ネックが折れてしまったヴァイオリン | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

前回のギュッターのヴァイオリンです。

ペグボックスの中は本体と同じニスが塗られています。ペグボックスの中はほこりなどがたまりやすいものです。置いておくだけでも埃が入ってしまいます。

ストラディバリはおそらくペグボックスの内側にはニスを塗っていなかったのではないかと思います。しかしテノールビオラのように規格外でほぼ未使用で保存されているものでも、汚れがたまり木材も古くなっているので黒ずんで見えます。
したがってほとんどのストラディバリなどのオールド楽器は真っ黒に見えます。汚れがたまっているからです。さらに、穴を埋めたり継ネックをしたりしたときに、新しい木材を足すと白木が目立ってしまいます。そこで黒っぽい色を塗るのですが、その時に一緒に全体を塗ってしまうこともあるでしょう。黒い色というのは意外と色を合わせるのが難しいのです。光を多く吸収すれば黒くみえますが、青っぽかったり、緑っぽかったり、赤っぽかったりするのです。

これはニコラ・ガリアーノのものです。黒っぽく塗ってあります。茶色系です。おそらく修理の人が塗ったのでしょう。埃も見えます。その黒い色も剥げていて塗りたてホヤホヤという感じではありません。
作られた段階では内側の加工が荒いことがあり、仕上げ直したり、ペグが太くなると弦が突っかかってしまうことがあり、底を彫り直すこともあります。その時にも塗り直します。

現在では一番安い中国製のものには、中が塗っていないものがあります。それ以外は何か塗ってあります。

一番基本的なのは、本体と同じニスを塗る方法でしょう。ハンドメイドから量産楽器まで多くの楽器で行われています。またアンティーク塗装では、古い楽器のように濃い色にする必要があるでしょう。この時、上手く汚れの色を再現していることの方が珍しく、不自然な色になっていることも多いです。簡易的なアンティーク塗装なら、本体と同じニスを厚めに塗って色を濃くすることもあるでしょうが、真っ黒にしていることもあります。しかし自然な汚れはピアノ塗装のような完全な黒ではありません。塗りたてホヤホヤのような感じも不自然ですが、19世紀のものならすでに弦が擦れたりして剥げて来たり、埃が積もったりしてだいぶ自然に見えます。

19世紀終わりの各国のモダンの作者でも、本体と同じニスを塗っていたり、黒い色を塗ってあったり、茶色に塗ってあったり様々です。同じ人でも楽器によって違ったりすることもあります。1000万円を超えるようなものでも人によってバラバラです。

特に特徴的なのは戦前のチェコのボヘミアの楽器です。バーントアンバーのような赤茶色の顔料を使っています。修理の時にはこれを使えば良いのですが、バーントアンバーの顔料でもメーカーによって色味が違います。これは土からできている顔料で、焼くことで赤くなっています。植木鉢やレンガのように土を焼いて赤くなったものです。しかし、汚れの色とはだいぶ違うようです。
ボヘミアの有名なマイスターがそうしたので弟子や工場でもそれに従ったのでしょう。他の流派では統一されていることは珍しく製品によってバラバラです。ボヘミアでも違う場合がありますのでそれだけで楽器を見分けるのは危険です。

顔料は絵の具の材料ですが、画家は完成されてチューブに入っているものを買いますから、今ではほとんど売っているところがありません。イギリス、フランス、ドイツなどに一社ずつくらいあるような感じです。日本では多く色が揃っているところは無いです。もちろん日本画のものは別です。
顔料自体は様々な工業分野で使われるために製造はされているでしょう。しかし材料ごとに作っている場所が違うはずです。それを小分けにして揃えて売っている会社が少ないというわけです。

それに対して染料というものがあります。これは液体に色素が溶けているものです。ニスは染料で色を付けると、透明度が高く、顔料ではペンキのようになります。

染料には天然の染料と人工の合成染料があります。量産楽器のニスを補修するときには合成染料を使うとそっくりにできます。染料を直接木に塗りこむと色が染み込んで「染める」ことができます。にじみなどができて汚くなってしまうこともあります。どうせ真っ黒にするなら染めてしまったほうが早いでしょう。

真っ黒に塗られていても、つや消しでマットになっているのなら、黒い塗料を直接木に塗りこんであるかもしれません。


このようなヴァイオリンが持ち込まれました。あちゃ~ですね。

ネックが割れています。
これは製造上の欠陥ではないでしょう。強い衝撃が加わると天然素材のネックでは耐えきれません。ネック自体は胴体にしっかりと接着されていたために、ネックが折れたのでしょう。接着が悪ければネックが外れていたことでしょう。その時に裏板のボタンと呼ばれる突起まで一緒に壊れてしまいます。どっちにしても大変な修理になります。

修理は技術的には可能です。
しかし問題は経済的なことです。
量産楽器の場合には修理代が楽器の価値を超えてしまうことがあります。そうなると別のものを買った方が良いということになり、楽器は寿命を迎えることになります。
高価な楽器であれば全く問題ありません。ストラディバリなら修理代などは誤差のようなものです。

簡単に修理できないかとなるわけです。そのまま接着剤でつけてしまうことが行われます。しかし割れた面を見るとデコボコが繊維によって入っています。これはやってみるとパズルのピースのようにはピタッとは合わないです。
接着剤でつけて、木ネジなどで補強されることもあります。しかし、ネジと木材では硬さが違うため、ネジを中心にぐりぐりと周辺がつぶされて行き、だんだんグラグラするようになっていきます。本棚なら棚が落ちなければ良いのですが、グラグラするとチューニングが不安定になってしまいますので、弦楽器としては問題です。
チェロやコントラバスのほうがこのようなトラブルは起きやすいのですが、修理にかかる費用は何倍にもなります。

そのようなものを中古品で知らずに買ってしまうのは大変な失敗です。ネックが折れてくっつけてあるようなものは修理代を差し引いて値段を考えないといけません。

弓の場合には終わりです。
修理方法は確立されておらず、折れて接着されたものは価値がありません。
コレクションや資料、実用品としてそれでも欲しいという人はいるでしょうから買う人がいないということはありませんが、財産の価値が無いと私のいる国では判断されます。

ヴァイオリンの場合には直すことができます。安上がりに直す方法は業界として確立されていません。高価な修理方法は確立しています。安い楽器の修理専門の業者などがあれば良いのですが、当然儲かりません。ギターを修理する業者が少ないのは、ヴァイオリンに比べると楽器自体の価格帯がはるかに安いからでしょう。

一方しっかりと修理すれば、楽器の機能は全く損なわれません。それどころかネックの角度が下がっていたものは直り、ネックの長さや形状なども理想的にすることができます。音響上も演奏上重要な部分です。

きちんとした修理をすると時間がかかり、時間当たりの工賃が加算されて高額になります。きちんとしてない修理をする業者なら安くしてくれるかもしれませんが、大丈夫なのでしょうか?

仕事の水準を高く設定していると、量産楽器だから低くても良いというのは難しいです。これは職人の性というのもあります。

社会の側から見れば高いクオリティで早く仕事ができれば優れた職人ということになります。私もたびたび弦楽器職人の才能として、「細かいことが気にならず大雑把に仕事ができる人」と書いています。お客さんは音にしか興味が無いからです。やっつけ仕事ができる人が「天才職人」でしょう。

こちらでは労働者の待遇改善を求めてデモを起こしています。今の争点は週休3日とかでしょうか?若い世代はワークライフバランスを重視し、労働時間を短くするように考えています。
それを実現するためには、ネックが折れたら中国製の新しい楽器を高い値段で買ってもらうしかありませんね。弦楽器以外ではそうなっています。
いくら、待遇が改善しても粗悪品に囲まれて暮らすなら豊かになっているのでしょうか?

これは、日本人の多くの人が職人に求めるものとは違うと思います。
私もきっちり仕事をしたくなってしまうので弦楽器職人の才能が有りません。きっちりやってもできるだけ急いだらどうだと思うかもしれません。しかし大慌てで仕事をして欲しいと思うでしょうか?

良い仕事をするほど貧乏になっていくものです。


まずペグの穴を埋めます。
新しいネックを継ぎ足すと同じ場所に穴をあけるのが困難だからです。ペグの穴は大きくなりすぎていませんから、今回は二つだけで十分です。これも精密さのいる仕事です。

それから指板を新しくしました。これは必須ではありませんが、指板交換のタイミングに来ていればついでにやったほうが効率が良いです。指板交換だけでもなかなかの修理です。


ノコギリで切っていきます。四角いものではないのでハッキリと切断する場所や寸法を予測できません。



3つの面を完全な平面に加工します。これも工具をずっと改良してうまくできるようになってきました。また接着面も立体パズルのようなものですね。ペグボックスやネックの形状などによっても一台一台様子が変わってきます。
最初に答えが分かっていれば良いのですが、やりながら最終的な形が分かっていくので、時間がかかってしまいます。こればかり仕事をしていれば良いのでしょうが、ヴァイオリンの継ネックは一年に一回もありません。

冒頭の話で言うとペグボックスの内側は黒く塗ってありますね。

意外と大変なのは新しいネックの方です。

完成時の寸法をあらかじめ予測するのは難しいです。
寸法が足りなくなればやり直しですし、余分が多すぎれば作業に時間がかかってしまいます。

両側をきっちり合わせることができました。ネックの方も意外と難しくて三つの面を正しい角度にしないといけません。平面に加工できることは基本中の基本ですが、それすら他の木工ではできないレベルです。

本当に合っているかどうかは見ることはできません。しかしうまく合っていないと押し付けたときにギチギチきしむ音がします。無理やり接着して割れてしまったら修理してるのか壊しているのかわかりません。どれくらい雑にやっても大丈夫なのかのノウハウがないため、念のために安い楽器でもきっちりやります。

接着面が合っているだけでなく、ネックの方向が合っていないといけません。

どこも隙間もなくぴったりと接着することができました。これで一つの木材と同じことになります。


こちらも意外と大変です。
新しいネックとは接着面が合いませんから埋め直します。

この時埋め込む木材の繊維の向きに気を付けないといけません。この木材は矢印のように繊維が走っています。黒く塗ったところを落として面と合わせないといけません。木材は繊維の方向に逆らって切削加工するのが難しいからです。

写真で見えるのは年輪の線ですが、繊維の向きはそれではありません。

横板の部分は別の材料でできているのでそれを足します。

これを埋め込むことでネックを接着する土台ができます。

表板も埋め直します。ネックの方もこれで新作楽器を作る時と同じ状態になりました。新作楽器が作れるのは修理をするために必要な基本的な能力です。新作楽器が作れないのに修理だけができるということはあり得ません。楽器の製造の上に修理の技術があるのです。この時自分のやり方ではなく、作った職人の考えを理解しないといけません。いくら腕が良くても、自分以外の時代や流派の楽器作りを理解していないといけません。私はこのことをすごく気にしますが、気にしない職人の方が多いでしょう。

そんなことも政治のような社会全体のシステムでは無視されることでしょう。正論なんて聞いてもしょうがありません。

ネックを入れるのも難しい作業ですが、そのあとネックを加工するのも仕事の量は多いです。特にチェロの場合には接合面の加工よりもはるかに時間がかかります。
その後ニスの補修もあります。
新しい木材を足した部分は他と同じようにしないといけませんし、傷や損傷もあります。

このヴァイオリンは量産楽器ですが、昔のザクセンのものでしょう。しかしすごく荒いということもなく、ひどく手を抜いた個所もありません。板は厚めの感じですが、ハンドメイドのものでもよくありますから、量産品だからという事でもありません。
特におかしい所は無いので、上手く演奏すれば楽器として標準的な能力は発揮されると思います。レッスンを受けて練習することは十分できるでしょう。このため、このような修理をする値打ちはあるかなと思います。

かつては安物として馬鹿にされた量産品でも比較的良質で古いものは貴重になってきました。エコの観点から見ても修理して使うことは望ましいでしょう。今なら、楽器の値段より修理代が高くても愛用の楽器を直す意味が出て来たと思います。

先日はヴァイオリン教師の人が生徒のためにと量産ヴァイオリンを選んでいました。自分の趣味で楽器を選んで押し付けるのは先生には多いです。客観的に考えられる人は少ないですね。
さすがに何を弾いてもきれいな音を出します。聞いていると量産品だから荒々しい音という感じではありません。やはり弾く人のほうが楽器よりもはるかに重要です。そんな人ですから、音の美しさを言っていて、とにかく音量で選ぶという感じではありませんでした。
それでも10本以上ある中から選んでいましたが、どれか一本だけがずば抜けて優れているということはありません。悩んだ結果5本選んでいました。新品のルーマニア製のものが3本と古い東ドイツとチェコのものが1本ずつ選ばれていました。必ず古いものが優れているというわけでも無いようで、新しい楽器を高く評価していました。弾ける人なら古い楽器ならではの鳴りの良さはそれほど重要なことではないのかもしれませんね。