久しぶり
本当に久しぶりにこのブログを開いてみて、まだ記事が残っていたってことがなんだかとてもうれしかったりする。
あれから、ほんとうにいろんなことがあって、僕はほんの少しだけ成長したんじゃないかと思う。
たぶんいろんなものを失ってしまったけれど、きっと大事なことがわかった。そんな時間だった。
こんな世界でも誰かに届いたらなんて思っていたのだろうけれど、確実に今の僕には届いている。あのころの自分の気持ち、忘れたくはないと思う。
また、いつかの自分のために、そんな誰かに届くように。言葉はいつか、言葉をこえていくんだろう。
それじゃ、また。きっとまた逢える。
あれから、ほんとうにいろんなことがあって、僕はほんの少しだけ成長したんじゃないかと思う。
たぶんいろんなものを失ってしまったけれど、きっと大事なことがわかった。そんな時間だった。
こんな世界でも誰かに届いたらなんて思っていたのだろうけれど、確実に今の僕には届いている。あのころの自分の気持ち、忘れたくはないと思う。
また、いつかの自分のために、そんな誰かに届くように。言葉はいつか、言葉をこえていくんだろう。
それじゃ、また。きっとまた逢える。
スタート
新しい季節が始まって、みんな新しいスタートをきる。
僕は何を失って何を手に入れたのだろう。
今日も街を彷徨い、そして何もできず立ち尽くすだけだ。
雨が降る街に傘も持たず飛び出した。
世界は僕のことなんて構わず、雨と共に踊る。
なんとなく今日を過ごしていくけれど、ぼんやりとした不安に苛まれる。
僕の未来はどこにつながっているのだろう。
明日はきっと少し。
今日より少し。
そう信じるよ。
僕は何を失って何を手に入れたのだろう。
今日も街を彷徨い、そして何もできず立ち尽くすだけだ。
雨が降る街に傘も持たず飛び出した。
世界は僕のことなんて構わず、雨と共に踊る。
なんとなく今日を過ごしていくけれど、ぼんやりとした不安に苛まれる。
僕の未来はどこにつながっているのだろう。
明日はきっと少し。
今日より少し。
そう信じるよ。
全能感
僕には何でもできるような気がしていた。
でも、今日はそんな曖昧なことを書くつもりじゃない。
僕がやるべきこと。
僕にできること。
人は乳児期には、みな全能感を持っているという。
生まれて間もない乳児は、世界と自分との境界を自覚しておらず、世界と一体であるがゆえに自らに何かが欠けているという状態とも無縁であり、その意味において完全に満たされている。
しかし、人は成長とともに自分の思い通りにことが運ばないことを知るようになる。
自分が世界の中心ではなく、世界の中のちっぽけな一部分であることを否応無しに知ることになる。
成長というのはある意味、全能感を喪失していくことでもある。
僕には何でもできるような気がしていた。
失敗しそうなことに敢えて挑戦してこなかったから、自分の限界も知ることは無かった。
僕の全能感はあまり失われてはいない。
僕は確かに自分の行く大学を自分の意思で決めた。
学部も学科も自分で選んだ。
でも、でも、学費も生活費もすべて親に出してもらっていた。
自分で選んだ道を進むための努力をせずに、ただなんとなく進んできた。
誰かが敷いたレールの上を走るのが嫌で、必死で道を外れようと抵抗してきたつもりで結局、親の走らせた列車の上で踊っていただけだってこと。
少し前の僕ならば、僕が困らないだけのお金を用意してきた両親のせいにしてしまったのかもしれない。
今でも、それはある意味不幸であったのかもしれないと思う。
ただ、両親は僕に苦労をさせまいとして、良かれと思ってやってきただけのことだとしても。
それでも今では、少しだけ受け入れられるようになってきた。
僕にも選べる道はあったことを。
僕が、依存していくということを許容してきたことを認めなくてはならない。
僕は思い知らなくてはならない、自分の無能さを、小ささを、力の無さを。
そして、たくさんのものを失うことになるだろう。
それは僕にとって、きっとほんの少しつらいことになるとは思うけれど、僕の心にはわかっている。
それが何より必要であることが。
僕は信じてみるよ。
自分の心を。
僕には何だってできるような気がしている。
でも、今日はそんな曖昧なことを書くつもりじゃない。
僕がやるべきこと。
僕にできること。
人は乳児期には、みな全能感を持っているという。
生まれて間もない乳児は、世界と自分との境界を自覚しておらず、世界と一体であるがゆえに自らに何かが欠けているという状態とも無縁であり、その意味において完全に満たされている。
しかし、人は成長とともに自分の思い通りにことが運ばないことを知るようになる。
自分が世界の中心ではなく、世界の中のちっぽけな一部分であることを否応無しに知ることになる。
成長というのはある意味、全能感を喪失していくことでもある。
僕には何でもできるような気がしていた。
失敗しそうなことに敢えて挑戦してこなかったから、自分の限界も知ることは無かった。
僕の全能感はあまり失われてはいない。
僕は確かに自分の行く大学を自分の意思で決めた。
学部も学科も自分で選んだ。
でも、でも、学費も生活費もすべて親に出してもらっていた。
自分で選んだ道を進むための努力をせずに、ただなんとなく進んできた。
誰かが敷いたレールの上を走るのが嫌で、必死で道を外れようと抵抗してきたつもりで結局、親の走らせた列車の上で踊っていただけだってこと。
少し前の僕ならば、僕が困らないだけのお金を用意してきた両親のせいにしてしまったのかもしれない。
今でも、それはある意味不幸であったのかもしれないと思う。
ただ、両親は僕に苦労をさせまいとして、良かれと思ってやってきただけのことだとしても。
それでも今では、少しだけ受け入れられるようになってきた。
僕にも選べる道はあったことを。
僕が、依存していくということを許容してきたことを認めなくてはならない。
僕は思い知らなくてはならない、自分の無能さを、小ささを、力の無さを。
そして、たくさんのものを失うことになるだろう。
それは僕にとって、きっとほんの少しつらいことになるとは思うけれど、僕の心にはわかっている。
それが何より必要であることが。
僕は信じてみるよ。
自分の心を。
僕には何だってできるような気がしている。
