様々な視点から楽器をとらえる | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

何が良い楽器かということを公に定めることはできません。人によって目的や価値観、音楽の好み、美意識、聴覚の個人差、骨格や体質の違いなど様々な基準が存在します。人間である以上は社会的な意味もあるでしょう、音の響きは建物も重要な役割を果たします。

高級ブランドのファッションショーを見たときに、それをアートだと考える人もいるし、こんな奇妙な服装をしていたら笑われてしまうだろうと考える人もいるでしょう。最高であるという反応と最低であるという反応が同時に起きます。お金持ちのパーティーに参加するのであれば目を引くようなものが求められるのかもしれませんが、日常生活では白い目で見られ不便でもあります。

何が良い自動車かと言った時に企業の重役と観光業や砂礫採掘業では違うでしょう。リムジンのような車では多くの観光客を乗せることができないし、砂利を多く運搬することはできません。強大なエンジンパワーのある車でも目的によって全く違います。鉱山で使われる巨大なダンプトラックがあります。家よりも大きなものです、最高の車でしょうか?

それに対して昭和の頃日本では会社の役職に応じて車種が用意されていました。平社員から重役まで、トヨタだけでもカローラ、コロナ、ビスタ、マーク2、クラウン、センチュリーなど役職にあわせた車を買うことができました。センチュリーが最高というわけです。昭和の会社員であればそのような価値観を共有していました。それ以上というとキャデラックのようなアメリカ車が憧れの対象でした。80年代からはメルセデスベンツにとってかわられました。これと同じようにクレモナの新作楽器がその頃から販売されています。しかし、このような価値観は国ごとによって全く異なっており、日本でも現在では崩壊しています。弦楽器の世界はまだ昭和の価値観が残っているということですね。

スピードが速いことが優れていると考える人たちもいます。音量があるとか鳴るというのが優れた楽器というのと似ています。
レースではブランド名ではなく実力で勝負が決まります、弾き比べするのと同じです。世界最高峰のモータースポーツと言えばフォーミュラ1(F1)です。しかしながらドラッグレースというのがあって1/4マイルの直線を走るもので圧倒的に速度はF1カーよりも速いです。しかしカーブを曲がることができません。F1カーは様々なカーブに対応するようにできているので最高速度は犠牲になっています。走るレース場によって優れた車が変わるということです。音楽の様々な要素や心地の良さなどを考えていくと音量だけで判断できないということになります。

楽器もそのように使う人によって求められるものが違います。

所得などの社会的な意味での高級車に対して「車好きの間で人気」というのがあります。そういうものを共有する人たちが趣味のカテゴリーを形成しています。そのコミュニティでは何が優れているかは共有されていることでしょう。それでも趣味趣向によって細分化されているはずです。一方で同じ趣味趣向を共有することで仲間意識も生まれることでしょう。

特にスポーツカーのようなものはメーカーの看板車種になります。
しかし販売台数を見るとごくわずかで実際に買う人は少ないです。今でも、ネットのニュースのようなものではフェラーリだのポルシェだの新型車が発表されると勝手に出てきます。実際に買う人はわずかで情報としては全く役に立たないのに閲覧数が稼げるようです。ストラディバリやデルジェスなどの情報も同じです。実際に子供に楽器を買う親御さんにとっては全く必要のない情報ですが、強い興味を持つ人がいます。

自動車であれば、値段がエンジンのパワーの差となっているなど測定可能な違いがありますが、「弦楽器では本当に違いがあるかどうかも怪しいんですよ」と私は教えています。

「昭和の高級品」の趣味以外でもいろいろな可能性があることをブログでは紹介しています。視野を広げて自分で現実に買える楽器を考えてください。


このような文化では同じ価値観を共有することで仲間意識を持ったり、お互いを認め合ったりすることもできます。クラシック音楽のその時代では「教養豊かで洗練された上品な趣味」を理解できるということを演奏会の参加者は確認しあっていたとも言えるでしょう。今日においても、音楽のジャンルは仲間意識を生み出すことでしょう。
一方で親子の間などで音楽の趣味が違うと軋轢になります。そのようなエネルギーも音楽の世界では見られています。これに対して他人の価値観を尊重するという必要性があると考えられます。自分は好まないジャンルの音楽の愛好家に対しても、尊敬の念を持つということです。

ヨーロッパで基本的な美意識というのは古代ギリシャのものがあります。日本人には全くなじみがなく、学校教科書でちらっと見たくらいのものです。西洋の人が作るものと、日本人が作るものでは根本的な違いがあるというわけです。
現在では西洋の人も古代ギリシアの文化を知っているわけではありません。しかしながら根底にはまだまだそのようなものがあるかもしれません。日本の製品は「クール」と形容されることがあります。これは西洋人の基本的な美意識が欠落していて、斬新さを感じるからです。一方「ビューティフル」と言われるときは古典的な西洋の価値観が反映されているようです。このような西洋的な美しさは日本人でも女性の方が感度が高く、男性は興味がある人は少ないでしょう。興味がない人にも何も感じられないものです。
古代ギリシャの国々はローマ帝国に征服されると、ギリシャ人がローマ人の奴隷になります。ローマ人は奴隷のギリシャ人に芸術を教えさせました。奴隷を先生にして物を学ぶというのは「尊敬」という考え方が今の人には理解できません。こうしてローマでもギリシャの芸術が受け継がれました。軍事力ではローマがギリシャを征服しましたが、文化ではギリシャがローマを征服したということです。
ローマも滅びて中世の時代が続き、遺跡から古代の彫刻などが発掘されます。それに驚いて芸術に変革が生まれたのがルネサンスというわけです。古代ローマの彫像を見たことがある画家と見たことが無い田舎の画家では絵が全然違うというわけです。東方教会のイコン画やブリューゲルのような農民を描いた絵とボッティチェリやラファエロのイタリアの作品を見比べてみてください。単に絵が上手いとか下手ということでない違いがあるのに気づくでしょうか?
クラシック音楽がいつから始まるかは諸説ありますが、バッハが音楽を生み出した音楽の父と言っていたころがあります。日本で楽器を習うと壮大な西洋のバックグラウンドは全く知らずに、バッハ、モーツァルト、ベートーベン・・・などを発明家のような「偉人」として教わります。プロの音楽家を要請するなら需要の多い作曲家について勉強するのは当然でしょう。それに対してルネサンスを受けつぐイタリアではギリシャ神話に歌を付けて演じました。それがオペラのはじまりです。今では教養としての音楽史はすくなくともモンテベルディから教わることでしょう。バッハよりもずっと前です。フランスにはイタリアの名家から王家に嫁いだとともに音楽家などがやってきてイタリア風の音楽をもたらそうとしましたが、バレエという歌や踊りを伴った演劇の方が人気があってオペラの普及は苦戦したようです。そのように各地に文化が伝わるとともに土地ごとに独自の進化もしていったようです。それも面白いですね。

バロック芸術はカトリック教会の宗教政策と王侯貴族の教養文化との両方がミックスされています。それらは現代の日本人には全く馴染みがないし、現在の政治体制を肯定するために歴史では「悪」と憎まれ教えられました。日本で普通に暮らしていたら触れることもありませんが、西洋では今でも教会や宮殿・城が街の真ん中に残っていて見ることができます。

それに対して、美を感じるのはそれでも個人差があります。
ギリシャの彫刻を見ても、ただの人の形が彫ってあるだけだと思うかもしれません。ギリシャ的な美意識は形のバランスによってもたらされると考えられていたようです。さらにプラトンのイデア論という理屈によって自覚されていました。現代の科学的な思考では理解不能なプラトンの哲学ですが、結果的に美を意識することに役立ったことでしょう。私は結果主義ですからそれもOKです。

彫刻でも仏像ではインドから中国日本へと伝わる間に独自の形になってきました。もともとはガンダーラにいたギリシャ人が作ったとも聞いたことがあります。初期の仏像はギリシャ彫刻のようでした。仏像はジャンルとして確立したために実際の人間とは違う独特のスタイルになっています。同じ彫刻家がその時代に生きていた僧侶を彫ると生き写しのようにリアリティが感じられるものがあります。個人レベルでは日本の仏師の技量はギリシャの彫刻家と変わらないということでしょうが、文化としての美意識が違います。つまり、ギリシャ時代の彫刻は生きた人をリアルに再現したのではなく、美しい姿に創作したのです。それに触れたイタリアの芸術家が世界をリードした時代があったということです。それに追いつこうとギリシャやローマの文化を学ぶことが19世紀くらいになると西洋では教育の基本となります。ギリシャ神殿を模した建物が各地に多く作られました。各国の政府機関や文化施設、裁判所やミュージアムなどもにもあります。大英博物館もそうですね、アメリカにもたくさんあります。
一方それらの文化は近代や現代の芸術家、戦後には保守的なものとして若者たちの目の敵にされます。日本が近代化を図り、芸術を学びに西洋に渡ったときにはすでに過去のものと考えられていたかもしれません。昭和以降も新聞社とデパートが興味本位の美術展を開くとわけも分からず人が殺到したものです。


この時代にヴァイオリン製作ではストラディバリを理想としたモダン楽器が確立します。近代や現代の芸術とは違う保守的な立場の考え方です。今でもとても保守的な考え方が弦楽器業界の主流となっています。

ルネサンスに話を戻しますと、イタリアの絵画作品と北方フランドルの作品を比べてみてください。違いが判るでしょうか?
小学校の頃の延長でどっちが絵が上手いかで言えばむしろフランドルのほうが精巧に描かれているかもしれません。しかしイタリアの絵画には何とも言えない優雅さと生き生きとして愛情に満ちた人の姿が感じられます。
ドイツのデューラーでもリアルな迫力の画力はありますが、イタリアの絵画のような気品はありません。

こんな話をするといつも私が弦楽器について話していることと違うように思うかもしれません。シュタイナーについては私は緻密で精巧に作られていると説明しています。シュタイナーは近くで見て精巧に作っているのに対して、アマティやストラディバリは何とも言えない美しさがあります。それがギリシャ的なバランスなのかもしれませんし、私がそういう風に思い込んでいるだけなのかもしれません。
南ドイツのオールド楽器では上等なものはやはり近くで見て細工が細かく精巧で丸みのカーブが丁寧に作られていたりしますが、離れて見るとなんとなく不自然な感じがします。イタリアの楽器は細部まではそこまでこだわらずに全体のバランス感覚で楽器を作っているように思えます。しかし、最高レベルの楽器の話であって、デルジェスを含め多くは安上がりに雑に作られたものです。モンタニアーナのチェロでもお世辞にも形のバランスがいいとは言えません。見た目は諦めて音が良いという機能性だけの名器です。私にとってはそのへんてこな形が面白くてニヤニヤしてしまいます。
チェロではストラディバリと並ぶ最高額のものですが私にはゆるキャラみたいなものです。
もしイタリア的な美意識の大ファンであるならイタリアの楽器でなくてはならないという人がいても私はおかしくないと思います。本当にそれが分かっているならです。
不思議なことにこれが作曲家になるとバッハやヘンデル、モーツァルトなどドイツ系の人たちばかりが評価され、ヴィヴァルディなどは軽いと馬鹿にする考えがあります。当時はローマで活躍していたアルカンジェロ・コレルリに人気がありイギリスではコレルリの代わりにローマからヘンデルがやってきて大人気となりました。コレルリはさすがに無理でヘンデルでもフィーバーになったのです。でもコレルリは今ではマニアックな作曲家にすぎませんね、残っている楽譜が少ないのが残念過ぎます。
今ではヘンデルの方がはるかに耳にする機会が多いことでしょう。モーツァルトがボローニャのアカデミア・フィラルモニカに勉強に行きましたが、先輩にはコレルリがいます。モーツァルトは古典派音楽の発明者でも何でもありません。同じ時代の他の作曲家もみなそっくりの曲を作っていました。バッハもベートーヴェンもそうです。

ドイツ音楽のファンなら楽器もドイツ楽器のファンでないというのは不思議です。それは自分で何かを感じたのではなく知識として擦り込まれているだけじゃないでしょうか?イタリア文化を理解してイタリアの楽器の良さを分かっているのでしょうか?

私がどんな楽器を良いと思っているかは、私がコピーを作りたいと思うかどうかという事にも関係してきます。関心にはいろいろなものがあります、純粋に音響工学的に興味があるということもあるでしょう。美的なことで言えばいかにアマティの美意識を理解できるかということに情熱を注いできました。それはストラディバリやグァルネリ家の下地にもなっています。私はそういう意味ではイタリアのヴァイオリンの大ファンです。
しかし現実にいろいろな楽器を見ていくと、それとは違う魅力もたくさんあることが分かってきました。オールドのドイツの楽器やフランスのモダン楽器にもそれぞれの魅力があります。音楽家が音が良いと言っていて、実際に音がよくて驚くことがありますが、ただの安物で職人としては自分の楽器の見方が狭い視野だったことに気付かされます。音響的に見ると楽器も全然違って見えてきます。音楽家の人たちとの交流によって思いもよらないことに気付かされることが多くあります。これは職人にとって貴重な体験です。

イタリアでは1800年頃になるとヴァイオリン職人が少なくなり、1850年頃にまた増え始めます。アマティの教えも世代ごとに薄まっていき田舎風の楽器が細々と作られていました。そこにフランス風の楽器製作が伝わったのがモダン以降のイタリアの楽器製作です。その中で質が低いだけのものや素人が作ったものが高価な値段になっていると私には何にも魅力を感じません。値段が高すぎることを無視すればイタリアのモダン楽器でも面白いもので木材の着色やニスの組み合わせは偶然によって見え方が違う部分が多く私は多くヒントを得ようとしています。100年程度の古さの楽器でも不思議と心地良く美しく見えるものがあり、新作楽器の製造では大いに参考になります。またミラノの流派はアマティのモデルで作っていることが多くあります。ヴィヨームやチェコのホモルカもアマティのモデルで作っていてアマティの解釈の仕方にも興味があります。

何が良いか悪いかを決めることに私はあまり興味がありません。どんなものかより知りたいという好奇心の方が上だからです。
音楽や楽器に限らずとかく作品についてやたら評価を決めたがる人がいます。大相撲のように誰が横綱でそれにふさわしいかどうかという議論です。

しかしクリエイターにとってはその時作りたいもののヒントになるようなものは皆価値があります。評価を定めるいうことは創造性の欠如です。創造性の才能が一番ない人が作品や作者の評価を定めているのですから無視して良いと思います。


買うべきじゃない楽器については、ネックがおかしいと継ネックが必要になります。継ネックの修理代を差し引いて楽器を買わなくてはいけません。
ボディストップ、つまりf字孔の位置がおかしい楽器は直すことができません。これは致命的なもので手を出してはいけません。短い方は手が小さい人にとっては弾きやすくなります。身長が2mあるとか、ビオラを弾いているので弦長の長いヴァイオリンでも問題ないという特別なケースは除きます。

あとは弦の張力に楽器が耐えられていないものです。アーチの形状が重要で裏板の中央は板が薄すぎても魂柱のところが押されてしまいます。
左右のf字孔の間隔が狭すぎるとバスバーを取り付ける位置がおかしくなります。これも嫌です。

修理が大変な損傷を多く受けているものも常にどこかの傷が開いてきます。修理は困難を極めます。
素人や下手な職人が修理したものは壊れたてのものに比べてはるかに困難です。

ネックがまっすぐに入っている楽器というのも実際には少ないです。ヴァイオリンやビオラなら変に手首をひねって演奏しているかもしれません。

外から見るとおかしくないように見えても欠陥や故障があることが多いです。文句なくパーフェクトに作られている楽器は少ないです。職人として気持ちが良いのはきちんと作られているものです。もし修理する場合でも決まった作業をやるだけです。これが粗悪品だと故障個所以外にも欠陥だらけです。その時壊れた場所だけではなく製造時の問題で直さないといけない所がたくさんあります。直し始めるときりがなく、はじめから作る方が簡単です。

そうやって職人が嫌う楽器の音が良かったりするので音楽家とは喧嘩になります。演奏家と職人はちょうど漫才師のコンビのようなものです。

職人でもさっきも言ったように美意識は人によって様々です。私が気にすることも他の職人は全く気にしません。そのようなことの積み重ねが音の違いになっているのでしょう。私は無神経な人の作る楽器のような音は出せません。音は好みであり、無神経な職人が作った楽器の音を気に入る人がいます、むしろ多数派かもしれません。だから弦楽器なんてなんでも良いと言っています。

それと、私が好きではないのは自分を立派に見せようとする人です。安物を高く見せるだけではなく、理屈を語っていかに自分の楽器が優れているか豪語したり、自分の腕の良さを誇示したり、大して腕も良くないのに誰からも文句を言われないように微妙な所を突いて作ってある楽器です。

美しいものに夢中になり我を忘れている人の方が私は好きです。