魂柱傷について | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

『金の斧 銀の斧』の寓話がありますね。木こりが池に斧を落としてしまうと女神が現れてあなたが落としたのは・・・というあの話です。女神もおとり捜査のようなところがありますが正直な木こりが得するという話です。
同じように舌切り雀では助けた雀がお礼に、小さなつづらと大きなつづらを用意しておじいさんは小さな方を選びました。それには宝物が入っていて、欲張りなおばあさんは大きなつづらを選んで中からお化けが出てきたというような話です。
お化けの方が珍しくて今なら価値がありそうですがそういうことではありません。本当にひどい目にあったということです。それを仕込んでおいた雀もすごいですが、そんなことは良いです。
いずれにしても欲が浅い人のほうが結果として良いものを得たという教訓です。

同じようなことは弦楽器の世界にいると感じることだと思います。

前置きがありましたがこの前触れたDominant PROを試してみました。

勤め先で1960年代に作られたヴァイオリンに4弦セットで張ってみました。

テールピースの方は黒です。

メーカーを超えて統一された色分け規格が無いのでどれがどの弦が見分けるのが大変です。

先々代のヴァイオリンは作者のキャラクターでもありますが、もう50年以上経っていることもあってとにかくよく鳴ります。新作では全く太刀打ちできないものです。一方で音色については独特で今ひとつピンとこないものです。オールドやモダンの深みのある音とは違うし、かと言って現代の明るい音とも違います。何とも言いようのないよくわからない音です。そしてどちらかというと荒々しいものです。

ドミナントPROを張ってみると低音は暗く暖かみがあり味わい深いもので、音量や反応も良いです。高音はやや鋭い感じがしますがE線については他のものを試してみると良いでしょう。後輩が弾いても気難しさは無くすんなりと弾きやすいと気に入っていました。最新の製品だけあって単に甘い音というのではなくて現代的なクリアーではっきりした音でもあると思います。D.G線は特に良いです。チェロ弦のように下の2本をトマスティクにして…なんて考えだしたらきりがありません。
もともとヴァイオリンに音量があるので落ち着いた暖かみのある音になったことは望ましい変化だと思います。上等なモダン楽器のような感じが出てきました。パフォーマンスが向上したかというとよくわかりません、もともと鳴る楽器なので。何かを強調したような無理な感じが無いので割と万人向きだと思います。オリジナルのドミナントはもう長い間使っていませんので比較はできません。

私が弦を選ぶ時は自分の会社で売る楽器や自分が作った楽器に張ることが多いです。そうなると楽器が本来持っている能力以上のものが出ればよく売れて良いわけです。そうやって新製品が出てくると期待します。

一方で人によって弾きにくいという人がいると本来持っている能力すらも発揮できません。したがってずば抜けたパフォーマンスを一部の人だけが可能なものではなく多くの人や多くの楽器でオールマイティーに使えるものが求められます。その点に関しては合格だと思います。好みの問題としか言いようがありませんが好感は持てます。少なくてもうちではハイパーフォーマンスを謳う物よりは需要がありそうです。

欲が浅ければ良さが分かるものかもしれません。

他のトマスティクの新製品はTIというものとロンドというものがあります。ロンドはソリスト的なものでTIは暖かみのある室内楽的なものだそうです。したがってうちではTIのほうが興味深いです。今回のドミナントPROでも十分な感じもするのでさらにTIがどうなのか代理店が試供品を持ってこれないか待っています。早いところではすでに購入は可能ですが、焦ってはいません。

魂柱の傷

古いヴァイオリンを買う時に特に注意するべき点は表板や裏板の「魂柱傷」と言われる割れです。ちょうど魂柱が来るところにひびが入ったものです。通常の割れに比べると楽器にとって重要な位置で修理も難しいからです。

これが量産楽器の場合にはこの時点で寿命になってしまいます。修理代が楽器の価値を超えてしまうからです。それ以上に他の魂柱傷が無い楽器があればそちらを買う方が楽で、いくらでも数があるのが量産楽器ですから少しでも厄介な傷があればうちでも購入は避けます。わざわざ面倒なものは買いません。
それ以外は全く新品のように状態が良く、本当によく見ないとわからないような小さな割れ傷があるだけで価値がゼロになってしまうのですから、価値を見て欲しいとか売りたいとして持ってきた人にはショッキングです。

そう言うと魂柱傷は致命的な損傷だと思うかもしれませんが、表板の場合にはオールド楽器や19世紀のモダン楽器では当たり前のものです。表板の魂柱が接するところは消耗品と考えた方が良いかもしれません。
裏板は美的な意味で大きなダメージになります。コレクターは嫌うかもしれません。しかし修理をちゃんとすれば演奏家の実用上は全く問題がありません。

いずれにしても修理技術の向上によってかつては深刻な損傷だと考えられていたものが、実用上問題のないものになりました。そのため損傷を恐れて中央付近を分厚く作って音が悪い楽器を作るのはどうかと思います。20世紀の楽器製作の理論もまだ修理技術が無くて魂柱傷を恐れすぎていたのも影響しているかもしれません。

魂柱傷が発生する原因は、やはり「衝撃」が加わったためだと思います。特に駒の上から強い衝撃が加わると駒の脚の付近に強い力がかかります。つっかえ棒になっている魂柱が表板を突き破ってしまうのです。魂柱傷がある楽器を見ても、修理の経験でも板の厚さとの関係は分かりません。厚い板の楽器でも割れているものはあるし、薄いものでも割れていないものがあります。普通は薄い板のほうが弱いと考えられるわけですが、別の面としては薄い方が弾力があり、多少耐えられるとも考えられます。木材は厚くなると弾力が無くなるので竹を割るように簡単に割れるようになります。

裏板については、これも衝撃が原因でしょう。裏板の魂柱付近の厚みが薄い楽器では明らかに裏板に変形が見られます。いずれ耐えられなくなることはあり得ます。
また全体が同じ厚さでも力が逃げないようです。裏板の全体が同じ厚さのプレスのミルクールの楽器では厚みの割にはひどく変形しているものがあります。

ヴァイオリンの裏板中央の厚みについては3.5mmくらいあるものはよくあって普通です。2.5㎜くらいだと薄すぎます。3.0mmくらいはグレーゾーンでよくわかりません。


つまり、新たに魂柱傷が起きた場合、修理によって実用上健康な状態に戻すことができるということです。魂柱傷があるものを買う場合でもちゃんと修理されていれば問題が無いということです。

問題なのはちゃんと修理されているかです。私が見る感じだと3割もまともに修理されているものは無いでしょう。せいぜい2割くらいでしょう。したがってほとんどの場合、魂柱傷のある楽器を買っても修理をやり直す必要が出てきます。

こちらでは古い楽器が多いので魂柱傷のある楽器も多いですし、修理された時代も古いものが多いですから、見事な修理がほどこされたものは滅多にないです。

日本でも事故が起きて業者に頼んだら、適切でない安上がりな修理をしただけで高額の修理代を請求されたという読者の方もいます。


修理の方法

一般的な割れ傷の場合には接着して小さな木片を補強として取り付けます。

それが魂柱の場所だと邪魔になってしまうのです。そのため傷の個所に木片を付けることができません。
通常の割れは接着した傷に力が集中しないように補強すれば十分ですが、傷の上を魂柱でぎゅうぎゅう押すわけですから全く違います。

そこで陸上競技場のトラックのようなオーバルの形の椹木を埋め込みます。これは手のかかる修理で、ただ単に表面に薄板を張り付けただけのものが多くありますがこれではわずか0.5㎜ほどで強度が足りません。

上の図のように彫って新しい木を埋め込むと元と同じカーブと厚みになります。

下のようにすると魂柱がうまく合いません、作業はトリッキーで想像しただけでも嫌になります。仮に魂柱が入ったとしてもすぐにでも倒れそうです。
何よりも元の楽器の設計と変わってしまいます。
修理代を節約するために簡単に修理する方法が求められますが、残念ながらありません。もっと小さな木片を魂柱の真下に埋め込んだりするとその木片が傷を押し広げてしまいます。上の図のように接着面を広く分散させないといけません。


これがなぜ難しいかといえば、曲面と曲面を一致させるためです、その上、表板や裏板はグニャグニャと弾力があり常に変形すること。形が変化するものにピッタリ合うように正確に加工することはできません。

また接着時にクランプで圧縮すると板の薄い所を変形させてしまったり割ったりしてしまいます。

このため「型取り」が必要です。裏板や表板の型をそのままとってあてがうのです。これがサッコーニのころは木材を削って作っていたと聞きます。現代では石膏を使って型を取ります。この時表板を板に張り付けて変形しないようにしなくてはいけません。石膏はある種の石の粉を水に溶くと、石膏が水と反応して固まるというものでそれ自体は古いものです。この時に防水が必要です。そうでないと表板はぐっしょりと濡れてf字孔から石膏が抜けて、石膏に取り込まれて固まってしまいます。
防水のためにアルミ箔というのは知っていると思いますが、薄い金属をかぶせます。すずや銀などです。アルミ箔では厚みがあり伸縮性もなく深いしわが入ってしまいます。


石膏の型に押し付けることによって表板が動かない状態になるのです。また接着するときにも表板が変形することがありません。これで正確な作業ができます。

さらに表板が変形している場合はさらに石膏の型を削って表板を熱した砂を入れた布袋を押し付けることで変形を直すこともできます。

これだけ大掛かりな修理になるので量産楽器ではやらないのです。

今回の修理


なぜ量産楽器とハンドメイドの高級品を見分ける必要があるかといえば、このような大掛かりな修理をするかしないかの判断になるからです。つまり別の楽器を買った方が安いというわけです。現実的には表板も開けずに外側から接着するだけだったり安上がりな修理をして壊れるまで使うケースが多いでしょう。いつまで持つか補償はできません。
もちろん希望すれば修理することはできます。

今回依頼の楽器は表板に割れが発生したために持ち込まれました。表板を開けて修理を始めると過去の魂柱傷の修理が例によってまずいことが分かりました。
後で傷が開いたらまた楽器を開けないといけません。

実際に裏板は修理がまずくすでに傷が開いていました。持ち主は気付いておらず修理を始めてから発覚したものです。

楽器自体は表板にも虫食いの跡が大量にあります。虫食いは穴がたくさん開いているだけで強度には問題が無さそうです。横方向にトンネルを掘られるとそこが弱くなりますが、丸い穴がぽつぽつ開いているだけなら軽量化されたくらいのことです。それより大きな穴が表板には二つ空いていますが問題ありません。そうです、f字孔です。

外から見ると黒い丸い点々がたくさんあるので下手なイミテーションかと思いましたが、すべて虫食いの跡でした。

しかし裏板を見ると美しい木材のストラドモデルで仕事も繊細です。作者名はよくわかりませんが1863と書いてあるように見えます。それが作られた年なら古さの感じが合っています。見た感じミルクールの中級品くらいでしょうか。
ミルクールの楽器なら50~100万円はしますから中級品ならその間くらいです。時代も古めで板の厚みも理想的で音も良いでしょう。修理をする価値があると思います。
先々代のころからの最も親しいお客さんということもあって最善を尽くして修理に当たります。その一家は音楽を何よりも大事なことと考えていて、それ以外の生活は質素で贅沢もせず、音楽のためなら出費をいとわない信念の持ち主の方です。修理代がいくらかかるか事前に聞くことはなくとにかく楽器が最善になるように仕事をすると満足されるのでした。その期待に応えるのが私の務めです。
予定になかった修理ですが師匠も承認です。

とはいえ石膏で型を取った大掛かりな修理をしている時間はありません。ササっとできないかというわけです。

型を取る方法としては歯科医療用の素材があります。

これはシリコンで、粘土のような柔らかいものに硬化剤を練り混ぜて反応すると固まるものです。これ自体には弾力があります。スポンジのような発泡性のものではないので圧縮に対してはとても強いです。多くの修理で利用しています。これでもいけないことは無いでしょう。

それに対して今回使ったのは温度によって硬さが変化するプラスチックのようなものです。60℃のお湯につけると粘土のようになって、冷えるとカチカチになります。強い力で圧縮することもできます。表面を削ることもできるので、駒の脚で押しつぶされた部分を押し戻すこともできます。石膏の場合には乾くのに2週間くらいかかるので、これは1時間もあれば十分ですから劇的に早いです。

これまで私はよくこれを利用してきました。魂柱傷の修理は難しく考えすぎているように思います。こんなもので十分です。

魂柱傷の修理は別に秘儀というほどのものではありません。
プロとして教育を受け技能を身に付けできなくてはいけません。
それが8割以上の魂柱傷がまずい修理を受けているとすればプロと呼べる職人がそれくらいしかいないということです。

この前も就職先を探す場合について触れました、給料や知名度ではなく、教わることができる職人がいるかがとても大事になります。具体的にはこういうことです。

初めに学ぶのはとても難しくて、正しい方法をすべて教わった上でも、悪戦苦闘するものです。しかし、これができるようになってくればそこまで難しいものではありません。コントラバスを経験すれば、ヴァイオリンなんて小さいものですからどうってことはありません。どこまで簡単にできるかが私が取り組んでいるところです。

天才である必要はありませんが、プロの教育を受けないと全くできないものです。しかし今では表板なら半日くらいのものです。裏板のほうがはるかに難しくて1日くらいかかります。それでも初めてやったときは何日かかったかわからないほどでした。
私は仕事は遅い方ですが、難易度が高い仕事となると普段手際が良い人よりも早くなります。

半日で直せるものなら量産楽器に施しても楽器の値段以下に収まるでしょう。


接着した後は元の裏板と同じ厚さになるように削ります。できれば若干厚めにしたいところです。しかし厚くし過ぎると周辺とカーブが合わなくなります。削りすぎてしまうと残念ですので注意が必要です。

完成です。

表板はもっと大変なことになっていました。ヴァイオリンが何百年も持つと言ってもこの表板はひび割れが多すぎます。とてももろく割れやすくなっています。普通は割れに対して一列に木片を付ければ良いのですが、3つ以上の割れを一つの木片で補強してるところもあります。細かいものを山ほどつけるよりはシンプルな修理です。修理には美しさは不要かもしれませんが理路整然と整っていると腕の良い人が修理したように見えるでしょう。魂柱の椹木は中は見えないので削り取ってみないとちゃんと接着できているかわかりません。この時職人の仕事の雰囲気によって想像することになります。他の修理が汚なかったり、変な自己流だった場合には怪しくなります。疑わしいとやり直さないといけません。疑わしきは罰するというわけです。

エッジ全体に板を張り付けて「2重にする」修理は過去に行われていましたがその木材ももろくなっていました。この表板は開けて置いておくと自然と曲がっていきます。それを無理やり横板に接着すればひびが無数に入ってしまいます。
そのためフレームに固定してバスバーや木片を付ける修理が必要です。曲がったままのところにバスバーや木片を付けるとその形で固まってしまうので余計に無理がかかります。

ところがひびがすぐに入ってしまいフレームに固定することすらできません。


もとはこんな状態でした。
上の写真のようにエッジの椹木を新しくして初めてフレームに固定することができるようになりました。これのほうが魂柱傷の修理よりも手間がかかっています。

魂柱傷と楽器の価値

表板についてはオールドやモダン楽器では魂柱傷があるのが当たり前ですから特に価値の低下は考えなくても良いでしょう。

それにたいして裏板は伝統的に魂柱傷があると劇的に価値が下がったものです。しかし今では実用上全く問題なく修理することができます。

注意すべきことは良くない修理がされている場合、やり直すための費用がかかる可能性があるということです。他に同じようなものがたくさんある量産楽器や現代の楽器ならわざわざ手を出さないほうが賢明です。

この楽器も傷や穴だらけで状態が良いとは言えませんが、音については可能性があります、楽しみですね。
今回も大掛かりな修理になりました。今回新たに割れた箇所だけではなくバスバー交換も含め全体的に修理をやり直しています。このためこのような修理では壊れる前よりも音が良くなるケースが多くあります。

事故などで大きな損傷を受けたとき、精神的なショックは大きいでしょうがお気に入りの楽器の音は損なわれないので安心してください。