ニスの気泡、裏板の割れ、駒の割れ | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

1月はわりと暖かったのですが、2月になって氷点下10℃近くまで下がったりしました。ペグが緩んでしまって楽器が持ち込まれることが多くありました。温度よりも湿度の影響です。暖房により空気が乾燥するとペグの穴が大きくなってペグの方は縮みます。ほんのわずかですが摩擦が足りなくなり弦が緩んでしまいます。ペグは円錐状になっていますから緩くなっても押し込むことで締まるはずです。それでもペグが緩む場合は、黒板で使うチョークを接触する部分に塗りこむとブレーキになります。これは応急的な処置です。また夏になるときつく動かなくなるかもしれません。
ペグが摩耗していたり、テーパーが正しくないとチョークだけでは無理でペグを削り直したり交換する必要があります。

よく今日のチェロ奏者はスチール弦でテールピースのアジャスターだけで調弦しペグを使用しないために季節の変化に対応できないことが言われます。しかしバロックチェロまで持ち込まれたくらいで気温の変化も大きかったです。

温度によるもう一つの問題はニスです。
夏に熱い車内などに楽器を置き忘れて、ケースにべっとりくっついてしまったり気泡が生じたりすることがあります。冬にも暖房の近くに置いたせいでニスにトラブルがありました。


これは天然樹脂のアルコールニスで熱くなったため気泡ができてブツブツが生じたものです。

気泡はニスの一番下まで膨らんで穴になっています。これを修理するのは大変です。
なにしろ直し方も確立してないのですから。
やってみたのはアルコールを刷毛で薄く塗りました。そうすると溶けて穴が埋まっていきました。しかし完全には埋まらず穴のところを狙って筆でニスを塗っていきました。大きな穴は埋まりますが、細かい穴が無数にあるため気が遠くなります。そうなると全体にニスを塗って研磨することになります。この楽器はうちの会社で作ったものなので同じニスがありました。それでもなかなか穴が埋まりませんでした。研磨するとニスの層が薄くなり色が薄くなっていきます。裏板の微妙な凹凸によってニスの削れ具体に差が出てまだらになっていきます。それを直しながらニスの層を足してまた研磨するというのを繰り返して3週間はかかったでしょうか?
ニスを塗ってから研磨して穴が埋まったと思っても乾くとニスが痩せてまた穴がもどってしまいます。そのため完全には直せてはいません。
修理後は・・・


良しとしましょう。未熟な人が仕上げたものだったので、全体としては新品の時よりもきれいになっています。修理したところだけきれいになりすぎてしまうと違和感があるので他の部分も仕上げ直しました。それは自社製品に対するサービスであり保険会社には請求できません。


でも多少は名残があって、完全に新品にはできません。研磨したときに研磨剤が穴に入ってしまって歴史が刻まれています。同じはずのニスもちょっと違うような気もします。本当にそのニスだったのかも怪しいです。
6万円位は修理代がかかっています。

このような気泡はかつては作業場の照明に白熱電球を使っていたころはやってしまっていました。チェロで魂柱を交換するときに中を照らそうと照明を近づけすぎると電球の熱でf字孔の周辺に気泡が出てしまうのです。
新しくニスを塗っている時には日向に置いただけで気泡が出てしまうこともありました。それはニスにアルコールが多く含まれていてそれが気化して気泡になったからです。
私が今使っているオイルニスではそこまで熱に対して弱くありません。作る過程で数百℃に加熱しているからです。塗りやすくするために油性の溶剤は入れていますが揮発性のニスとは溶剤の分量が全く違います。オイルニスは真夏の直射日光を受けて固まるものです。

ニスの質によっても耐熱温度が違うということになりますが、一般的に温度が高いとニスは柔らかくなります。身体が触れたり息がかかったりしますのでそれくらいには耐えられる材料でニスを作らないといけません。

裏板の割れ


温度は関係ありませんが裏板に割れが生じたヴァイオリンがありました。

放置しておけば傷が広がって被害が大きくなります。早いうちに直したほうがきれいに仕上がります。

割れた箇所を接着し木片で補強すれば良いです。修理法としては確立していて作業の費用が掛かるだけです。
裏板か表板を開ける必要があります。もちろん補強するためですが、接着するときも段差ができないように両側から作業できるとしやすいです。
この前は魂柱パッチをつけましたが、魂柱とは関係のない所なので修理はずっと簡単です。
しかしこの楽器は音楽学校の所有で修理代をどうするかが問題でした。
保険の手続きが完了したようなので修理を開始しました。時間がかかったのはおそらく楽器の保険ではなく学校全体の保険でしょう。

ラベルにはマックス・バーダーが所有するJ.A.バーダー&Coという会社の製品であることが書かれています。年号は1904年で、バイエルン王国のミッテンバルトの工場です。

明らかに工場製品、つまり量産品ではありますが、修理して使うだけの価値は十分にあります。

修理後にも傷はかすかにわかります。しかしそこに傷があると知らなければ気付かないでしょう。その部分のニスを全部剥がして塗り直せば傷は目立たなくなるでしょうが、そこだけニスの質感が変わってしまいます。

マルクノイキルヒェンに比べるとミッテンバルトの量産品は数が多くありません。20世紀初めの楽器でニスはオレンジ色です。

コーナーの四角い感じにはフランスの影響が感じられます。クロッツ家など伝統のミッテンバルトのオールドとは全く作風が違います。こうやって見ると傷はほとんど分からないでしょう。

アーチもフラットです。

スクロールは繊細な感じがしますが渦巻の外周の形は歪んでいます。
市営の音楽学校がこんな楽器を所有して生徒に貸しているというのは贅沢な話ですが、これは寄付された楽器なのだそうです。


開けてみると中は外観よりは汚い感じがします。

バスバーは過去の修理で交換されているようです。しかし仕事が汚らしくはみ出た接着剤は木工用ボンドのように白いものです。


表板は過去の修理も汚かったので木片を新しくしました。新たな割れも発見し接着しました。

板の厚みは厚めでこれも20世紀を先取りしたような楽器です。流行のようなものがすでに始まっていたようです。作業した人が面倒なので薄くするところまで仕事をしなかったのか、上からの指示でそうしたのかはわかりません。作業員の手抜きもありますし、コストの計算から手抜きをするように上が指示する可能性もあります。厚めの板厚が良いと考えて指示したかもしれません。いずれにしてもどうしようもないほど厚くはなく「厚め」というギリギリの感じです。20世紀の楽器ではハンドメイドのものでも見られるものです。職人ごとに考え方が違うため、厚いものが良いと言う人がいますし、「普通」も人によって違います。考え方は人それぞれです。私は音が気に入ったものを選べば良いと思います。正解を決めるのではなく選択の幅があることが消費者にとって望ましいでしょう。少なくとも厚いものは珍しくはありません。

値段は難しい所ですが量産品では上級の扱いになると思います。裏板の材料などは上級ではなく決して高級品とは言えないでしょう。4~50万円位でしょうか。
後日全く同じラベルで年数がわずかに違うものが来ていました。これも見た目がそっくりで自社工場でちゃんと製造していたようです。音は明るく豊かに響いていました。こんなものでも新作楽器より鳴る感じはすると思います。明るく豊かな響きの中に刺激的な音も含まれているという感じでした。ひどく荒々しい音ではなくすごく柔らかい音でもありません。どこの国の楽器でも板が厚ければ明るい音がします。政府が厚みを強制することはできませんので音も国によって定めることはできません。

駒の割れ


別のヴァイオリンでは駒を新しくしてほしいと依頼がありました。

こんな楽器です。いくらくらいするものでしょうか?フランスのような決まりきったストラドモデルではなく個性があります。f字孔も独特で印象深い「顔」があります。ニスもスプレーのような感じではなく手で塗った感じがします。

フランスのようなカチッとした感じではなく全体に柔らかな印象です。ニスは赤茶色で落ち着きがあります。コーナーは先が細く外側に向いていています。


スクロールも完璧すぎず手作りの味があるように見えます。


正解はマルクノイキルヒェンの大量生産品で、1900年よりもちょっと古い感じがします。完品なら25万円位はするでしょうか?ただしネックが下がっていて修理が必要で10万円はマイナスしないといけません。表板のコーナーも大きな損傷を受けています。数万円はかかるでしょう。価値は10万円も残らないでしょう。
お手本通りにストラドモデルが作れていなかったようです。さっきのミッテンバルトのほうが品質が高いのが分かるでしょうか?だから修理する価値があると言えるのです。



作業を始めるとA線とE線の弦が逆向きに巻いてありました。このため弦を緩めようとすると逆に張ってしまうのです。ペグの回す向きが逆になっていました。D線とG線は通常でした。弦を交換するときに間違えてしまったのでしょう。それが駒が割れてしまった原因なのかは聞きませんでしたが誤って駒を倒してしまい割れてしまうことがあります。

ともかく様々なトラブルがあるものです。

また、市営の音楽学校というものがそもそもあるということですけども、楽器を所有してレンタルもしているというのは教育環境が日本とは違いますね。
年々経営は厳しくなり別の学校では中国製の安価な製品を購入し、ペグの具合も悪くレッスンの時間の多くを調弦に費やすなど失敗したケースもあります。