ニスのメンテナンスと補修 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

今年は勤め先の改装があったり同僚が大けがしたり、社長は狩猟ライセンスの受験をしたり、私以外は仕事に集中できませんでした。夏休みもなかったので2日ほど有給休暇をもらっています。

そんな中でも作っていたヴァイオリンのニスはとっくに終わっていましたが、依頼主が休暇で連絡が取れず、フィッティングパーツの選択など最終的な話し合いができずにいました。ペグが無いと弦が張れないのでどんな音になるかずっと気になってしょうがないです。近日スケジュールが取れるそうです。

メンテナンスの仕事が私一人に集中しました。何台の楽器を掃除したことでしょうか?弦楽器の掃除屋さんです。ユーザーが自分で掃除をするのは難しいです。日ごろから松脂がこびり付く前にからぶきをしておくだけでだいぶ違うでしょう。

ヴァイオリンでも汚れがひどければ汚れを取るだけで1時間はかかります。目の粗い研磨剤でゴシゴシやれば汚れは取れますが同時にニスも取れてしまいます。目が細かいと汚れが残ってしまいます。今はまず目の細かいものでやってみて汚れが残っているようならピンポイントで対処するという感じでしょうか。
それを新人に教えるには複雑すぎます。というのは目で見て汚れが残っているかどうか確認できなくてはいけません。マニュアル化してまずはこれ、次にこれみたいな手順を学ぶことから始めるしかありません。

このヴァイオリンでも松脂が付着して光沢が無くなっています。

ニスの質は自分の会社の製品ばかりではないので様々です。作られた年代も最近のものから何百年も前のものまであります。その間異なる業者によって異なる補修がされています、同じ楽器でも場所によってニスの材質が違います。

基本的には湿式です。水とともに洗剤や研磨剤を使います。
弦楽器は水に濡れてはダメかと思うかもしれませんが、ニスの表面が濡れるのは致命的なものではありません。水没すると深刻なダメージがあります。接着剤が溶けてバラバラになるのはまたくっつければ良いだけなのですが、木材が大きく変形してしまうとどうしようもありません。とはいえ光沢が失われたり跡がついたりするので磨きなおす必要があり水拭きなどはしないほうが良いと思います。
あご当てやネックのような部分では水拭きしても良いと思います。

ただしニスの中には水に溶けるようなものがあります。このような場合は油を使います。このあたりの見極めも間違えると大惨事になります。

汚れを取って磨きなおせば新品のようにきれいになります。
光沢が無くなるのは表面が滑らかではなく光が乱反射するからです。
磨きなおして光沢を出すにはいくつかの方法が考えられます。

①表面を溶かす
これが一番基本的な方法です。アルコールニスであればニスはアルコールに溶けるのでアルコールで湿った布で表面をこすることで細かな傷が溶けて滑らかになります。これはとても難しものでヴァイオリン職人として働くときには初めに特訓が必要です。失敗すると溶けすぎてしまいます。初めに汚れを取っていないと汚れの上からニスを溶かして汚れをニスに固着させてしまいます。

アルコールニスで塗られた新しい楽器ならこれがとても便利でメンテナンスの費用も多少は安くなるでしょう。しかしアルコールに溶けるニスばかりではありません。量産品のラッカーやアクリルのニスも多少は溶けますが完全には溶けません。どうしてもだめな時はラッカーの薄め液、シンナーを使えば溶けるのですがにおいも強烈で健康にもよくありません。
オイルニスの場合にもその成分によってアルコールに溶けないものがあります。
オイルニスだから溶けないというのではなくて含まれている樹脂がアルコールに溶けるものかどうかが重要です。ドイツの戦前のマイスターの楽器によくある柔らかいオイルニスはよく溶けます。そのようなことからも樹脂の成分が推測されます。
フランスの19世紀のものは溶けないです。イタリアのモダン楽器でも溶けないものがよくあります。これらにはクリアーコーティングとしてアルコールに溶けやすいニスが表面に塗られていることがあります。作者本人によるものなのか修理によるものなのか様々です。これならピカピカに磨くことができますが層が薄いので体が触れる部分などが剥げてなくなっていることがあります。それを補修するのは結構厄介な仕事です。そこにアルコールニスを塗ると筆や刷毛の跡が残って表面が滑らかになりません。新しく塗ったアルコールニスの表面は研磨しなくてはいけません。その時、塗っていない部分まで研磨するとコーティングがはがれてしまいます。そのためどんどんコーティングが失われているところが広がっていくのです。生乾きで層を重ねるときれいに塗るのが難しくなるため一日に塗れる回数は限られています。一週間作業して初めより悪くなることもあります。雪山を進むような困難な作業です。古い楽器ではオリジナルのニスさえも剥げ落ちていて木の地肌がむき出しになっていることがあります。掃除するときに汚れとともに薄くなったニスが剥げてしまうこともあります。この時もそこにニスを塗って研磨すると他の部分のニスまで剥げてしまいます。過酷な修理です。

②表面を研磨する
それに対して金属などを磨くときと同じように研磨剤でなめらかにする方法があります。光沢まで持って行くにはかなり細かい研磨剤が必要ですが、初めから細かいものを使うと深い傷が残ったままになるので何段階かに分けなくてはいけません。また磨くときにゴミなどが入ってしまうとそれで傷がついてしまいます。
硬いニスほど有効で量産品ではスプレーで塗りたてのようなピッカピカになります。研磨剤はかつては軽石の粉とかコウイカの「骨」とかいろいろ言われます。イカは貝から進化したので殻の名残があるコウイカというのがいます。
しかし人工の研磨剤のほうがはるかに研磨力が高いです。日本の天然砥石の粉も良いのですが、高価です。スーパーニコというビンに入った液状のものが有名でクレモナの新作楽器がピカピカならこれで磨いたものでしょう。よくあるものと変わりませんが目の細かさが仕上げに適しています。業務用なので量が多いです。

③何かを塗る
細かな傷を埋める方法として上から何かを塗ることが考えられます。市販のポリッシュ液などはそのようなものです。様々な製品があり、べとつかない程度に薄い層ができるものです。量産品を日常的にケアするのならこれで拭いておけばきれいにはなります。日ごろから松脂をこびり付かせないのが重要です。

ポリッシュ液で悪名高いのはヴィオール(Viol)というものです。これはニスを溶かす溶剤が含まれているので汚れの上から浸透しニスを溶かし一体化させてしまいます。これを使うくらいなら何もしないほうがましです。

汚れが残った状態で上から何かを塗ることは光沢も出ないし、汚れを積み重ねているだけです。ニスを溶かす成分が含まれていれば最悪です。


それに対して伝統的なフレンチポリッシュというのがあります。これはやり方や呼び名が様々で何が正しいのかよくわかりませんが家具などの塗装法でセラックという天然樹脂をアルコールに溶かして布を湿らせそれで磨くことでセラックの薄い層を作るものです。ギターの塗装にも使われます。これもとても難しいもので訓練と試行錯誤が必要です。

この方法を応用するとセラック以外の成分でもできます。ベンゾエは厚みが稼ぎやすいので用いられてきましたが、柔らかいので指紋がついたりしやすく光沢は長く続かないでしょう。そんな感じで熱心な職人は独自のポリッシュ液を調合するのです。
古い楽器ではこのようなポリッシュが数えきれないほど繰り返されていています。オリジナルのニスがはげ落ちたところにポリッシュを施すこともできます。
層は薄いのでしょっちゅうやり直さなければいけませんが、表板にほとんどニスが残っていないオールド楽器でも光沢にすることができます。
コントラバスは家具のようにやります。

音について神経質になる人がいますが層が薄いので問題はないでしょう。アルコールに溶ける時点で硬い樹脂ではありませんし、わずかな厚みなのでどうにかなることは無いでしょう。アルコールで濡れることでニス全体が柔らかくなることはあるでしょう。これもまた蒸発するので一時的なものです。


これらの方法を組み合わせて光沢のある状態に仕上げたら修理は完了ということになります。①の溶かす方法ではやった直後は光沢が出るのですが、次の日には光沢が無くなってしまうことがあります。アルコールが蒸発してしまうとカサが減って渇水でダムの底が出てくるように埋まっていた凹凸が現れてくるのです。②の研磨ならそれは起きません。しかし風化してボロボロになっているニスでは通用しません。量産品のようなニスでは強力な効果がありますが、ハンドメイドの楽器では難しいこともあります。粘性があれば研磨剤や削りカスがくっついてしまいますし、くぼみとなっている傷に溜まってしまうと白くなってしまいます。
③もアルコールが蒸発すると光沢が失われてきます。初めに下地を研磨してから施すとより効果的です。下地が滑らかにできない場合には新しくニスを塗るしかありません。


写真ではわかりにくいですが左半分を掃除して磨いてみました。



このように研磨しても光沢が出ない部分があります。
ニスがはげ落ちた部分や傷です。
何年も使っていると松脂やほこり、そして皮脂が多く付着しています。表面は曇り汚らしくなっています。汚れを取ってさっきのように磨き上げるとニスが残っている部分とそうでない部分の差がはっきり出てきます。ニスが無い所はニスを足す補修が必要です。弦楽器のニスはハンドメイドの楽器なら職人が自分で作ることも多いのですが、品質は様々です。ホームセンターで売っているニスのほうがましなんじゃないかというものも少なくありません。基本的に天然樹脂を使うため高級品ほど危うくケアが欠かせません。

ハンドメイドの楽器でよくある失敗は柔らかすぎるニスです。これは私も何度かやってしまいましたし、他の作者のものをメンテナンスすることもあります。ケースの跡がついてしまうというのはよくあることで、ひどいものだと汚れがくっついて真っ黒になってしまい、こするとニスが剥げて真っ白になってしまうものです。修復も大変です。

他に問題なのはニスの層が薄すぎる楽器です。ニスは樹脂という透明度のある成分で厚みができています。天然樹脂は植物からとれるものです、セラックは虫が樹液を吸って体内でできるもので元は植物由来です。コハクなどは地中に埋まって化石になったもので化石樹脂といわれます。

ニスは溶剤と樹脂と色の成分が主な成分です。オイルニスであれば乾性油という酸化して固まりやすい油が入っています。溶剤は蒸発してしまうので残るのは樹脂と色の成分です。蒸発して樹脂が少なければニスは薄くなります。そうなるとちょっとこすれただけで色が落ちてしまいます。ニスの厚みを稼ぐために何度もニスを塗り重ねる必要があります。私はアルコールニスなら20回は塗らないと厚みができません。自分でメンテナンスするなら自業自得ですが、売ってしまえば知った事かという業者もいます。

流行りのアンティーク塗装の手法で色の濃い顔料を使うものがあります。色はついていて古い楽器のように見えますが層が薄すぎてすぐにはがれてしまうものがあります。流行りの手法の前に基本的なことをちゃんと身につけるべきだと思います。


いずれにしてもニスが剥げてしまったら補修しなければ汚れや水分がどんどん木材に浸透していきカビが生えてしまうこともあります。何かニスを塗る必要があります。新しい楽器なら元のニスと同じ色のものを塗って新品のようにすることもできます。特に作者本人に直してもらえば同じニスをストックしてあるかもしれません。しかし汚れがついてくるとそこだけ色合いが違ってきます。そうなると古くなった味だということで私は落ち着いた黄金色にして終わりにします。過去に何度も修復が繰り返されたことでセンスのない職人もいてひどい色になっていることが多いです。下手なことはしないほうが良いと思います。
しかし色がついて終わりではなくて剥げやすい部分なだけに厚みを稼がなくてはいけません。さっきの話では20回は塗らなくてはいけないのですからニスを乾かす時間も含めると、まともに行ったらひと月くらいかかります。お客さんは「ちょっとニスがはげたくらいでひと月もかかるの?」と思うでしょう。そこをなんとかするのが職人には求められているということです。その日のうちに持って帰れると思って来る人もいます。

傷の補修も難しいものです。

傷がつくと木材のところまでへこみが行きます。同じ色のもの塗れば傷は目立たなくなりますが立体としてはそこだけへこんでいます。次第にニスがこすれて薄くなってくると傷のところだけ色が残って傷が目立つようになります。
凹んでいるだけなら水分を吸わせて熱してあげると木材は膨らみます。場合によってはそれで直ることもありますが、たいていはうまくいきません。

凹んでいるところをパテのようなもので埋めるとそこだけ光の反射が違うので光の向きによって明るく見えたり暗く見えたりします。
ガラスの粉で埋めたりとかあの手この手でやるのですが難しいですよ。

ニスなんて薄いものですが頭の中ではダムの水位のようなものをイメージしています。それくらい奥の深いもので壷にはまってしまうと信じられないほど時間がかかり修理代が莫大になります。ヴァイオリンなら3時間、チェロなら5~6時間はすぐにかかってしまいます。自動車の整備士なら一時間の技術料が1万円くらいですから掃除だけでいくらになるか計算してみてください。弓も毛替えよりも掃除のほうが高くつくくらいです。さらに指板を削りなおし、ペグを削りなおし、細かい仕事がいっぱいあってヴァイオリンなら定期的なメンテナンスで4~5時間かかるのは普通です。
自動車なら車検の時にかなりお金がかかるのですが、弦楽器も良い状態を保とうと思ったら定期的にメンテナンスをする必要があります。無駄に高い楽器を買ってほったらかしにするよりも、上質な楽器を適正価格で買ってメンテナンスをきっちりやることを職人として薦めます。

とはいえ何も壊れていない楽器に5万円もかかるというのは予想していないでしょう。実際にはそこまでの料金は取れません。駒やペグ交換、弓の毛替えなどの時にセットにすることで安くしています。現実的にはその半分くらいでしょうかね?これがヴァイオリン職人の儲からない所以です。
そこで裏技的なことをいろいろ試すわけです。新しく作ったニスで良さそうな効果が得られました。この夏の仕事が終わったところでです。



ニスの剥がれや損傷が多いのは表板の周辺の部分です。

これならまだひどい方ではありません。損傷した部分には木材を取り付けて加工しなおす必要があります。しかしちょっとの傷であればそこまでする必要はなくて摩耗したり傷がついていくのは自然なことです。20~30年もしたら補修の跡だらけで隠し切れなくなります。
このように直線の接着面で直せるうちは簡単です。これがカーブになると大変です。



掃除して初めてニスが無くなっている部分が分かるようになるのでニスの補修が必要だと判明します。
新品の綺麗な楽器に傷がつくと目立つものです。新品のときのように傷を直すのはとても難しい修理です。自動車ならパテで埋めて削りなおして、塗料メーカーから取り寄せた塗料を吹き付けて磨けばできるでしょう。それでも職人の技は必要で結構な金額になります。

弦楽器では木目を隠さないために透明度のあるニスを塗るのでパテが見えてしまいます。塗料はどうやって作られたかわからないものです。何百年も前の手法なら効率よく作業できるものではありません。
それ以上に困難なのにお客さんは自動車のように修理代がかかるとは思っていません。

古い楽器ならニスも薄くなっていて補修された部分も100年以上経っていたりします。

クラシックカーならボディを塗りなおしてしまえば良いのですが、弦楽器ではニスを塗りなおしたら取り返しのつかないほど価値が落ちます。
音も見た目もまるで変ってしまいます。


一般の人は傷を直すなんて簡単と思ってたまにサインペンなどで塗ってしまう人がいます。これは最悪です。色合いは全く違い木の中まで色が染み込んで取ることができません。
やればやるほど難しいことが分かってきます。
他の産業と違うのはこれだけで専門の職業として給料がもらえないことです。

弦楽器の製作は修理をしなければどんなものを作っても「これが俺の作風だ!」と豪語していればいいですが、修理となると欠けた部分を復元するのにオリジナルの作者と同じ技量が必要となります。接着面は正確に加工しなくてはいけません。新しく楽器を作るよりも条件が悪いです。

現実は、楽器製作では腕が不十分なので修理の仕事をしている人が多いです。アンティーク塗装の経験などは修理にも生きてきます。修理の経験もアンティーク塗装には重要です。

いくら気を付けても楽器を新品のようにきれいにすることはできません。しかしそうやって古くなっていくことで「味」になって行きます。でもただほったらかしで汚くなったものとは違います。このようなセンスはアンティーク塗装ではとても重要です。

修理でも傷などがついたことを逆に生かせば簡単な作業で「味」に変えることができます。もちろんお客さんの楽器ならお客さんの希望を聞くことが重要です。修理して売る楽器ではセンスを生かして古い楽器の良さを引きだせば、ワンパターンで傷を新品のように直すよりもずっと面白いものです。

大変だけど面白いものでもあります。
ちょっと難しい内容でしたが職人さんなら「あるある」と共感できる話でしょう。「こんなニスは嫌だ」と言ってビートたけしさんのモノマネをしたら面白いかもしれません。「・・・やけにおかしいなと思ったら、ポリッシュ液とヒロポンの瓶を間違えちゃったりなんかしてね・・・」、やめておきましょう。