音だけでチェロを選ぶとどうなる? | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

一般的に工業製品を買う時、同じメーカーでも安い製品や高い製品があります。使われている部品や、仕組み、機能、容量やサイズなどが違うので値段が違うのも納得することでしょう。

心配性の人は高い製品を買った方が安心ですし、上級者の人は実際の使用で使わない機能が分かっています。

弦楽器についても、理想通り作られた高級品と価格を抑えるために合理化されて作られたものがあります。

オーディオ製品なら部品を付け替えて実験することで部品のグレードが高い方が音の劣化が少ないと分かっていて、最終的に販売する製品の値段を考えて部品のグレードを選択するということがあるでしょうが、弦楽器の場合には、音が良いか悪いかもよくわかっていません。
つまり高コストの方法で作ったほうが低コストで作ったものよりも音が良いかどうかも分かっていないのです。

製品の価格のために、音を犠牲にしているかどうかもわからないのです。
例えば安い木材が、高い木材よりも音が悪いかどうかも分かっていません。妥協して安い材料で楽器を作って音が悪くてがっかりしたような経験を我々職人はしてないのです。だから、実際は分からないです。

それに対して苦労して作ったのに材料がチープだと安っぽく見えるので高い材料を使っておけばよかったと後悔することはあります。あくまで見た目です。

職人の楽器の見方というのは美人コンテストのようなところがあります。音楽家は美人である必要はないでしょう。それと同じで楽器も美しい必要はありません。
商業的には美人音楽家の方が売れやすいかもしれません。それも楽器も同じです。

それに対して音にこだわって音のことを分かっていると思い込んでいる職人も多いです。師匠に教わったことや自分で考えたことを検証しないまま信じ込んで分かった気になっている人が多いでしょう。実際には分かっていないのです。


とはいえオーディオ製品もカタログなどにどれくらい音が良いかということは書いていません。豪華な部品を使っていますよと書いてありますが、それがどんな音なのかは書いていません。本当にそれが耳で聴き分けられる差なのか、間違った方向への変化ではないのか、ネットの時代になっても疑う人は少ないようです。


さて、弦楽器を見分ける3者のプロがあるという話を時々しています。音楽家、楽器商、職人の3者で全く選ぶ楽器が違います。これだけでも楽器の良し悪しの意見はバラバラになりますが、音楽家や職人同士でも好みの違いが大きいです。このため誰にでも共通する楽器の良し悪しというのは無いのです。

それに対して楽器商は「お金」という共通の好みを持っています。最近では投資目的で楽器を買う人も増えてきています。この場合は個人の趣味趣向ではなく、お金で考えるべきです。当ブログではそれに関しては触れません、私はその道のプロではないからです。お金は音とは関係がありません。音を値段に換算する仕組みが無いからです。


音楽家が楽器を選ぶ時、我々職人とは全く違う選択をするので驚かされることがよくあります。したがって音楽家の求めるものを知るべきです。偉い師匠の顔色や言うことではなく、お客さんの表情や言うことが重要なのです。このような謙虚さこそが職人に必要なのではないでしょうか?

チェリストのチョイス

音大を卒業された若い演奏家の方がチェロを探していました。予算は2万ユーロくらいということで260万円くらいです。その時点で日本の中高生のヴァイオリンのほうが高いですが音大を出てから楽器を買うというのがヨーロッパの人らしいです。

チェロは高いので2万ユーロではハンドメイドの高級品は買えません。一方現代の量産品は機械で作られているので1万ユーロ以上出す根拠がありません。そこで、私は量産工場で作られたものを改造したり、古い量産品を修理したりしています。一方中途半端なハンドメイドの楽器はハンドメイドという事実があるだけで、音について満足できないことも多いです。量産品よりもお手頃価格のハンドメイドのチェロのほうが売れ残っています。だからチェロなんて作らない方が良いとなってますます音が良いハンドメイドのチェロが少なくなります。

そうやっていますが、うちにあるものはどれも気に入らず、様々な楽器店や工房を訪ねてチェロを探していました。演奏者なので楽器は音がすべてでそれ以外のことは興味がないようです。そうなると私がいかに最善を尽くしても新しいチェロでは不十分です。

最終的に購入したのはこのチェロです。2万ユーロしたそうです。当ブログを見ていらっしゃる方なら、品質がどうかわかるかもしれません。どう見ても美しくなるように気を使って作られていません。
ストップの位置もおかしく駒をf字孔の上の方につけています。

音楽家の方は全く工芸的な意味での美しさには興味がありません。

古いことは分かります。1930~30年代の戦前のものよりは古い感じがしますので1900年より前かもしれません。

表板は年輪の幅が広く安い木材です。でも音が良いと選ばれました。温暖化によってこのような木材が増えることでしょう。
パフリングはマルクノイキルヒェンでよく使われたものです。真ん中の白い線がとても細いものです。したがってマルクノイキルヒェンなどザクセン派の量産品だと考えて良いと思います。

横板の合わせ目にザクセンの量産品の特徴があります。

2万ユーロ(約260万円)で作者・生産地不明で購入したこのチェロですが、保険をかけるために査定をしないといけません。
マルクノイキルヒェンの楽器はヴァイオリンで20~100万円くらいです。チェロはその2.5倍くらいと考えれば良いでしょう。この楽器のグレードならヴァイオリンで20万円くらいですからチェロなら50万円です。あくまで状態が完璧である場合です。指板も薄くなっていて、不完全な修理の割れもたくさんあります。ペグも摩耗し交換するには穴埋めが必要でしょう。完璧にするには修理代が数十万円かかるでしょう。そうするとあまり残りません。多めに見積もって40万円としておきましょう。
それを「音が良い」という理由で260万円で買ったのでした。

音楽家の考える楽器の価値と職人の価値の違いです。

このチェロに260万円の価値があるというのなら、売った人に査定してもらってくださいとしか言いようがありません。


アーチというのは楽器の中央から駒のところにかけてを頂点としたカーブになっているべきだと私は考えていました。このチェロでは上と下の端から10~15cmくらいのところからまっ平らになっています。つまりはじめに2cmくらいの厚さの板で周辺を低くしただけで、アーチの弧は描いていません。
これで音が良いというのですから、私が学んできたことは全部嘘だったことになります。

こういうアーチは昔の量産品では最も安い製品に見られたものです。周辺だけを削って完成としたので作業量が少ないのです。
今はコンピュータ制御の工作機械で加工できるのでこのようなものはありません。

指板も薄くなっているのでいずれ交換が必要です。

スクロールは胴体よりもずっときれいでオリジナルではないように見えます。しかし量産品ですから、渦巻きだけを作る職人のものを使っていたはずです。グレードの高すぎるスクロールがついています。オールドチェロに見せかけるために別の壊れたチェロのものが修理でつけられたのかもしれません。

昔の量産品ですからスクロールは機械では加工できませんでした。手作りです。ペグはかなり古く摩耗しているようなので交換するにはペグの穴を埋め直さないといけません。

音が良い楽器の条件は「なんでも良い」?

私は当ブログで音が良いために楽器の作りの条件について「ひどくなければなんでも良い」と言ってきましたが、「なんでも良い」に改める必要があります。

楽器の作りなどは音には関係なく、とにかくたくさんの楽器を試してみて音が良いものが良い音の楽器ということになります。

少なくとも300万円弱の予算なら50万円程度のものに音が良いものがあるかもしれません。300万円予算があっても店にある一番安いものも試奏するべきです。
安いものほど作られた数が多いので「音が良い楽器」の絶対数も多いかもしれません。

またこのチェロを調べることで「音が良い楽器に必要な最小限の要素」を知ることができるかもしれません。どれだけコストを削っても音が犠牲にならないかということです。

オールドのイタリアのチェロでも「ただ作っただけ」というレベルのものがよくあります。それでも何千万円もします。このチェロが音が良いのと同じ理由です。しいて言えば古ければ良いという事でしょう。最低品質の120年前のチェロのほうが最高品質の新品のチェロよりも音が良いのです。新作チェロで一番高いものはいくらするでしょうか?日本の皆さんのほうが知っているでしょう。

実際に低品質の古い量産チェロは、修理代のほうが楽器の値段よりも高くなるので滅多にないと思います。この楽器のように素朴で古く見えると「オールド」と勘違いする人がいるので怪しげな業者が興味を持ち雑な修理を施して高すぎる値段で売られていることがあります。

ネットオークションなどにはゴロゴロあるかもしれませんが、試奏もできませんし買ってから修理代がとんでもなくかかるでしょう。


以前には木箱のヴァイオリンも紹介しました。思っているよりも楽器は単純に作ることができるのかもしれません。