頭で考えることと心で感じること | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

当ブログでは一貫して、これまでウンチクとして言われてきたことが本当に正しいのか検証してきました。間違った知識も多く指摘してきましたが、そもそもウンチクを鵜呑みにしないことが重要だと考えています。本当にそれで音が良いならそのウンチクは正しいということになります。しかし耳で聞かないで、頭で考えて初めから音が良いとか悪いとか決めつけているなら事実を誤認する可能性があります。

個人差もあって、世の中に「頭で考える」のが強すぎる人が多くいます。そういう人たちをカモとして商売している業者はたくさんいますから、カモになれば良いです、本人は幸せなのだから。犠牲になるのは優れた感性を持った人たちです。

音楽や芸術の世界にはそういう二つの人種が混在しているようです。
個人の中にも、二つの人格が混在してるかもしれません。


鋭敏な感性を持っていて芸術や音楽が好きな人達は、そもそも「問題外」としてそのようなくだらない考えは相手にする必要はないですね。
それを目の敵にしてブログをやっていく必要もないのです。でもそのような発見はおもしろいしより深く弦楽器を味わう秘訣になっていくのではないかと思います。


私自身はそもそも、理屈っぽいと自認しています。個性あふれる音楽家の方々と接すると理解できないことが多いです。またモノのマニアの世界は男性がほとんどなのですが、弦楽器については女性の方が多いくらいです。そういう人たちに満足してもらえるようにするのが使命です。

私自身も初めはウンチクから入ったのでそれが間違っていることに気付いて発見がありました。
私は理屈っぽい人間であるからこそ、その理屈が怪しいということに気付きました。実際の楽器では当てはまらないことが多く、信じるには十分な確かさが無いのです。

私は理性は思い込みを無くすために使うべきだと考えています。
素直に心で感じるための準備を整えるのに頭は使いましょう。


頭で考える人の特徴

ある理系の元教師の男性は高齢者になって初めてクラシック音楽に興味を持ったようです。カラヤンのCDを持ってきて自慢するのです。「これが最高の音楽で、自分はそれを知っているんだ」と自慢げです。
「あちゃー」と思うわけですが、頭のネジがちょっと外れているようです。今までの人生ではその手法で「先生」「先生」と尊敬されて生きてこれたのでしょう。

極端な例ですが、典型的なものです。
皆さんも思い当たることがあるでしょう。

これはクラシック音楽の世界ではむしろ典型的な考え方で、そういう人たちをターゲットにすることで商業面で音楽業界がやってきたことです。「いい歳してクラシック音楽をたしなんでいないと教養が無いと恥をかきますよ」と脅してきたのです。スノッブ心をくすぐると案の定飛びついてくる人がいます。

世の中にはそういうクラシック音楽の世界に直感的に嫌気を感じて、クラシックなんて聞きたくないと思う人も少なくないと思います。「音楽の授業で聞かされた」というイメージも強いものです。もっと面白いものなのに残念です。

ロックから入った音楽が好きな人でも、このことをちょっと教えてあげると「聴いてみよう」とすぐに興味を持ってもらえることがあります。

東京のFMラジオ局が2000年すぎにやっていたアンケート調査で「好きな音楽ジャンルは?」と質問すると複数回答なら、実はクラシックは結構上位なのです。「ヒップホップ/ラップ」よりもポイントが高くて、実際には当時全盛期のピップホップの方が世間の風潮とは違ってクラシックよりも人気が無かったのです。
多くの人はテレビなどから流れて来て心地よいと感じたことは少なくないのです。でも本格的にクラシックファンになるのは敷居が高いようです。BGM集のような感じで需要に応えています。


これが弦楽器になるとさらに理解度は低いものです。詳しい人でも値段の高い作者の名前を知っている程度です。

数値や理論で満足する職人たち

技術者の間でも似たようなものです。理路整然とした理屈や数値で楽器を作るとそれで満足してしまい、結果として出てくる音をはじめから良い音と決めつけて、えこひいきの評価をする人は技術系の人には多いです。「正しい知識で作ったので、こういう音を良い音だ」と考えるのです。それだけ自信に溢れていると演奏者のほうが信じて買ってしまいます。ユーザーの方も頭で考える人は職人の説明に納得して一生その楽器を使い続けます。

理系のような人でも、結果に対して客観性が無いのです。
科学者としては最も駄目な態度です。一見科学的なようでやってることは科学とは真逆です。
実際に過去に作られた楽器では音が良いものでも、そのような理屈になっていないことが多くあります。だから「弾かないと分からない」というのが客観的な事実です。


それから自分独自の工夫をした場合にも同じです。
職人特有の「思い込みの激しさ」があります。
何か「音を良くする方法」を考えたとき、それをやった結果音が悪くなるかもしれません。しかし思い込みの激しい人というのは音が良くなったと思い込むんです。

だいたい弦楽器の場合は何もかもが一長一短で、良い面を見れば音が良くなったということになるし、悪い面を見れば音が悪くなったということになります。その両面を認めることが客観性です。思い込みが激しくて押しが強い人は、良い面だけを見てお客さんにゴリ押しするのです。ユーザーでも高いグッズを買ったことに満足する人がいます。

正しいのはお客さんの求める音になるということです。
これは現代的なマーケティングの考え方ですが、職人のような業界で理解できる人も少ないものです。


目指す音があって、それに近づければ成功で、それと違う方向に変化すれば失敗です。でも多くの人は労力やお金をかけて何かをやったときどっちに転んでも起きた変化を「音が良くなった」と考えやすいです。鋭い音になれば「音が強くなった」と喜び、柔らかい音になれば「きれいな音になった」と喜びます。

それに対して目指す音が決まっているとなかなかうまくいきません。
このようなことを最近では「沼」と言うんでしょうかね?
本気でやると沼にはまって、抜け出せなくなってしまいます。

どこの世界でもある

別の仕事をしている方でも、このような話を聞いて「そうそう」と思い当たる人もいらっしゃるかもしれません。人間というのは同じようなもので、ヴァイオリン職人だけが違うということはありません。だから名工を神様のように考えるべきではないと説明しています。そもそも他の業界と同じように「名工」の選出方法が怪しいので妄信しないようにです。値段も重要です、価格が上がりすぎると「その値段の割にその程度の音?」となりますから。「高いから良いもの」ではなく、孫のために祖父母が土地や財産を売ってまで買う物なのか高いものほど厳しく評価してください。鑑定も大事です。

一昔前は、何かに詳しい人を「先生」として崇めたものでした。
業界ごとに「評論家の先生」のような偉い人がいて講釈を垂れて、信者がマネするわけです。
メーカー側の人は先生の機嫌を取らないといけないのです。基本的なこともわかっていない「先生」の無知を知りながらも仕事なのでやらなければいけないわけです。
強い持論を持つ人もいて、先生の言うとおりのものを作ったら製品が売れないというケースもあったでしょう。そこを機嫌を取るのが大変だったでしょう。

楽器としてのヴァイオリンの世界では評論家はいないのですが、教授や先生が生徒に与える影響は大きいものです。楽器自体にはど素人なのですが、すべてわかってらっしゃるという立場ですね。

音楽としては音楽評論家というのがありますね。私は一回くらい読んで視野が狭いと思ったのでそれ以降は読んだことがありません。外国に行くような人ですから。
その時の印象は、作品の優劣を狭い視点から語っていました。
傑作かどうかランク付けすることにこだわっているようでした。私にとってはどうでもいいですね。評論の文章ではなく音楽に興味があります。
もっと古く子供の頃は「楽聖」として音楽室の壁に絵が貼ってありましたね。


美術などもよく分からないドラマチックな芸術家の人物像をテレビなどで広めていました。


今はどうでしょうね?
世界がグローバル化して日本国内でものを考えても、生産者側が経済力の弱った日本市場に応える気もありません。めんどくさい日本人を相手にするよりは中国を狙った方が良いかもしれません。


先生を崇拝する人たちは「先生がこうおっしゃった」と先生の意見を集めています。呆れます、自分で感じてください。
日本にいないのでそういう話はしばらく聞いていませんでしたが、ネットも高年齢に浸透してきましたから、目にすることがあってなつかしく思いました。

職人の世界もそうです。

理性と感性のバランス

私自身はずっと継続して何かの熱心な信者やファンになることがありません。他のものを知りたいという好奇心が強いからでもあります。指揮者は誰が最高かとか考えたこともありません。でもクラシックの世界では永遠に言い争っているんでしょう?怖い世界です。

このような「頭で聞く人」がいたものです。
今でもいるんでしょうか?


オペラを専門にやっている人なら器楽曲でもオペラのようでドラマチックな感じがするなとは思います。器楽曲の表現の幅もドラマの演出から生み出されたかもしれないと思います。そうなると作品の見方もガラッと変わります。というのはそもそも昔はオペラのほうが器楽曲よりも主流だったからです。世界中どの時代でも歌のほうが楽器の音楽よりも主流です。それがまれに器楽曲がスピンオフして出てくる時代があるくらいです。


頭で聞くことを「暴力的な聞き方」という表現を目にしたことがあります。
心を自由にさせずに、頭の言うことに従わせるのです。

心に対してだけでなく他人に対してもそうでしょう。
自分は強いんだと相手を従わせようとします。
モノの風雅が分かるレベルの高い人間だと主張してきます。

プロから見れば自称「違いの分かる男」よりもただのおばちゃんの方がよほど美しさを分かってるなと思うことがよくあります。女性の方が美しいものが好きで感激することが多く経験が豊富だからです。自分で楽器を作っていると違いの分かる男よりもおばちゃんに良さが分かってもらえる方がうれしいです。


作品を作っている方は、遊び心で楽しんでいるだけかもしれません。失敗したけど、まあこれも面白いかとかバレなきゃいいかとそれくらいかもしれません。郵便配達のように要求に応じて決められた仕事をしているだけかもしれません。



言っているようなことは分かってもらえたでしょうか?
どんな考え方をするのも自由です。

しかし楽器について理解したいなら、考え方は改めたほうが良いと思います。
「作品の評価の序列」としての文言に興味があるのか、楽器や音自体に興味があるのかが違います。楽器自体に目を向け、音に耳を向けないと何も感じません。
傑作だの凡作だの評価を決めることに熱心な人は永遠に作品の魅力は分からないでしょうね。どの職人が天才かとか、職人の志がどうあるべきかなどを議論してないで、実際にいろいろな楽器を弾いてみてください。全く議論が的外れだったことに気付くはずです。


最終的に「美」というのは感じるしかありません。
頭で考えていると感じることはできません。

頭は先入観をなくして素直に感じるための準備に使うべきでしょう。


理性や感情のメカニズムも個人的には興味がありますが、そちらは専門家ではないので書きません。