ニスの掃除 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。


以前ネックが折れたチェロがありました。

膨大な作業の修理が必要です。

ニスを塗るのに1か月くらいかかってしまいました。問題は本体と全く同じ色にするのが難しいということもあります。同じ色のニスを作っても、木材に着色されていたり、木材が古くなっていると見え方が違ってしまいます。
今回は濃い赤茶色で、量産品なので人工の合成染料で作られていることでしょう。チェロくらい面積があるときれいに塗るのは難しく、形が複雑な立体になっていて塗りにくい所です。
また仮に塗れたとしても、層が薄いと擦れたときにすぐに剥げてしまいます。オリジナルのニスはスプレーを使っているのでしょう、赤茶色の上に無色透明のニスが分厚く塗られています。だから衝撃を受けたエッジ以外は徐々に色が薄くなることがありません。
厚い層にするためには塗る回数が必要です。アルコールニスを綺麗に塗るためにはできるだけ乾いてから塗ったほうが良いので一日に塗る回数を少なくしたほうが良いです。

特に難しいのは新しい木材との継ぎ目で、一度塗った後で剥がしてやり直しました。これで1か月もかかったわけです。ネックの部分のために作った同じ赤茶色のニスでは赤過ぎました。ネックがほぼ終ってからさらに色を変えて塗ったのです。

製造時は工場ではスプレーでシャッと終わりなんでしょう。しかし私はあくまでハンドメイドの楽器の作り方で修理をしているのでそんな技術がありません。量産品で分けていたら必要なニスや技術が多くなりすぎます。そうなると高級な方の技術を応用することになります。それで修理代も高くなってしまうわけです。

自動車のように塗装の修理専門で工場が分かれていれば、安くできるかもしれませんが職人の人数が少ないのです。修理が儲かるとならないとそんな細分化もできません。


学校の決められた時期になると中高生が職場体験のため1週間(5日)来ます。始めはレンタル用の楽器の付属品を取り外して掃除をしてもらいます。痛みが激しい楽器は社員が直します。
ヴァイオリンを掃除させると30分くらいで終わります。私がやると場合によっては2時間くらいかかります。職人の訓練を受けたほうが仕事が遅いというのはおかしいですよね?

なぜそんなに時間が違うかと言えば、私はきれいになったか見ているからです。
つまり生徒は台所のテーブルを拭くくらいの感じでやってるのです。


音楽学校の楽器を掃除する仕事です。音楽学校のものにしては戦前のマルクノイキルヒェンの量産品で中級品はあるでしょう。アンティーク塗装の手法がヴィヨーム風です。当時のドイツの楽器製作はフランスから伝わったのです。
40万円位はするでしょう。音楽学校の楽器としては高価なもので今では考えられませんが、いかんせん修理予算がありません。できるのは弦の交換と掃除くらいです。
マルクノイキルヒェンの量産品は独特のラッカーが塗られています。普通ラッカーは耐用年数が数十年で乾燥してひび割れが出てボロボロになってしまいますが、このラッカーは驚異的な品質で100年ほとだった今でも何ともありません。ギターの世界では高級とされているものです。

酷く汚れた楽器は台所用のクレンザーでガシガシ擦っても大丈夫です。

一通り掃除したつもりになっていても、f字孔の周辺と溝のところに汚れが残っています。こういうことを生徒は分かっておらずただ撫でただけです。

表板には松脂が付着しそこに汚れがくっつていきます。そもそもその様子をアンティーク塗装で再現したものでした。作ったときから黒くなっている所と、汚れがついている所の違いが分かるでしょうか?写真では青っぽくなてるのが汚れで、黒い所はアンティーク塗装で初めから塗られたところです。

汚れ自体は古さの趣きになっていきます。しかし、楽器を磨いてピカピカにするときにこれがついていると光らないのです。

汚れが残っている所を重点的にきれいにするとさっきよりもきれいになっています。

さらに磨くと光沢が出ます。

職人の差はこういうところに出ます。
30分で掃除が終わる人と2時間かかる人では修理代が4倍も違うことになりますが、実際にはそこまで価格に差がつかないでしょう。楽して儲けている人と、勤勉に働いて損している人がいるわけです。

今の世界はいかにGDPを上げて経済を発展させるかという時代ですから、30分で掃除が終わる人の方が優秀です。仕事ができるカッコいい人です。

裏板も掃除前です。

次は掃除後

ニスの補修ではなく掃除しただけです。
20年以上やってもずっと掃除の仕事です。これが修理では一番多い仕事です。

掃除をするときに光の加減を変えるためにいろいろな角度で見ます。汚れが残っていないか、光沢が無くなっているところがないか確認しています。その時、割れとか接着の剥がれなどが見つかるので重要な仕事です。ネックや指板が外れかかっていると作業のために持った時に、微妙な違和感を感じます。

普通の産業なら出世したら掃除なんて儲からない仕事は下っ端にまかせたり、パートの業者に外注したりするのでしょうけども、いちいちやっているとお金持ちにはなっていきません。うちでは掃除は駒や魂柱交換などの修理をするとサービスでやっていました。未だに曖昧な所です。いかに効果的に掃除するかは今の関心ごとです。ああでもないこうでもないとそんなことに夢中になっています。

ザクセンのニスは丈夫なので量産品ならガシガシ行きますが、それでも磨き傷をつけると厄介です。細心の注意が必要です。

掃除だけでも見違えるものです。

なぜ弦楽器はピカピカにしなくてはいけないのかも分からない所ではあります。しかし靴磨きと同じでピカピカになっていると仕上がったということです。靴職人でも靴磨きを極めるのに傾倒している人もいるでしょう。

楽器によってやり方が毎回違うので難しいです。特に厄介なのが擦ると色が剥げてしまうものです。ニスというのは、透明で厚みを稼ぐ成分の樹脂と、色素でできていて、塗るときには溶剤で薄められています。溶剤は揮発すると無くなってしまいますので、厚みが薄くなります。樹脂が十分にないと色が固定されずに剥げてしまうのです。掃除して汚れを取ると色まで取れてしまうのです。このようなものは個人のハンドメイドの楽器に多いです。量産品ほどタフではないにしてもとても高級品とは思えません。

工場見学できた人たちは、ニスの話をすると音について興味があるようです。しかしニスで大事なことは①作業効率②耐久性③見た目、そして4番目くらいに音となります。音以前に工業製品として売り物になるレベルのものを作ることがとても難しいのです。図画工作や現代美術レベルのクオリティのものは、メンテナンスをすることすらできません、罰として作った本人にやらせてください。私は触るのも嫌です。

オイルニスの場合には油がつなぎのような役割を果たします。無くなりはしないけどもそれ自体は樹脂ではないので強度のしっかりした厚みを構築するほどにはなりません。油絵の具をキャンバスに固着するくらいの粘着力はあるでしょうが、油彩画でもその上に透明ニスを塗らないといけません。そのあたりは楽器用のニスと共通していますが、画家の方が昔の画溶液の製法を知りません。

このようなオイルニスは古くなると光沢が出ないものが多くあります。過去の修理で上から透明なニスを塗ってある場合があります。それがはがれているところがあると、木材がむき出しになっているわけではないのに光沢は出ません。なので透明なニスを塗らなければいけません。そのニスの開発もしているところです。毎年、ちょっとずつ成分を変えています。
汚れの上から透明ニスを塗ると取れなくなります。それが古い楽器の姿です。そんなことで古い楽器の様子は一台一台違います。

そのため楽器ごとのやり方を見つけるのにも何日もかかるし、一日にニスを塗る回数が少ないほどきれいに仕上がります。ピカピカにするだけでも2週間とかあると助かります。ニスをいじるとなると最低1週間は見て欲しいと思います。面積が限られているとはいえ十分なニスの厚みを稼ぐには新作楽器と同じ回数ニスを塗らないといけません。一か月くらいは必要な所を工夫してそれだけかかるのですから。新作楽器ならさらに最低1か月は乾かさないといけません。


修理で難しい所は、新しく塗ったところはピカピカに光るのに古いニスのところは光らないのです。一か所補修すると他を全部ピカピカにしないといけません。最初のチェロもそうです。
でもネックが折れたらショックでネックのことしか考えていなくて、ニスをピカピカに磨く費用なんて頭に無いことでしょう。チェロの掃除にかかる作業時間は膨大です。それもサービスなの?という怪しい所です。
本来なら掃除に5万円請求すべきでも、お客さんにその覚悟があるでしょうか?

掃除について持ち主本人にできることは、演奏した後で乾いた布で松脂を拭きとることです。この時硬い粒みたいなものが布についているとひっかき傷になるのできれいなものを使うようにしてください。
演奏する前に手を洗うことも習慣づけてください。

一時帰国をした時パソコンの画面を拭くような布を探して電気屋を駆けずり回って見つけられなくて憤慨したことがあります。
結局100円ショップで見つけました。大きいもので常に新しい部分で拭けるものが良いと思います。原価が微々たるものなので100円ショップでないと扱えない商品なのでしょう。
こちらで弦楽器用に発売されているものはろくなものがありません。

本格的に掃除するには弦を降ろす必要があります。この時魂柱が倒れることがありますし、正しい位置に駒を立てなければいけないのでプロに任せるほうが良いです。