ニスのメンテナンスのあれこれ | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

夏にはこちらの人は皆何週間も旅行に行ってるので楽器のメンテナンスの期間になります。

1987年にハンドメイド作られたビオラですがこんなことになっています。

ニスが剥げて白い木材の色が出ています。


ニスのダメージは楽器ごとに違いますし、使う人によっても違います。この楽器では衝撃が加わったところのニスがペリペリと剥がれ落ちています。一つはニスに弾力が少なく硬めの場合に起きるでしょう。また下地とニスが強く結びついておらず剥がれることがあるようです。下地の処理は目止めと言われます。木材に色のついたニスを直接塗ると木材に染み込んでいきます。木材の場所によって染み込む量が違いまだらになって汚らしくなってしまいます。これはよくDIYや素人の作った家具に見られるものです。

このため木材へのニスの染み込みを防ぐために目止めが行われます。そのための材料は様々であり十分な耐久性が無かったり、上から塗るニスと親和性が低く弾くような性質の場合には剥がれる原因になります。この楽器でもその疑いはありますが、30年以上使われている楽器であればこうなっていてもおかしいことではありません。したがって塗り直すなどの対応はコストがかかり過ぎます。


補修後はこのようになりました。小さな写真ではわからないレベルです。



悲惨だった楽器も見違えた事でしょう。
ニスを塗り直すような必要はありません。

とはいえ完全に新品のように戻ったわけではありません。表面にはいまだにヘコミが残っています。完全に新品のように直すのは難しいです。しかし弦楽器というのは音楽のための道具であり、飾っておくものではありません。刻み込まれた歴史は消し去ることはできません。

f字孔の上の辺りに何やら傷のようなものがあります。これは過去に補修されたものです。私の行った補修とは様子が違います。これは白い木の色がむき出しになったときに、慌てて濃い色を塗ってしまったため、傷のところの方が他のところよりも濃くなってしまったのです。このように修理する人によっても様子が変わってきます。これもまた歴史として楽器に刻まれて行きます。古い楽器はこのように異なる時代に多くの補修を受けているので人工的に古く見せかけたオールドイミテーションよりもずっと複雑になります。

なぜこのようになるか図で説明します。一番上のようにニスがはがれたとします。そこに補修のニスを塗ります。2段目のように傷の周囲までニスがついてしまいます。これを研磨すると重なった部分を削り落とすことができますが、もともとのニスまで削れます。3段目のようにオリジナルのニスが薄くなります。こうして補修したニスのほうが色が強くなります。仕上がりに差が出るのは注意深さの差ということです。

オリジナルのニスの厚みが薄すぎるとちょっと擦っただけで色が無くなってしまい、どんどん被害が大きくなっていきます。薄すぎるニスの楽器ではいつ修理が完成するか予測ができません、手を入れれば入れるほど被害が広がっていくからです。修理代も膨れ上がっていくはずですが、そこまで請求もできずに無償労働になっていきます。薄いニスの楽器の補修は地獄です。薄いニスのほうが音が良いと言って薄くニスを塗る職人は罰として補修の仕事を自分でやってほしいものです。
実際には一番下のようにニスがはがれているだけではなくへこみ傷が木材にまで達しています。傷の深い所では補修したニスの厚みが厚くなるので色が濃く見えます。したがって初めに無色のニスで傷を少し埋めてから補修ニスを塗ったほうが良いですね。それが厚すぎると傷が白いままになってしまいます。予測はとても難しいものですし、傷が完全に埋まるまで繰り返すには何週間もかかります。それは大げさすぎると傷がついた時に色だけを付ければ目立たなくなりますが後で周りのニスが擦れて色が薄くなり、傷に汚れが入って傷が浮かび上がってきます。

一番傷が目立つのは新品の楽器についた傷です。これを直すにはとても苦労しますが、一つだけの傷なので集中して作業ができます。今回のように無数に傷があると一つ一つ異なる傷の深さにあわせて対応を変えて完璧にやってはいられません。一方で30年以上経って全体的に古びて来ていますから直しきれない傷も雰囲気にマッチしてくるでしょう。もはや新品のように修理することは諦め「古びた味」と捉えるようにするしかないですね。古いものでも大事に手入れをしているものが醸し出す古さと、ただ傷んで汚くなっている古さは違います。趣きのある骨董品としてプラスの印象を受ける場合とガラクタのように見えてマイナスの印象を受ける場合の差がそこにあります。

アンティーク塗装の楽器の場合にはずっと簡単です。傷が増えたことはより本当の古い楽器のようになったということですし、人工的にやったものと違って自然です。しかし木材の白さがむき出しになっている状態では見苦しいので、汚れが入って黒ずんだように少し落ち着かせるだけで補修は済みます。また過去に修理がされたように敢えて赤っぽくすることもできます。アンティーク塗装の楽器はガシガシ使うのには良いです。

コーナーは傷みやすいものです。直すには木材を足さないといけません。しかし早いうちに直すほど継ぎ足す木材が少なく済みます。場所によって足している木材が違います。


修理後はこのような感じです。

エッジにも木材を足しています。新しくつけた木材に気まぐれのアンティーク塗装を施すといかにも新しい木材を足したという感じがしないでしょう。ここもまたこれからも傷がつき補修を繰り返すことになります。

こちらも30年以上前に作られたハンドメイドのヴァイオリンです。赤いですね。

赤いニスですがニスが剥げて白くなっているところがあります。

年輪の線の間が白くなっていて木材がむき出しになっています。これを修理するのは厄介です。

これは表板の表面に凹凸があるため高くなっているところが擦れてニスが剥げているのです。先ほどのビオラでは全くこのようにはなっていません。
これは仕上げ方の違いによります。

表板の表面はカーブしているためやすりのような道具は使えません。そこで鋼鉄の板の角で削ります。これをスクレーパーと言い西洋独特の工具で日本の木工にはありません。床や家具など幅広く使われていました。
表板は年輪の縦の断面が縦線となって表れています。これは冬目と言い冬の間は木材の成長が遅く密度が高くなっていてその間は白くて柔らかい夏目になります。それに対して熱帯地方では年中暑いのでラワン材のように年輪がはっきりしません。特に針葉樹ははっきりとした年輪ができ板にすると縦線になります。
スクレーパーでこれを削ると柔らかい夏目の部分は押し潰れてしまいあまり。削れません。一方硬い方の冬目は鋼鉄によって削り取られます。夏目のところはスポンジのように柔らかすぎて削れないのです。それで硬い冬目が溝になります。
それに対してビオラの方はそのあとサンドペーパーで仕上げてあります。サンドペーパーは柔らかい夏目が削れやすいので表面がつるつるになります。昔はサンドペーパーは無いのでオールド楽器ではそのようになっていたと考えられます。しかし数百年の間にも溝は汚れや補修ニスで埋まり、完全にニスが剥がれ落ちてから擦られて柔らかい夏目の部分が摩耗して当時の表面は残っていません。木材は暗く変色し、ニスが剥げたときに汚れが浸透しています。ニスの表面にも汚れがついていますので、このように真っ白になっていることはありません。
サンドペーパーで仕上げるときれいすぎるのでアンティーク塗装としてこのような処理をすることがよくありますが、実際のオールド楽器ではそのようになっていないことがほとんどでしょう。

今回のビオラと赤いニスのヴァイオリンはいずれもアルコールニスのようです。アルコールニスはアルコールに樹脂と色素を溶かしたものです。塗るときはさらさらした液体でアルコールが蒸発すると固形物が残り固まる仕組みです。アルコールニスは一日もすれば次の層が濡れるくらいには固まります。小さな面積の修理であれば1時間に一回くらい塗ることができます。新作楽器でも一日2回は濡れるでしょうか。アルコールニスが難しいのは塗るとそれまで塗った下の層を溶かしてしまうことです。筆や刷毛についたニスが多すぎて垂れてしまったりすると過去に塗った部分まで溶けて大惨事になってしまいます。オイルニスに比べて色ムラができやすいのですが、仮に失敗しても乾いていないニスをいじってはいけません。
表面には刷毛で塗った跡がつくので表面を耐水ペーパーや磨き粉で研磨しないといけません。このため木材の表面に凸凹があると高い所が削れて白木の色が出てきます。

ニスが乾くというのは表面が硬くなって触っても指紋などがつかなくなることですが、まだまだアルコール分は蒸発しきってはいません。それには何年もかかります。当初に比べるとニスが薄くなりデコボコのある仕上げになっていると擦れて白木が出てきます。ニスが無い所が出てきますので磨いても光沢が出ませんし、楽器を保護する効果も無くなります。回数を多くし時間をかけてニスを塗らないと十分な厚みになりません。
同じことはオイルニスでも全く起きないことはありません。むしろ顔料を使う手法が流行しています。染料というのは色素が溶け込んでいるもので、顔料は粉末が混ざっているものです。これは油絵の具のようなものです。薄い層で濃い色が付きますが、擦れるとすぐに色が剥げます。短時間で楽器が作れると業者にとっては安く入手出来て高く売れるので「天才」と映るわけですが修理するには地獄です。

有名な作者でも何でもない楽器でもこのようにメンテナンスを施して使い続けることでいつしか鳴るようになっています。急いで雑に作られたものならそもそも汚らしい印象なのでメンテナンスする意味もないかもしれません。正しいお金の使い方を理解してもらいたいものです。
新作楽器では鳴るかどうかではなく、音の質や性格が大事だと思います。中古楽器には無い種類の音のものなら新作楽器を作る意味があるでしょう。新作楽器で音に欲張りすぎることは弊害も起こすことでしょう。