取ってしばし祈り、それを八幡太郎義家に渡す。
義家公は多々野ヶ原の西の嶺、物見ヶ舘に登り、
「いかにして安積庶民の憂いと、災難の蛇龍を退治するべきか」
と祈り、陰陽の弓の弦を強く張って東に向かって射ち放った。
すると!
その矢は中丸山の嶺に棲んでいた大蛇の頭に見事命中。
大蛇は猛り狂って山野を振動させ、空に雷電させながら西を目指して走り、西安積舟津の湖畔でついに倒れた。
大蛇に命中した五本目の矢はそのまま舟津に残ったという。
蛇退治により安積庶民の願いを聞き届けた義家公の軍は北上して陸奥国をさらに進んだ。
その後、康治三年(1144年)9月、権五郎景政公は相模で亡くなった。
その翌年の天養元年(1144年)、安積の庶民は災難が絶えたのは景政公のおかげと、景政公の霊を合祀して「御霊宮」と称し奉った。
矢の降った地に公の御霊を祭祀したのだという。
ちなみにこちらの大鏑神社さんの鎮座地は郡山市安積町安子島。
二本目に放たれた矢の降った地ということでしょうか。
ただ一つ気になるのは……
安倍貞任は康平六年(1062年)に厨川の戦いで討ち取られていまして……
社伝の寛治のころにはすでにこの世に亡かった人なんですよね。
そのあたりの年代の違いが気になるところです。
ただ、それを言ったら暴風雨を起こす蛇龍が実在したのか?ということになっちゃいますよね。
そういった蛇龍が居たのかどうかは分からない。
でも、この地にそういう“脅威”たる存在・勢力はあったはず。
それを伝承の中で、一般の民衆の力の及ばない『龍』などの姿で描いたのではないかと思います。
あるいは何らかの事情で固有名詞を出すことが出来なかったのか。
(ベッキーが金スマのインタビューでしきりに「男性」と言っていたような感じで)
そもそも、敵対する勢力の固有名詞を伝承に残してしまうと、
宿敵に名を成さしめさせた事になる。
だから実在しない龍などの姿に置き換えられて、歴史から存在を消されたのではないでしょうかね。
ですので、社伝の年代の違いも、
きっと何か裏側で事情や意味があったのかなぁ、と思います。
その年代で無ければならない、という必然性が有ってのことではないでしょうか。
上手くまとまりませんが。
そうやっていろいろと想像していくと、
ご由緒を読むのも別な角度から楽しむことができて二度美味しかったりします。


【 一の鳥居 】
道路沿いでひときわ目を引く、朱色の鳥居。
扁額の「大鏑大明神」も素敵ですね。

【 参道 】
綺麗に整備された参道。
こちらの参道は氏子の方が奉納されたもの・・・だったというのを境内で見た記憶があるんですが、画像を撮っておらず記憶が曖昧です(´・ω・`)


【 手水舎 】
なんとも風流な作りの手水舎。
右側にあるのは井戸でしょうか。

手水舎の隣の池。
こちらも綺麗に整えられておりました。

【 二の鳥居 】
木製のやや小ぶりな両部鳥居。

【 神輿庫 】
上記の二の鳥居をくぐって右側にある神輿庫。

【 神楽殿 】


【 狛犬 】
参道途中の狛犬。
アゴヒゲみたいな造形がなんだか可愛らしいですね。

【 境内社 】
境内社の「金蔵稲荷神社」。





【 拝殿 】
そしてこちらが拝殿。
雨が降ってたせいか、ピンボケな画像ばっかりに…(´・ω・`)
屋根の形がなんだか素敵ですね。
威風堂々とした感じに見えて、すごく立派です。
御神紋は三つ巴。

【 本殿 】
こちらは本殿……なのですが覆屋によって様子は分からず。
さてさてさて。
そんなわけで無事お参りが済みまして、社務所に伺います。
社務所は鳥居をくぐってすぐ左手。
が……宮司さんはご不在。
ご自宅にいらっしゃるということで、用事の際は電話連絡して欲しい旨の紙が置かれていました。

で、お電話をおかけして来て頂いた宮司さんに頂いた御朱印がこちら。
書いて頂いている間、社務所の入り口のところに居たんですが、
こちらの社務所の天井には日光東照宮か!と思うほどの立派な龍の絵が描かれていまして。
宮司さんに伺ったところ、伝承に出てくる龍の姿を描いてもらったとのこと。
御朱印を頂く際には、ぜひこちらも見せて頂いてみてはいかがでしょう。
◆神社への地図
◆神社の情報
大鏑神社 おおかぶらじんじゃ
御祭神 : 大山咋神、天知迦流美豆比売神
社格等 :
鎮座地 : 福島県郡山市熱海町安子島字町164