商業上のイメージと実際 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

過去数か月の記事でも弦楽器の実際についてお聞かせすることができたと思います。漠然としたイメージだったものが具体的な理解に変われば良いなと思います。

商業というのは荒唐無稽なイメージで成り立っていて、イメージを売買していると言っても良いかもしれません。しかし技術者から見るとイメージは全く実際とはかけ離れています。イメージにあったものしか売り物にならないので日本には輸入されません。クラシック音楽の歴史の浅い国ですから輸入されないと初めからあるということはありません。
野菜や果物を見ればお店にはきれいな形のものが並んでいます。自分で野菜を育てるといろいろな形のものができます。それらは売り物になりません。特に日本は厳しくヨーロッパに来たら驚くでしょう。不揃いの野菜や果物が店に並んでいるものです。それは基準が緩いのであって、それでも規格外は売り物になりません。そのようなものに特に厳しいのは日本人です。つまり外国ではそうではないということです。
弦楽器もイメージに合ったものだけが輸入されてきました。しかし実際にはもっと複雑なのです。ドイツのモダン楽器のほうがフランスの大量生産品よりも一流のフランスの楽器に近いという話もしました。オールド楽器の風情を残すナポリの楽器がミルクールのものと音が似ているという話もしました。こうなるとめちゃくちゃです。
一方で適当に作ってあるオールド楽器に別次元で音が良いものがあるとも話しました。科学的に考えればそれは単なる客観的な事実です。職人は適当に作りなぜか知らないけど良い音の楽器になったのです。
我々の常識からすれば、天才的な才能を持った人が研究を重ね努力の末に音が良い楽器の作り方を編み出すと思い込んでいるかもしれません。天才によって計算され尽くして一台一台渾身の力で作られたものが名器だと思い込んでいるかもしれません。
しかし、それはわれわれの勝手な希望でしかありません。適当に作ってあるかどうかは物事を客観視できる職人ならわかります。我々はオールドの名器を見てニヤニヤと笑っています。そんなオールド楽器のおもしろさもわかってもらえると良いなと思います。


逆もまたそうです。
海外では『Superdry 極度乾燥(しなさい)』というファッションブランドが有名になりました。イギリスの企業の製品でこのようなロゴがプリントされていれば日本人は不思議に思うものです。日本人がイメージする英国紳士淑女の服装と全く違うだけではなく日本語に違和感があるからです。

公表されないので分析するしかないのですが、当然日本の有名なビールの銘柄が元になっているはずです。寿司屋に行けばちょっと凝ったところなら日本のビールも置いているかもしれません。なんとなく日本に良いイメージを持っているくらいの人が知りえる知識です。
日本語のロゴがついていると読めないけども、向こうの人にとっては日本っぽいですね。それでスーパードライを直訳して極度乾燥と訳したのでしょう。平仮名もあったほうが日本語っぽいですから(しなさい)も加えたのかもしれません。現在では「極度乾燥」のみになっています。

これに対してエドウィンのような日本企業が進出するのは難しいです。エドウィンは海外向けの製品ではロゴがカタカナで「エドウィン」と書いてあるものがあります。面白いのはセーターで中国で作っているんでしょうけども編み機のフォントの問題か「エドウィソ」に見えるのです。そうなると日本製品に見せかけた偽物のようですが、これがエドウィンの正式な製品です。
サイズや体形が違うので日本で売っている者とは全く異なるラインナップになっているようです。ヨーロッパのスタッフが企画して中国で作らせて誰もカタカナが分からないのでしょう。

イギリス人がなんとなく日本の雰囲気を感じるくらいがちょうど良いのでしょう。スーパードライのビールをどこかで見たことがあるくらいの感じですね。そのように外国のことはあまり知らないからこそ勝手にイメージすることができます。

それに対して健闘しているのはアシックスでしょう。多くの人が日本の企業とは知らずに愛用しています。特に競技用として愛用していたという話も聞きます。
語源は公表されていませんがアシが日本語で足の意味だと教えると驚いています。これはイメージというよりも製品の質で勝負していると思います。


いずれにしても外国製品に対するイメージというのはそんなものです。知っているか知らないかのギリギリくらいが良いのでしょう。かつてはストラディバリのラベルが貼られることが多かったです。これは何も知らない初心者がなんとなく聞いたことがある名前なのでついていると良さそうな気がするからです。
ロッカとかポッジとかファニョッラとかちょっとかじったくらいの人が目にする名前です。それくらいが一番もてはやされるのです。そこでシュバイツァーとかホモルカとかゲルトナーとか言っても知ってる人が少なすぎます。素人がどっかで見たことがある、聞いたことがあるくらいのレベルがちょうど良いのでしょう。無知な人がもてはやしているものの値段が上がるのです。しかしそれは浅い知識で弦楽器というのはそういう物ではないということをブログでは紹介しています。



職人の間では日本の砥石が有名です。日本の砥石は品質が良いと有名です。
特に有名なのは「キング」という名称の松永トイシの製品です。世界中のヴァイオリン職人が使っていることでしょう。
赤茶色のもので日本でも有名なものでホームセンターには必ず売っていますが、今では他社に優れた製品が出ているので見劣りするようになりました。キングの砥石は柔らくて刃を研いでいるとそこが凹んできてしまいます。それに対して最近の製品は硬くて面が狂いにくいです。それでいて研磨力が高くよく削れます。今ではキングの砥石は砥石が削れるばかりで刃が研げないという印象です。それでも昔は優れたものだったのでしょう。

今日本で有名なのはシャプトンの刃の黒幕というものです。これははるかに硬く面が狂いにくい上に水に漬けなくても良いのですぐに使えて便利なものです。ヨーロッパでも扱っている業者がありますがマニアしか知らないでしょう。
私にとっては硬度の高い刃物が研ぎにくいです。すぐに目詰まりしてしまいます。
特に西洋の現代の刃物はそんなものが多いですし、日本の刃物でも鋼と軟鉄を張り合わせてあるものでは軟鉄の方ばかりが削れてしまいます。それで私はシグマパワーのセレクトⅡを使っています。これはジョリジョリと刃が削れるのが分かります。刃の黒幕も平面維持性が高いのでノミやカンナの刃の裏側を平らにするのに使っています。スクレーパーも良い角ができるので切れ味が増します。包丁も良いです。1000番で人間の食べる程度の硬さのものならスパスパ切れます。

日本ではどんどん新しい製品が出ていますがすべて試すのは難しいです。師匠や先輩は未だにキングのものを使っています。私からすると砥石が削れるだけのものですが、年配の人は慣れ親しんだものを変えるのは難しいようです。使い勝手というよりも知識として「これが最高」と昔に学んだものを変える気が無いのです。見習を卒業した後輩に勧めればすぐに新しい製品の良さを分かってもらえます。先輩の考えを変えさせるのは難しいです。

外国のイメージというのはそうやって固定しやすいです。いまだに日本にはサムライや忍者がいてちょんまげ頭でいると思っているようです。そんな格好をして観光ガイドをしていれば外国人の人気者になれるでしょう。


同じようなことはヴァイオリン弦ではドミナントがあります。こちらではもう使っている人はほとんどいない過去の製品というものですが、日本ではいまだに使っている人が多くいるようです。楽器店でヴァイオリンを買うと初めに張ってあるものです。E線にはゴールドブラカットが定番でした。
初心者の人に言うとドミナントはオーストリアのトマスティクというメーカーの製品です。正しくは「トマスティクのドミナント」というわけです。トマスティクはウィーンやミュンヘンではシェアが高いのですが、世界ではトマスティクよりもドミナントのほうが有名です。トマスティクから新製品が出ました。『Dominant PRO』というものです。
他社やチェロやビオラも合わせるといくつも弦の新製品が出ています。とてもじゃないけどもすべて試すこともできません。

皆さんから使った経験を募集したいと思ったりもします。というのは、個人の工房が仕入れる弦の値段が、大手のオンラインショップとは全然違うのです。とてもじゃないけども価格で対抗できません。そのためちょっと詳しい人はみなネットで弦を買っているでしょう。もちろんうちで買えば、いくつかの弦を試奏して買うこともできますし、貼り換えも楽器の点検もしますし、時間さえあれば楽器のクリーニングも無料でしたりします。そのタイミングで工房を訪れるのは良いのですが、いかんせん値段が違い過ぎます。

一方オンラインショップにはメーカーの宣伝文句が書いてあるだけで何がどんな音なのかわからないものです。アマゾンなどのレビューではユーザーがどんなレベルの人でどんな楽器を使っているかも全く分かりません。工具などは素人が絶賛していても私のレベルでは全く使えないものだったりするので参考になりません。

弦は難しいですよ。人や楽器によって違和感を感じたり、何の問題もなく弾きこなせる人もいたりいろいろですから。
お気に入りの弦の投票とかしましょうか?


E線のゴールドブラカットの方はレンツナーというドイツのメーカーの製品でした。それが今はオプティマという社名に変わっています。
パッケージにもオプティマと書いてあります。張力の違うバージョンがあり特にガット弦のころには強い張力のものを張ってガット弦の弱さを補ったのでしょう。E線の張力は他の3本の弦にも影響があります。輝かしい音を求めて強い張力のE線を求めた考え方があります。張力にもこだわった人だと未だに「ベストチョイス」という考えを持ち続けている人も多いかもしれません。先生の影響もあるでしょう。

今では他の3本も強くなっているのでE線はむしろ柔らかい音にすることができます。うちではピラストロのNo.1を薦めると多くの人が受け入れています。原理的にヴァイオリンは高音が鋭くなりやすいので理屈にはかなっています。もう一つはカプランのソリューションというものです。カプランは今はダダリオのブランドになっています。

だいたい試奏して「良く鳴る」楽器を買うと高音が鋭すぎるものです。その時は気にならなくても使い込んでいくうちに「耳障り」という欠点が気になってくるものです。中古楽器を譲り受けたり安価なものを買えば耳障りなものが多いです。基本的に鋭い音のものの方が多いと考えて良いと思います。良く鳴ると思って喜んで買ったものでも私たちからすれば平凡なものです。柔らかい音のほうが希少です。鋭すぎる音の楽器を持っているとE線の開発に依存することになります。


どの弦を選んで良いのか知る手段が無いですね。ヴァイオリン職人も医者が処方箋を出すように「この弦を使いなさい」と紙切れを渡すだけで診断料が得られるなら良いですね。しかし職人は特権的な仕事ではありません。
プロのテスターのような職業もありません。客観的に楽器や弦などの製品をテストしてレポートするプロです。自分の主観ではいけません。ブログを見ている熱心な方で腕に自信があればそういうことを始めても良いかもしれません。私も多少は協力しますよ。でも演奏家の人は人によって言うことが違うので「※個人の感想です」を超えられません。実現すれば第一人者です。


とても難しいのは音を評価基準を作って客観的に記述することです。そして一つ一つそのような音になる原理を解明していく必要があります。ということは今はそんなことはできていないのでただ試奏して気に入ったものを選ぶ以外には方法がないということです。