都市のヴァイオリン職人 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちは、ガリッポです。

前回は何千万円のヴァイオリンでほとんどの人には関係のない世界の話でした。
それ以前には100年ほど前に都市で造られたものは、大きな産地で作られたものに比べても価値が高いということを紹介しました。同じ作者でもアンティーク塗装がなされたもののほうがずっと値段高いくらいです。それに対して同じドイツでもマルクノイキルヒェンなどの大量生産の産地でアンティーク塗装をされたものはいわゆる「ニセモノ」として楽器の価値よりも修理代のほうが高くつく場合のほうが多いです。
都市のヴァイオリン職人は大規模な生産体制を持っておらず大量生産品ではないとみなされます。これらを見分けるには「品質」を分かることが重要です。中にはマルクノイキルヒェンで作られたものに自分の名前のラベルを貼って売った人もいます。品質の差を見分けることが重要です。ラッカーのニスが塗られていることも重要なポイントです。
偽造ラベルはどんな楽器でもあり得ます。私の勤め先の楽器でもニセモノが出回っていて「ニセモノだ」と鑑定することがあります。もちろんマイナーであるほどニセモノのリスクは低く、品質が高ければおそらく本物だろうとみなせます。ニセモノだとしても値段が変わらないからです。だから品質が重要なのです。

逆に安物のイメージが強い産地でも品質の高い上等な楽器はあります。音響的にもわかっている職人がいました。イメージの分値段が安いならお買い得です。

やはり値段はイメージによるところが大きいです。都市のヴァイオリン職人でディーラーを兼ねていると名器に精通しているというイメージを持ちます。実際には名器からフィードバックを受けて自作の楽器に影響があるケースは限られています。職人は「絵描き歌」のように作り方の手順を学ぶからです。偉い師匠に教わった作り方はそれ自体が信仰の対象のようなものです。ヨーロッパ人特有の立派な理屈で「音が良い秘密」を語るとまじめな職人はみな信じてしまいます。

このように人は信念を持っているので目の前に音が良い楽器があってもそこからは何も学ばないのが普通です。例外的にそのような楽器もあるということは個人の資質なので、どこの国のどこの街の人にあるのかはわかりません。

オールド楽器を目にしていてもいざ自分が楽器を作るときには全く別の種目の競技となります。自分の生きている時代のルールで腕前が競い合われます。現代の競争にはまってしまうとオールド楽器を見ても自分が作るときには全然違うものになってしまいます。

とはいえ19世紀のモダン楽器はそれ自体が優れたものであり、フランスで組織的に改良がおこなわれたものです。それに近いものであれば十分実用的に優れた楽器です。19世紀、20世紀初めに最先端とされていたのはフランスのモダン楽器です。フランス以外でも都市の職人たちはいち早くフランス風の楽器作りを目指しました。19世紀の早い時期にモダン楽器が作られています。都会の情報の速さというものです。モダンの名器についても田舎の産地では見たこともないという労働者が多いのです。
都市のヴァイオリン職人が作っていたのは優れたモダンヴァイオリンです。多くの場合、値段はイタリアの新作楽器と変わらないかそれ以下なので、演奏の腕が確かな人が選ぶのがどちらかは目に見えています。


それに対して、「下手くそな職人」がはるかに多くいます。過去に作られたものやお手本よりはるかに低いクオリティで満足してしまう人です。現代の楽器として一流の腕前でもなく、オールド楽器の特徴も理解していません。
しかし、大胆な仕事が良い方に働いて立派な理屈を言う偉い師匠の楽器より音は良いかもしれません。
このような楽器もすべて除外することはできません。

19世紀~20世紀初めのフランスやドイツであれば「正解」が決まっていてその通り高い品質で作ってあれば一流の職人、仕事が甘ければ2流以下と分けることができました。現代では民主主義の自由な社会なので、過去の優れたものに比べて下手くそでも、それを作ってはいけないと個人の権利を奪うことはできません。どんなものを作るもの自由なら、どんなものを買うのも自由です。

ハンドメイドの新作楽器が現代の生活水準から算出して150万円くらいだとすると、私が下手くそだと思う職人の楽器でも、150万円の評価額にすることができます。財産の価値として150万円になるのです。しかし誰も買わなければその楽器が150万円に変わることはありません。150万円という値段をつけても不当な値段ではないというだけです。

現代の職人ならその人が何らかの意図をもって作っているかもしれないので尊重して品質が劣るからと言って自動的に安い評価額にするということはできません。絵画教室に行っても現代の教育を受けた先生は「絵は自由に描くものだ」というのが主流でしょう。ダ・ビンチのような絵は描かなくてもいいのです。「落書きのような」現代作品もあります。同様に過去の名器をお手本として作らなくても良いのです。現代は個性や自由というのが芸術の世界では主流です。「子供のような自由な発想で…」でなんて言いますが、子供の描く絵はみなそっくりで、他の子供が描く絵を見て同じような絵を描くのだと私は思いますが、お手本を見せることを良しとしないのは今では主流です。ヴァイオリンでもお手本なんて見ないで自由に作るべきだという考えがあってもおかしくありません。私はお手本をよく見ないで作らている楽器は同じようなものをよく見るような気がしますが職人によって考え方は違います。理屈でなら立派なことが言えます。
19世紀まではそうではありませんでした。今の考え方にすぎません。

ヴァイオリンというのは有価証券や貴金属と違って、その楽器を気に入った人が買うので、その人が現れるまでは一円にもなりません。20年間誰も興味を示さなかった楽器が突然「運命の愛器」となることもあります。



問題は自分の考えと合わないものを買ってしまうことだと思います。
中国製のスニーカーで10万円を超えるものがあります。多くの人は中国製のスニーカーに10万円も出したいとは思わないでしょう。しかし何らかの理由で買う人もいるのです。
マラソン大会に出たいのでそれを買えばタイムが縮んだり、けがを防いだりできるかといえばそういうことではありません。
「高級ブランドのスニーカー」が欲しいという人のために作られているのであればミスマッチです。高級ブランドを維持するにはプロモーションのような戦略が重要です。中国で安く作ったものに多額の広告宣伝費をかけて高い値段で売るものです。そのようなビジネスを成功させたデザイナーは多額の報酬で移籍します。投資以上の成果が約束されるからです。業界はそれが生み出す利益の恩恵を受けようともてはやします。大物デザイナーが手掛けているということで有名になり持っていることが自慢となるのです。
そうではなくて本当にデザインや使用感が自分の好みに合っていて10万円出しても欲しいという人もいるかもしれません。お金が余りすぎていて使い道が無くて困っている人もいるかもしれません。他人がどうこう言うものではありません。

ある人にとっては10万円の価値が十分あるのですが、マラソン大会に履いていくために作られているわけではありません。有名で高価だからとそれ以外を検討しないのはミスマッチを生む原因です。

弦楽器の業界も同じようなものですが混同されています。
本当に自分が求めているものなのかどうか自分の考えを持つことです。私にも強制することはできません。
値段というのは万人にとって共通の尺度のように見えて、実は全くそうではないのです。

都市のヴァイオリン職人はクレモナ、クレモナと言ってきた日本の人にはなじみのないものかもしれません。音楽家からのフィードバックが生かされやすいのがメリットです。音については難しいですが、演奏しやすさについては差が出るところです。そういう意味では期待を持つかもしれません。しかしウィーンでは大量生産が行われていました。ラベルにパリと書かれた楽器も多くあります。ベルリンは東ドイツにあるのでマルクノイキルヒェンやチェコのシェーンバッハ出身の職人が多くいます。個々の楽器を見ることが重要なのです。