実務経験によって得られる知識 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

欧米では年度末です。新学期が始まるのが9月からです。
これからのことを考えていきます。

こんにちはガリッポです。

近年はこのブログで私が日常的に経験することを書いて皆さんにも「実務経験」に近い知識を得る機会にしてもらえたらと思っています。
弦楽器について学ぼうと思えば、初心者向けの本などもあるでしょう。それくらいで終わっていればいいのですが、先生やお店の人、知ったかぶりする演奏家仲間に話を聞いたり、例の専門誌のようなものを読んでしまうと間違った方向にのめり込んでしまいます。

そのためこのブログでは全くの初心者というよりは「自分なりに勉強してしまった人」にそれらの知識が実際とはかけ離れているということを感覚として身に付けてもらおうということでやってきました。

ヴァイオリン職人を志す者でも今は学校で学ぶことが多いです。しかし学校で学んでプロとして一人前というわけではありません。重要なのは実務経験です。学校で厳しく教育を受けてもお客さんの楽器を前にしたら例え優秀な成績だっとしても腕前がまったく不足してます。それだけでなく学んだ知識も実際の楽器には当てはまらないことが多く何もできないものです。現実に出回っている楽器は学校で教えている作り方に沿ったものでないことが多く知識が適応できないのです。
私は幸運にもクラシック音楽の歴史の深い国でそれを積むことができています。

自分から知識を求めていくと自分の興味のあることばかりを探します。それに対して実務経験というのは狭い自分の視野では見ようとしなかったことさえも知識として入ってくるのです。今はそれほど興味が無いようなことでも弦楽器というものの全体像を知るうえで重要なのです。最も重要な理解というのはシンプルな事なのです。

ヴァイオリン製作学校で学ぶとき「このように作るのが正しい」「こうなってはダメ」と教わります。そうすると正しく作ってある楽器が良い楽器だと分かるようになります。職人でないとそのレベルまで理解するのはとても困難です。そのため営業マンや営業上がりの経営者の楽器店では国名名前値段でしか楽器の違いを把握することができません。

職人であれば国名や名前、値段に惑わされることなく楽器の出来栄えを理解できます。それが手抜きで作られたずさんなものなのか、よくあるような平凡なものなのか、細部まで注意を払って作られたものなのかわかります。しかしながら「音」になると必ずしも職人の評価の通りになるわけではありません。値段が音と直結しないことも実務経験によって知ることができると考え方はガラッと変わりますが、職人から見て「適当に作られた」ものでも音が良いものがあることを経験します。ヘタクソな職人が作ったものに音が良いことを経験します。

このブログの初期に弦楽器には3人のプロがいると書きました。

①ヴァイオリン職人
②楽器商
③演奏家

それぞれ弦楽器を扱って生計を立てているのでプロということですが、楽器について見ているところが全く違います。それぞれ長所と短所があります。

①のヴァイオリン職人が興味を持つのは楽器の品質です。②商人が興味を持つのはお金です。③演奏家は音や使い勝手について興味が集中しています。そのため演奏家が楽器を選ぶと職人や商人が「こんなのは安物だ」と思うようなものを選ぶことがあります。

そうなると演奏家が一番分かるんじゃないかと思うかもしれません。そのためレッスンを受けている先生の存在が楽器選びではとても大きくなってしまいます。

問題は先生は単なる個人でありその人の好みであるということです。別の先生は違う楽器を選ぶのです。またいろいろな価格帯の楽器を試した経験があるというわけではありません。これも実務経験によって先生によって好みが違うということも知ります。私たちはこの先生はどんな好みなのかということを知ろうとします。良い楽器が入ったとなればすぐに連絡できるからです。でも実際は本人でもわからないということはあるでしょう。ある楽器を気に入って「とても良い」と言っていたのにまったく違うタイプの楽器を弾いて「これも良いね」なんて言うものですから混乱します。でも人間はそんなものです。私でもいつも違う楽器を作りしますし、全く違うタイプの楽器を「これは素晴らしい」と思ったりします。

同じ職人同士で意見は異なります。商人同士でもそうです。音に関しては千差万別です。したがって誰かの考え方を鵜呑みにするのではなく総合的に楽器を判断するのが妥当だと思います。

私がこのブログでは職人の知識や経験から買った後でトラブルが起きる事が予想されるような厄介な楽器は避ける、内容に対して高すぎる楽器は避けるべきで、その上で音を各自判断するべきだと言っているのです。

楽器商のセールストークは公平な評価を妨げるものが多くあり、知らない方が良いことが圧倒的に多いと説明してきています。

つまり楽器職人が品質や状態が最悪、値段が内容に比べて高すぎる場合は買うべきではないとふるいにかけて、あとは演奏者が好みで選べば良いというのが論理的です。楽器を買った後でその楽器のいわれや作者の特徴などを知識として知れば愛着が深まるでしょうが、初めから情報を入れてしまうと不公平な評価となってしまいます。


私はこのように考えることが合理的だと思いますが、論理的な思考とは程遠い人が特に才能のある音楽家には多く、演奏家は高い音しか出さずに楽器を評価したり、特定の曲だけを弾いて評価しているのはいつものことです。天才と言われるような演奏家でも「心を込めて作られた楽器だから音が良い」と本気で言っていたりします。

私たちが楽器の試奏で薦めているのは、楽器の低い音から高い音までまんべんなく弓を一本端から端まで使って一つの音を出すということです。低音が良くてもそれで「良い楽器だ」とは思わず高い音も試してみることです。
それが楽器自体の持っている音を理解するのに優れた方法だからです。それを基本としたうえで自分独自の「試奏の仕方」を考えてみてください。


職人を志す者は学校で正しいヴァイオリンの作り方を学びます。正しく作られているものが音が良いと思い込んでしまいます。実際にはその教えが当てにならないということを経験します。新しい楽器ではまだ楽器の作り方が音になって現れてきますが、100年以上経ったものだと規則性がよくわからなくなってきます。我々職人でもその楽器からその音が出る理由はよくわかりません。何百年も経つ中で起きた変化の組み合わせによって何が起きるかわからないのです。弦楽器というものは一つ一つの要素を調べても音の違いを説明できないのです。
そのような事実を謙虚に受け止めるような職人が仕事に対して真摯であると思います。謙虚な職人は「自分なんかとんでもない」と「巨匠」を演じてメディアにも出てこないものです。


そのようなわけで自分で勉強してしまった人を対象にやってきましたが、これから勉強しようという初心者の人にはちょっと難しい内容が多いと思います。初心者の人に向けた内容も取り上げていきたいなと考えています。

自分で弾いて音を判断するのはとても難しいですから大きな危険を犯さない楽器選びというのは重要です。最高のものを求めようという思いが強いほど悪徳業者の罠にかかります。弦楽器の業界は世の東西を問わず何百年も前から良い楽器を作ろうという努力よりも、くだらない楽器を高い値段で売ろうという努力が行われてきました。実務経験によって私も始めてこんなにひどい業界だということを知りました。


とはいえ私は文章を書くのが仕事ではないのでいちいち正確かどうか調べている時間がありません。初心者向けの知識はそのような本に任せておきます。しかし次の段階の知識を得ようとするとき間違った方向に進まされてしまうのです。

そのため体系的な知識というよりはその都度テーマを決めて考えていきたいと思います。当然ライターのような人が業者に取材して聞いてくるような知識以上のものを紹介できるでしょう。合わせて上級者向きの記事も分からないことは飛ばして読んでみてください。




それと同時に私の考えというのもあります。実際に職人として楽器を作っているので完全に公平な立場からものを見ることはできません。どんな楽器を選んだら分からないという人には一人の専門家としてたくさんの楽器を経験してきて結晶として自分の楽器も作っていきたいと思っています。当然ひどく悪いものではありませんから値段からすると買って損するものではありません。

これからチェロを作っていくのでしばらくヴァイオリンは作れません。過去に作ったものがいくつかありますので年末年始あたりに日本でちょっとしたイベントができたらと思っています。まだ具体的には決まっていません。
今は以前に作ったヴァイオリンのメンテナンスをしています。特に高いアーチの楽器になると学校で教えられたようなフィッティング方法が通用しません。作られて数年で大きな狂いが生じることを経験しています。弦楽器というのは完成してから弦を張ると力がかかって変形していきます。安定するのにしばらくかかります。10年くらい前に作り応急処置でしのいできたヴァイオリンも去年徹底的にメンテナンスをしてから今年になっても快調です。そのような経験も生かして今やっています。

ツゲの高級品のペグを付けましたが2年もしない間に軸がうまく回転しなくなっていました。曲がっているのです。しかしほんのわずかに削りなおすだけで新品の時のようになりました。

繊細な楽器ほどデリケートです。頑丈でシンプルな構造になっていればメンテナンスも楽になりますが、丈夫すぎる楽器というのは音が出てこなかったり「ここだけで鳴っている」という安い楽器特有の音の出方になります。

私の作る楽器というのは他を圧倒するような派手な音ではなく、渋い味のある暖かい音のするものです。優れたオールドの名器のように遠くで響くようになっています。
下手なオールド楽器より健康的に機能し、モダン楽器に多い荒々しい音ではなく、きめの細やかな繊細な音です。この楽器が弾きこなせればオールドの名器もすんなりと弾けるようになっているでしょう。古い楽器にいきなり手を出すのは危険が伴います。

特に趣味の方であれば味わい深い音は魅力的でしょうし、プロの方でもコストパフォーマンスでは優れていて弾きこんでいくと見違えるようになっていくと思います。