製作学校のヴァイオリン、ハイニケのチェロ、ビオラのニスなど | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

弦楽器で何が良い音のなのかというのは難しいものです。

我々業界人の了解として音については語らないというのが暗黙の了解になっています。音について言葉で記述するのは困難です。鑑定書にこんな音がすると書いてあることはありません。音は楽器を特定する基準にはならないのです。名器を紹介する専門書や専門誌でも音については書いてありません。

そんなわけですから、業者同士で楽器を売買するときに、これはどんな音の楽器だとか話はしません。まずどこの国の楽器か、作者の名前がどうだとか、使っていた音楽家が誰だとか、・・・それに対して「これはニセモノじゃないか‥」と騙されないようにしなくてはいけません。ニセモノと分かったうえで安く買って高値で売る業者もあります。
いずれにしても音の話はしません。職人同士なら楽器の品質がどうで値段に見合っているかということに重きが置かれます。

一方、この楽器は音が良いと演奏家が売りに来た場合でも、値段には反映されません。値段は古いハンドメイドの楽器なら作者の名前から相場を見て決まります。無名な作者や量産品なら品質を見て値段を決めます。

安物の楽器はどんなに音が良くても安物の楽器です。それは納得できるでしょう。同様にどんなに音が悪くても高い楽器は高いのです。音が悪くて高い楽器を買う人なんていないと思うかもしれません。極東アジアの人たちは不思議なことに買うようですよ。皆さんの周りにいることでしょう。


音について語るのがタブーになっている理由は弦楽器を製造するのに、音の違いを作り分ける技術が無いからだと思います。中小零細企業が多くそれだけの技術が無いのです。技術開発とか消費者の好みなど現代的な発想がありません。伝統産業で年長の師匠に理解してもらうのは本当に骨を折ることですよ。

このため製造者ごとに音の特徴というのが明確になっておらず評価することも難しいのだと思います。国によって文化的な背景で好まれる音が違ってもその通りの音のものを作ることができないので国による楽器の音の違いははっきりしないのです。




「音が良い」ということも、音楽をするための道具として考えるか、音自体を嗜好の対象にするのか、それによってもまったく違ってくるでしょう。

1979年にヴァイオリン製作学校で作られたヴァイオリンを使っている人がいてメンテナンスをしました。学生が作ったものを学校が安い値段で販売しているものです。量産品の中級品くらいの値段ですが、量産品と違ってコストを下げるための手抜きなどはありません。先生が良いというまで完成とは認められません。
そのため値段からしたらとてもお買い得なものです。特にチェロの量産品はひどいものですから魅力的です。

40年以上経っていますからよく鳴るようになっています。アーチも現代のお手本通りフラットなもので板の厚さも極端に厚くなく平均的です。

それでよく鳴るのですからどうして悪い楽器と言えるでしょうか?


一方私が10年くらい前に作ったガリアーノのコピーを使っているヴァイオリンの先生がやってきました。とても高いアーチのものです。あご当て部品の交換のために来たのでしたが、先生が二つのヴァイオリンを弾くと音はだいぶ違います。ガリアーノのコピーのほうが味のある美しい音がしています。高い音でも柔らかいです。
ヴァイオリン製作学校の生徒のものはよく鳴りますが音が単調な感じがします。高い音は鋭く金属的な音がします。

私も先生も同じように美しいと感じていたと思いますが、別の先生なら違うことに興味を持ったかもしません。「美しい」というのは私やその先生が個人として感じることです。客観的には言えません。

芸術はみなそうです。
私は芸術は享受した人が自由に感じて良いものだと考えています。この芸術家が偉大だと本に書いてあることを暗記して知識を自慢する人には、芸術の素晴らしさはわからないと思います。



これがフラットなアーチと高いアーチの違いと単純には言えませんが、少なくとも現代風の楽器と私がオールド風に作ったものではだいぶ音が違うことは間違いありません。どちらが優れているか客観的に言う事はできません。

修行を始めて間もない学生が作ったものでもちゃんと機能するのがヴァイオリンというものです。先生の助けが無くても自分一人で楽器が作れるようになったら一人前です。ニスなどは学校で与えられたもので自分で作るとなると本体を作る以上に大変です。

安価な量産品との違いはコストを下げるために手抜きをしていないということです。手抜きをせずにちゃんと作ってあれば誰が作っても弾き込んでいけばよく鳴っておかしくありません。音が美しいかどうかは主観の世界ですからその人が感じるもので客観的な評価をすることはできません。



初心者が安価な量産品で始めて、もうちょっと本格的な「道具」が欲しいとなったときにコストパフォーマンスに優れているのはヴァイオリン製作学校のものです。ひどい楽器を使っている生徒が多ければ、先生としてはこれくらいのものは使ってほしいなと思うでしょう。偽造ラベルを貼った安物を高い値段で買ってしまったり、お金もうけのために売られた手抜きのハンドメイド楽器、間違った理論を信じている職人が作ったもの、素人が作ったものを買ってしまう事よりははるかにましです。


ただ自分が愛用するヴァイオリンかと言われれば好みが分かれます。
近代の楽器でみなが満足するのならオールド楽器は必要ありません。
しかしオールド楽器には独特の音があって、とても美しいと感じて惚れ込んでしまう人もいます。
道具として優秀な近代の楽器と「美」という抽象的な価値を持ったオールド楽器ということが言えるでしょう。美さえあれば道具としての優秀さはいらないかというとそうでもないのが音楽家です。

こうなると本当に愛用の楽器を探すのは難しいです。
オールド楽器は値段が高いからです。モダン楽器や現代の楽器でも一つ一つは音が違うので弾いてみたら美しい音のものがあるかもしれません。ドイツなどのオールド楽器なら新作よりも安いものもあります。

特に難しいのはチェロです。

これはマティアス・ハイニケが1923年にヴィルドシュタインという所で作ったというラベルが貼られています、おそらくオリジナルでしょう。ドイツ語での地名でチェコ共和国になった今ではスカルナーというそうです。戦前のボヘミアの流派は東ドイツの流派の一つです。これに対してプラハの作者ならチェコの流派になります。ボヘミアからプラハに移った人もいますのでその場合は流派はボヘミアです。
ハイニケはボヘミアの作者の中では特に有名です。ドイツやイタリアでも修業しました。ベネツィアのエウゲニオ・デガーニのところで働いたことがあるので日本の業者も取り扱う所があります。しかし作風を見るとデガーニとの共通性は全くなく職人としての腕前はデガーニよりはるかに上でしょう。そのため何かを教わるというよりはすでに一人前の職人が即戦力として働いたことでしょう。

しかし日本の業者の理屈ではイタリアの作者はみな天才ということになっていますから、デガーニのほうが値段でははるかに高いです。

日本の業者が扱う理由は「イタリアで修行した」という聞こえの良さにあるでしょう。商人が一番気にするのは聞こえの良さですから。ところが作風は他のボヘミアの作者と共通しています。ヴァイオリンはいくつも知っていますが音については私はそれほどいい印象がありません。他のボヘミアの作者のほうが力強く鳴ることがよくあると思います。無名な作者の楽器のほうが音が良いなんてことはざらです。




このチェロは弾いてみると実によく鳴りました。他のボヘミアのチェロでもよくありますが板は厚めで高音側が強いチェロです。深々とした低音でボリューム豊かなものではないですが、明るくよく鳴ってそれでいて耳障りな音ではありません。きれいな高音です。

一般論からすれば優れたチェロでしょう。作られて100年も経っているものは音が出やすくなっていますが、スチール弦を使うチェロでは耳障りな金属的な音になることが多いです。もしかしたら作者特有の音があって、それがヴァイオリンでは大人しすぎるのがチェロではちょうど良いのかもしません。

値段はよくわかりませんが、ハイニケの相場はヴァイオリンが75万~150万円ほどです。私がよく言っているオークションなどで注目されない「安すぎる」ものです。75万円なんて新作より安いです。有名な作者で新作より安いのですから、今の職人には対抗できません。

チェロはその倍プラスアルファだとすれば~400万円くらいでしょうか?同じ時代のイタリアの作者ならヴァイオリンも買えない値段です。

しかしこのチェロは多少は量産品のような特徴があります。ニスはラッカーの匂いがします。横板も外枠で作ったような感じもあります。しかしパッと見ればすぐに手慣れた腕の良い職人のものだとわかります。

チェロで本当に丁寧に作られたものは珍しいです。
ハイニケのチェロはかなり細い指板がついていてネックも細いです。ネックの角度も急に入っていて現在のスタンダートとは異なる点があります。現代の考えで理想的な状態にするには継ネックの修理が必要です。しかし実際に弾いてネックの角度のせいで鋭い音になっている感じはありません。それをするとなると量産チェロが買えるくらいの修理代になります。

ハイニケでもオールドのような音は難しいです。
私は個人的にボヘミアの楽器が特別音が美しいという印象はありません。しかし他の国の20世紀のものも同様です。それで良いのならよく鳴るものもあり価格的には安めです。

チェロでオールドというのはまず手が届かないでしょう。私が作ればちょっと近いものができるかもしれませんが、100年経ったチェロのようには鳴らないでしょう。モダン楽器でも皆ひどく味気ないということもありません。

残念ながらこれは売るためのものではありません。




ビオラの続報です。

注文していたテールピースが届きました。チェロではよくあるタイプの木製のアジャスター付きのものです。ビオラの大きさに合わせてテールピースもサイズ違いがあります。品質も高くきれいです。ウィットナーのプラスチックや金属のもののほうがアジャスターの機構がよくできていますので、初心者用の楽器にはピッタリですが、高級ビオラには安っぽく見えます。音質も木材のほうが良いと思います。これは黒檀です。

ビオラのニスは塗り始めて2週間ほどです。

すでに古い感じになってきています。




まだまだ始まったばかりです。
フルバーニッシュの新作なら同じ仕事量でほとんどでき上っているでしょう。アンティーク塗装は急ぐほど不自然になります。ザクセンの量産品では数日で塗り終えているかもしれません。
黒くすれば古い感じになりますがそれでは真っ黒になってしまいます。明るい所をいかに残すかがポイントです。一度塗ったところを研磨して削り落として明るくしています。その時自然な風合いにするのが難しいです。
また、全体を黒っぽく塗るだけでも難しいです。ニスを塗る基本的なテクニックである「ムラなく均一に塗る」ということが非常に重要になってきます。濃い色であるほどムラが目立ちやすくなるからです。オイルニスでなければ不可能で、アルコールニスならそれだけでニス塗の作業として困難な課題です。塗りやすいオイルニスを自分で作ることが重要です。
量産品ならスプレーを使うでしょうが、色も人工染料の黒や茶色がわざとらしくていかにも量産品という感じになります。修理の時はあえて量産品のアンティーク塗装っぽくすると周囲と調和します。

何百年間汚れがついて、それを掃除して、ニスを磨いてということを繰り返しています。同じことを2週間で再現です。塗ったニスの大半を削り落としてしまいました。

一週間で50年分位ずつ古くしていかなくてはいけません。50年かかる所を一週間ですから相当早いです。

ざっと大雑把に古い感じに、黄金色にしたので、デリケートなディティールの仕事に入っていきます。これまではいわばベースの基礎工事です。これから絵画の様に描いていきます。写実的な細密画で、これ自体が芸術作品です。

修理の仕事でもニスが剥げてしまったり、新しい木材を足したりしたときに古い楽器の色に合わせるのはとても難しいです。やりがちな失敗は赤くなりすぎてしまうことです。新作に塗るようなニスを塗り重ねて補修すると真っ赤になってしまいます。古い楽器では暗い色なのに予想よりも赤みは少ないものです。普通の新作のやり方を応用してアンティーク塗装をやってみたなんてのはあまりにひどい出来で見るに堪えないのです。新品のような真っ赤なニスに真っ黒な傷がポツンと浮いていて全く古く見えないものがよくあります。このように全体的に古くなっているところに傷があれば馴染んで見えるでしょう。



今の段階で赤みを抑えてあるので失敗して困るということは無いでしょう。

細部の完成度が高まるとともに赤みが出てきて黒い所ももっと黒くなり、コントラストが強まりぐっと締まって迫力になってくることでしょう。

仕事が細かくなっていくほど進展速度は遅くなっていきます。何日も仕事したのに変化が分からないくらいになります。あと5週間くらいあればできるでしょう。商品として考えたらこんなのではやっていけません。誰も違いが分からないものに何十万円分ものコストをかけているのですから。やらないと気が済まないのは良いものを作るという職人人生の目的があるからです。