楽器の損傷と音 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

見慣れぬ鳥がいました。コウノトリのようです。例の赤ちゃんを運んでくるというあの鳥です。昔の人の考えることは面白いものです。

私も遅ればせながらワクチンの接種に行ってきました。ファイザー・ビオンテック製のものでした。8月に2度目を完了して9~10月くらいに帰国できないかと考えてはいます。わかりません。
副作用で発熱などが言われていたので次の朝体温を測って見ると36℃でした。同僚に言うと平熱が37.5℃だそうです。私は37.5℃もあったらベッドにいなくてはいけないと言いました。調べて見ると西洋人とは体温が違うらしいです。
腕を動かしたり力を入れると注射を受けた箇所が痛むので寝づらく、寝不足気味になったくらいでした。

魂柱傷のヴァイオリン

前回裏板と表板に魂柱傷のあるミルクールのものと思われるヴァイオリンの続きです。途中ワクチンの接種もありましたが、副作用もなく無事完了しました。

裏板に何か書いてありましたがよく見えませんでした。紫外線を当てて見るとはっきりしました。それでも手書きの文字は分かりにくいです。過去にラベルがはがされたようです。
真相はよくわかりませんが1863という数字が作られた年だとしても古さは合っているように見えます。ヴィヨームと書いてあるようにも見えます。
しかし楽器のクオリティがフランスの一流の作者のものではないのでフランスに関係のある作者でも一流品で無いことは確かです。となればミルクールというわけです。今回はそれ以上詮索する必要はありません。

年代よりも古く見えるくらいですが、アンティーク塗装もあるかもしれません。


小画面でご覧の方には見にくいかもしれませんが丸いブツブツは虫食いの跡です。

星空のように散りばめられています。
割れも多く状態としては良いとは言えません。

それに対して裏板は雰囲気があって美しいですね。まさにストラディバリのイメージです。色分けする程度の簡単なアンティーク塗装がされているだけだったでしょうが150年もするとこんな感じになります。

コーナーもパフリングも繊細で仕事はきれいです。

こんな魂柱傷も

目立たなくなりました。

スクロールは一流のフランスの作者には遠く及ばない完成度です。渦巻の中心にはピンでマーキングをした跡が残っています。エッジは黒く塗られストラディバリやフランスの楽器の特徴でもあります。

イタリアの作者ならこれくらいのクオリティはよくあります。でもこのレベルではフランスの一流の作者とは言えません。


これくらいのほうがかえってオールド楽器のような雰囲気もします。

表板のアーチは結構高さがあります。ストラディバリにあるように上が平らになっているのではなく、駒のところを頂点に尖っています。これもフランスの楽器の特徴です。裏板はフラットです。

f字孔はやたら太くなっています。失敗したのでしょうか?フランスの一流の作者なら現代のものよりも細く魂柱が入らないものです。後の時代の人が広げたのかもしれません。いずれにしても大惨事です。

裏板はとても美しくそれを見ただけでもひどい量産品ではないでしょう。しかし完璧さもないので中級品です。フランスでこのレベルなら量産品の中~上級品です。イタリアの作者なら名工と呼ばれるでしょう。
板の厚みなど音に関わる点に手抜きが無いので実用的にもよさそうです。
表板と裏板のアーチ、裏板のクオリティとスクロールのクオリティなど、同じ作者とは思えない違いがあります。やはり別々の人が作ったものを組み立てたものでしょう。

気になる音は?

弦は持ち主の希望で低音の2弦にはガット弦のピラストロ・オリーブ、A線にはナイロン弦のコレルリ・アリアンス・ヴィヴァーチェ、E線にはカプラン・ソリューションズという特殊なコンビネーションになっています。

ガット弦はナイロン弦以上に伸びるので張ってすぐは音程が安定しません。一晩経ってみるとかなり音程が下がっていました。ガット弦を使うためにはペグをちゃんと使いこなせないといけませんし、駒の傾きにも注意が必要です。
弦を張ってから一晩経って試してみると、この前のミルクールのものとは違って鋭い音ではありません。年代も古いこともあって、古い楽器らしい音がします。低音はガット弦のためか枯れた豊かな音がします。鋭く強くというよりはボワッと豊かに響きます。高音も鋭いだけではなく豊かさがあります。暗い一辺倒ではなく、響きに厚みがありオールド楽器のような雰囲気のあるものです。
このような音を聞くと、現代の新作楽器とは全く音が違うことが分かります。
いかに現代に巨匠だと言われていても主流の作風ではこんな音は出ません。

このような音が好きだというのなら、現代の巨匠は量産品の中級品にもかなわないということです。
これで100万円もしないなら安価で雰囲気のある楽器と言えます。

見た目も実際の年代よりも古く見えるの状態の悪さゆえです。これが新品同様にほとんど使われていなかったものならもっと新しく見えます。

音についてもそれに合っています。
板の厚みも現代のものよりもずっと薄めでそれも古い楽器のような音に貢献しているでしょう。この前修理した量産品は板が厚すぎましたが、これはちゃんとしたものです。

楽器の状態と音


虫食いやひび割れだらけのヴァイオリンですが、音はオールド楽器のような雰囲気が感じられるものです。だとすれば状態が悪い方がオールド楽器の音に近づくのかもしれません。
ならわざと楽器を割ったら音が良くなるのかもしれません。しかしそんなことをする勇気はありません。

一方で割れが起きやすいのはそれだけ木材が変質しているとも言えます。木材が古くなって枯れてくると割れやすくなるということです。この楽器が保管されていた場所が木材の変質を早める条件だったのかもしれません。
割れが多いということは木材が枯れているということを表しているのかもしれません。

それでも割れたほうが音が良くなる、という可能性は否定できません。少なくとも強度が落ちて柔軟性が増すと思います。小さな楽器のヴァイオリンでは強度が低すぎて問題になるケースは少ないでしょう。これがチェロやコントラバスならもう健康的な音が出ないということになりえます。チェロでは割れが多い楽器は修理を始めると終わるかどうかさえもわかりません。

このようなことからも、作者が天才であるかなどはさほど重要でないことが分かります。

これは東ドイツのオールド楽器でしょう。状態がひどいです。見るからに割れだらけで、魂柱傷はまともに修理されていません。

痛々しいです。


裏板もぱっくりとまっぷったつです。


スクロールを見るとモダン楽器の影響を受けるより前の時代のものだとわかります。

このような楽器の値段は状態が良ければ20~100万円くらいです。この状態ではほとんど値段が残りません。例によって魂柱傷の修理もやり直す必要があります。
売り物としては価値のないものですが…。

弾いてみると意外にも良い音がします。こんなのでも巨匠とされている新作楽器で得るのは難しいでしょう。枯れた味のある音で柔らかくて豊かな音がします。

痛々しい傷に見えるのは傷跡をパテのようなもので埋めてあって、それが木材よりも黒く見えるからでしょう。割れてすぐにうまく修理すれば傷も目立たなくなりますが、長年放置された傷や修理が下手だとこのようになってしまいます。それでも補強をうまくやれば機能上は問題なく音が良い可能性は十分にあります。この楽器も修理はされているのです。

これは売り物にならないのでレンタル用の楽器にします。レンタルで借りた楽器がこれなら、新作楽器の音には味気なさを感じるでしょう。

神経質にならなくていい

弦楽器について非常に細かいことを気にする人がいます。しかし弦楽器について理解するにはもっと大雑把に捉える必要があります。バリバリに割れても音が悪くなるどころが良くなるのかもしれないのです。

一方修理にかかる費用には注意が必要です。チェロでは修理代が簡単に100万円を超えてしまいます。

安易に修理を始めると、ここもここもと修理箇所がどんどん増えていき、請求する金額がとんでもなくなってしまいます。お客さんを驚かすことになってしまうので「もう金なんて要らねえよ!」と江戸っ子の様になってまた骨折り損のくたびれ儲けになってしまいます。

だから状態には気を付ける必要があるのです。いくらでもお金を出すという気があるなら修理すれば音は貴重なものかもしれません。

今回の修理はやさしい方でした。一つ一つこなしていけばできるものでした。もっと厄介な楽器はたくさんあります。木材がもろくなっていると直している作業で他のところが壊れてしまいます。直しているのか壊しているのかわからなくなります。私が壊したならその修理代は請求できません。こうなると地獄です。修理してもまた何年後かに新しい割れが出てしまいます。

しかし考え方としては、天才が計算しつくして作り上げたもので、それが少しでも変わってしまうと音が悪くなるというものではありません。
適当に作っても良い音のものがあるし、バリバリに割れても音は悪くならないのです。弦楽器はそんなものです。