クオリティについて | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

これまでも「クオリティ」について触れてきましたが改めて何がどうなのか説明していきます。
楽器の話というよりは職人の技能の話なのですが、その差がクオリティの差になります。




こんにちはガリッポです。



「弦楽器はひどくなければ何でも良い」というのが私の行き着いた答えです。
欠陥が無く作られていれば優れたものであり、音はなぜかわからないけれどもすべての楽器で違うので、弾いてみて気に入るかどうか試すしかありません。
作者の名前が有名だろうと無名だろうと関係ありません。
技術者の私をしても「こうなっているものがこういう音だ」と言える部分はわずかです。


実際にはひどい楽器がたくさんあり生涯の演奏時間をひどい楽器で過ごすことはもったいないと思います。

酷い楽器が作られるのは
①価格を安くするため
②利益を高めるため
③まともな教育を受けていない
④不まじめ
⑤間違った「音を改善する方法」を信じている

などが考えられます。
天才でなくても、基本通り真面目に作業していればひどくないものが作れます。
その作業自体は初めての人にとってとても難しいものなのでいきなりはできません。訓練をして身に着けていく必要があります。様々な種類の道具も必要です。費やす時間と労力・費用を考えるとヴァイオリンなら100万円払っても買ったほうが安いです。

ヴァイオリンを一つ作るのはとても高いハードルです。


師匠に教わって一つヴァイオリンを作った段階は、師匠の手助けによって肝心な部分がクリアーされています。同じものを自分一人で作れるようになるのはずっと先です。肝心な部分とは「だいたいこれくらい」という感覚に頼る部分です。

何年間もの間を楽器製作に費やす生活を確保することはやはりその道で生きていくという覚悟が無ければ難しいでしょう。師匠は彼のために時間を割かなくてはいけません。


これをクリアーした人は実はけっこうたくさんいます。
世界中には名前を覚えられないほどいます。すべてを試してみないと「世界一」のヴァイオリンは見つかりません。一生かかっても無理でしょう。

にもかかわらず市場に出回る楽器の多くはひどいものです。


五つ上げた理由の多くは「ずるい」と言えます。
自分に甘く都合の良いようにものを考える人は良い楽器を作るという意味で職人には向いていません。インチキな職人やヘタクソな職人は基本的に考え方にズルいところがあります。

人が楽して考え付く「ズル」はおなじようなものですから、そのような職人の作るものは世界中似通っています。ズルい人は世界中にいます。そのため品物の優劣を語るときどこの国の製品かということは何の意味もなしません。


さらに楽器を販売する人にズルい人がいます。
職人から見れば商人はズルく見えます。職人としてズルいということは向いていないということになりますが、商人にとってはどうなんでしょう?


ズルい人が世の中にたくさんいるからひどいものがたくさん作られるのです。

大量生産品のように価格を安くするということはお金持ち以外にも弦楽器を楽しむ機会を与えますから必ずしもズルいとは言えないでしょう。ただし工場での仕事に満足しているとしたら向上心が足りません。現在では旧共産国で多くの量産品が製造されています。賃金水準が安いのであればもう少し品質を良くしても良いんじゃないかと思う製品もよくあります。やはりズルいものが多くなります。










このように下手な職人には特有の思考パターンがあるためそのような職人の作った楽器を見るとすぐにそうだとわかります。誰しも思いつく手の抜き方をしているのです。


厄介なのは本人は自分のことをズルいとは思っていないのです。
ちゃんと仕事をしたと思っています。お客さんにはそのように自信たっぷりに話すでしょう。
それがズルい人です。

オールド楽器

オールド楽器の作風が珍しいのは彼らが飛び抜けた才能を持っていたからではなくて時代が違うからです。

その時代の常識の中で真面目に仕事をしたりズルをしたりします。
常識が違うのでいずれにしても出来上がるものが違います。

ズルして作られたものであっても現在ズルしたものとは違います。
私はそういう楽器を「巨匠の傑作」と過大評価しません。高価なオールド楽器でもまともに音が出ないものもあります。


多少のズルは人間だからあります。
「ひどくない」という範囲に収まっていれば良い音がするかもしれません。後の時代の修理によって何とかなっている場合あるでしょう。


板を薄くするのが常識のオールドの時代なら多少手を抜いて厚いままで完成にしたとしてもそれほど厚くありませんが、厚いのが常識の現在に手を抜いて削りきらなければどうしようもなく厚くなってしまいます。



楽器作りの前に

楽器作りをする上で重要なのは刃物を研ぐということです。これは古いイタリアの文献にも木工をする場合にはとにかく鋭利に刃を研ぐことが重要だと書かれています。古代ローマ時代には手動工具は今とほとんど同じものがありました。その時から刃物を鋭利に研ぐことが重要だと考えられていたはずです。

あらゆる文明で刃物を鋭くするということは重要視されたはずです。

木材は石材に比べればまだましな方です。石はコツがあってうまく楔を入れると割ることができます。木材もそうです。しかし切ろうと思ったらノコギリの刃を何度も研ぎ直す必要があります。古代の石材加工を研究するために考古学者がノコギリで石を切ろうとして苦労していました。骨の折れる作業です。少し切り進んだだけでも全身が疲労してしまいますが、ノコギリも摩耗してしまいます。のこぎりの刃の一つ一つを削りなおす必要があります。

人類の歴史で刃を研ぐということは最近になって全く行われなくなったことです。1950年くらいから急激に失われていきました。私が古い工具を買おうとするとイギリスなどで1950年代の未使用のものがそのまま倉庫に眠っていたりします。業者は必要だと思って購入したのでしょうが電動工具に取って代わられて使われることなく眠っていたのでした。

磨製石器も含めると1万年近く人類は刃物を研ぐということをやってきてこの半世紀にやらなくなったのです。スマホは使うようになりましたが刃物は研がなくなりました。1万年続いてきたことが我々の生きている間に失われたのです。失われて間もないです。


特に日本人は刃を研ぐことに異常なまでにこだわりを持っていた民族です。包丁やかみそりを研げなければ生活ができませんでした。


私は変わったことを言っているのではなくて、木工をするうえで刃を研ぐということは基本中の基本だったのです。

これがうまくできなければ楽器を作ることができません。
カッターナイフのようなものではプロとして仕事はできません。

私は刃渡り1㎝のナイフでもうまく研ぐのは今でも難しいです。


刃をうまく研げていない職人の楽器はガチャガチャの雰囲気になります。現代であればサンドペーパーを多用してグズグズになっています。楽器の雰囲気に直結するのが刃を研ぐ技能です。

ズルい人は刃を研ぐことを怠けるし、上達しようと努力しません。めんどくさがります。
刃の研ぎ方が汚い人は仕事も汚いです。面倒なことはごまかしていきます。たとえばお客さんが5年間なり10年間なり使用してきた楽器をメンテナンスするとすれば5年分、10年分の汚れや消耗、ダメージが蓄積しています。刃を研がないような人はチャチャッと仕事を済ませます。念入りにはしません。刃を念入りに研がない人が楽器を念入りに手入れすると思いますか?

刃を研ぐことに真剣に取り組まない人は楽器にも真剣に取り組みません。


良く切れる刃物を持っていると仕事のタッチが全然違ってきます。
見た目の美しさや接合の確実性に差が出てきます。


楽器作りを習う時に難しいのは刃を研ぐことが全然できないところから始まるので、楽器をづくりを覚えるのと同時に刃物を研ぐ腕を磨く必要があります。私などが刃物を貸してあげれば全く状況は違います。



すぐに刃物を研げるようにはなりませんが刃物を使う方にもコツが要ります。
スポーツの競技のように全身を使って刃先に力を込めることができるようになる必要があります。理想は一定のスピードで刃物をできるだけゆっくりと動かして一続きの削りくずで一回のストロークを終えることです。ゆっくり一定の速度で刃物を動かすのは至難の業です。特に初心者は初めにつっかかって力を入れると今度は止まらなくなって行き過ぎてしまいます。じわっと削れるとうまくいっていると言えるでしょう。

材料を固定するのも難しいです。
日本では伝統的に床に座る文化ですから作業台のようなものはありません。西洋なら作業台に材料を固定するということですが、日本の職人は脚や反対の手で押さえながら仕事をします。
弦楽器の場合にはものも細かいし、形も不規則なので固定するのは難しいです。固定すると自由が利かなくなったりします。したがってうまく材料を保持しながら刃先にも力を入れる必要があり、行き過ぎてはいけません。

スポーツのように「フォーム」というのはあると思います。
手で刃物を動かすのではなくて全身の動きで一体になって力を加えるとゆっくりと強い力を一定にかけることができ、行き過ぎることがありません。

学校でも図工や美術の時に彫刻刀などを使ったと思いますが、彫刻刀の先に反対の手を持っていこうものなら危険だと先生に怒られるでしょう。しかし私はやってしまいます。なぜかというとブレーキがかけられるからです。上半身の動き以上に刃物が動くことがないからです。

始めのうちは手だけで刃物を動かしています。
指導者は見ていて指摘してあげる必要があります。構え方を教えなければいけません。

教えられても最初はしっくりこなくてやりにくいものです。
右利きの人が左手でボールを投げるように体がバラバラの動きをしてしまいます。そこで不まじめな人は師匠の言う事を聞かずに自己流のやり方に変えてしまいます。一生上達しません。刃物の切れ味も悪いのでやりにくいのですが、それを練習していかないと身についてきません。

そのような訓練をしていく中で筋力がついて体ができてきます。
体ができていなければゆっくり刃物を動かすことはできません。ウェイトトレーニングをしていてもダメです。筋骨隆々の人でもノミを手にするとカスのような削りくずしか出せません。腕力だけでもないですね。

ノミなどのフリーハンドで使う刃物で行き過ぎてしまうことを恐れると攻めきれない楽器になります。見るとすぐに攻めきれていないとわかります。未熟な職人の作った楽器です。形も見えていません。もちろん見えていなければ行き過ぎる人もいます。



刃物をゆっくり正確に動かすことができれば正しく加工ができます。

次に重要なのはまめに測って確認することです。
ストラディバリくらいになれば「感覚」がどんな測定機よりもしっかりと把握しています。
しかし正確に加工するためにはまめに確認することです。
師匠にチェックされてここがダメ、これじゃダメと言われるわけです。一通り教わった後はもう師匠にチェックされません。途端にルーズになっても良いのでしょうか?それもずるの差が人によって出て来るポイントです。

「師匠にOKをもらって次の工程に進む」ということが目的なのか師匠がいなくても自分でチェックの仕方が分かるようになる事が目的なのかです。そういう差です。

最もレベルが高いのはそのストラディバリのように感覚で形をつかむことです。
造形センスはもはや天性の才能が必要で教えようがありません。努力だけではどうにもなりません。
しかし、演奏者の音の好みは人それぞれでそこまでの才能が無い人が作ったものでも気に入る人がいるかもしれません。よく鳴る楽器もあります。

クオリティという概念を持っているか?

これは非常に個人差があることで、職人を志す前からすでに決まっています。クオリティという概念を持っている人と持っていない人がいます。持っていない人に何を教えても無駄です。日々の生活の中で品物を手に取った時に「これは質が良いな」ということを感じるか感じないかです。

最近はインターネットで商品が販売されていて、アマゾンの様なサイトではレビューとして購入した人が感想を書いています。同じ商品でも「これはひどい安物だ」と書いている人もいれば「とても満足しています」と書いている人もいます。どっちが幸せかはわかりませんが、クオリティの概念が全く違います。

私は自分には厳しくても他人には甘いです。
私はそんなにお金を払っていないのでやたらに高度な要求はしません。
ただあまりクオリティが低いものを買うと気分は沈みます。
実際に道具として使用できなければ買い物には失敗したことになります。


クオリティという概念が無い人は全然無いです。
そうなると同じように楽器を作っていても価値観が全く違う人になります。
クオリティの概念が無い人が「あの人は才能がある」と言う時は手際よくテキパキと仕事をこなす人を言います。クオリティに敏感な人はこの世のものとは思えない美しさを生み出す人を才能があると考えます。全く違う人が尊敬の対象になります。

クオリティ競争

工業製品のようなものにはライフサイクルというものがあります。

新しく発明されたり、実用化されたものが、徐々に人々に普及して多くの人に使われるようになっていきます。初めはとても珍しく高価であこがれの対象だったのが、誰もが持っているようになるとそのものにときめきもなくなり欲しくもなくなります。興味は薄れただ値段が安ければ良いとなっていきます。

詳しくはこちらを参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%BD%E5%93%81%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB

クオリティということに関して言うと


クオリティが重視され始めた段階でその製品は下り坂に入っていると言えるでしょう。
競争の中でクオリティを競い合うようになります。しかしクオリティの概念を持っている人は少数派ですからマニアックな趣向ということになります。安い製品のほうがはるかに多く売れます。人目を引く派手なセールスポイントのほうが多くの人の心をつかみ、同じ値段でも質の良さを分かって選ぶ人は少数です。

クオリティという概念を持っていてものの違いが分かる才能のある人が少数派で肩身の狭い思いをしなくてはいけません。クオリティに敏感な人が創業した会社でも大きな会社になるほどクオリティに鈍感な人の割合が多くなるのです。


過剰なクオリティは実用的な道具としては非経済的です。
クオリティの概念を持たない人の意見が多数派であるだけなく正当性があります。

クオリティに敏感な人はそれが許せないです。自分で物を作るなら高いクオリティでないと許せないのです。師匠から怒られてそうするのではなくて耐えられないのです。怒られてできることには限界があります。


弦楽器は1500年代にアンドレアマティによって作られた当初はとても手の込んだもので、チェンバロのように楽器に絵が描かれているものもありました。珍しく高価で王様や貴族しか買えませんでした。それでももっと前からあるヴィオール族の楽器はさらに凝った装飾が施されていました。それに比べるとヴァイオリン族は質素なものでした。ヴィオール族は頂点を極めた後だったと言えるでしょう。

アマティ家によって確立した弦楽器はイタリア各地やヨーロッパ全体に広まりました。雑に作ることによって価格を安くし音楽家が買えるものになりました。オールド楽器の多くはこのように当時は「安物」として作られたものです。イタリアのものであればそれが今では「巨匠の傑作」と誤解されています。その中には音の良いものもうまく機能しないものもあり、宝探しのように探す必要があります。

雑に作られたこのような楽器はクラシック音楽の発展に大きく貢献しました。オーケストラでは主力の楽器になりました。


さらに19世紀になるとフランスで優れたヴァイオリンの製造方法が確立しました。クオリティは頂点に達します。合理的な大量生産も行われるようになり価格も安くなりました。19世紀の終わりにドイツで大量生産が始まるといよいよ子供が習う楽器の定番になりました。日本ではまだそうなっていませんが。

ヨーロッパではこの頃の中古品が山のようにあります。
修理する手間を考えると新品を買ったほうが安いというケースも多く、弦楽器工房では修理している時間がありません。
旧共産国で生産が行われるようになり仕入れ価格は極端に安いものです。楽器用に木材を買うよりも完成した楽器を買う方が安いくらいです。



初めにアマティ家によってオーバークオリティで設計されたものがストラディバリなど一部の職人以外の人たちは、雑に手早く作ることで価格を抑えたのがオールド楽器です。クオリティは初期の世代のほうが高いということになります。クレモナやイタリアの楽器製作で1750年以降「衰退した」と考えられるのはこのように雑に作られた楽器が多くなったことです。

それに対して1800年ごろからフランスで高度なものが多くの職人によって作られました。これが世界各国に伝わったのが現代の楽器製作の起源です。

私が初期のクレモナの楽器と19世紀のフランスの楽器を尊敬の対象にするのはクオリティが高い水準にあったからです。

職人と芸術家

現在芸術家と職人は別個のものだと考えられているでしょう。しかしルネサンスの頃は、芸術家という職業は無く職人しかいませんでした。絵や彫刻を作る人も絵や彫刻を作る職人だったのです。今ではカメラやテレビ画面がその仕事をしています。

画家も彫刻家も広く言えば内装業や建築の一分野でした。

画家は世襲制で才能に関係なく父親の職業を継ぎました。絵の描き方や仕上げのクオリティをチェックされ合格レベルにあればプロの仕事として代金がもらえて生活ができました。そのため絵の才能のあるなしには関係なく画家として生計をたてられたのです。

その中でも造形の才能にあふれた人がいました。ずば抜けた技量を持っていたために「アルティスタ」と呼ばれました。アルテとは技能のことです。つまり卓越した技を持った人をアルティスタと呼んだのです。あくまで職人の中で特に造形センスのある人がそう呼ばれたのであって職人と別の職業というわけではありません。

弦楽器も全く同じで、才能が無い人でも一通り技能を学び、一定の仕上げの水準を満たせばプロとして代金を請求できます。同じように仕事をするのでも造形センスのある人は卓越した美しさを生み出します。しかし道具としての機能にはさほど違いはありません。ストラディバリはまさにアルティスタですが、デルジェズはただの職人です。でもどちらも音が良いとヴァイオリン奏者には愛用されています。


私が思うのは、職人の間にも造形センスには大きな差があり、美しいものを作るアルティスタの様な人がいる一方、全くものの形の美しさを作り出すことには興味が無くただの道具を作る人がいます。私が見れば才能の有無は一目瞭然ですが、一般の人には難しいかもしれません。しかしながら音になると必ずしも才能のある人のものが良いというわけでもないのです。

また腕の良い職人と造形センスは一致しません。
刃物の切れ味は鋭く加工は正確で歪みなくデコボコが無く仕上げられていたとしても造形センスが無い人もいます。職人として技術は高くクオリティも高い物ですが、形の美しさは別の問題です。


クオリティと美しさ

美しさとはものの形のバランスによって生まれると古代ギリシアの人は考えました。ルネサンスにわすれさられていた古代文化を復興させる運動が起きこの考えは復活しヨーロッパでは長らく基本とされました。

日本に生まれるとこのような概念を知ることなく成長し大人になります。ヨーロッパの人たちは基本過ぎることですが、日本人はその基本を持っていないため彼らから見ると日本人の作り出すものは斬新に見えます。現代の日本の製品や文化のファンの人たちはそれらを「クール」と評価します。「美しい」という評価には伝統的なヨーロッパの美意識が根底にあるためそれとは違うものとして「クール」と表現します。日本政府も国を上げた戦略に位置付けています。


私もヨーロッパの「美しさ」に触れたときになぜかわからないけども美しさを分かることができます。理屈は後からついてくるもので、古代ギリシャ以来の…という説明で納得します。

そういう観点から楽器を見ていくと美しさは形のバランスによって生まれるということが分かります。仕上げの精巧さではなくて全体のバランスだということが分かります。そのため仕上げがそれほど完璧でなくてもバランスが良ければ美しく見えます。

このような美しさを作り出す造形センスを持った人がアルティストだと私は思います。


仕上げの正確さは欠点の少なさという要素で、ギリシャ的な意味での美しさとは違います。
これについては特に日本人の職人は敏感な部分です。南ヨーロッパより北ヨーロッパの人のほうが敏感です。イタリア人はその逆です。

日本では特にそのような職人が優れていると評価されてきました。日本人の感覚では欠点の少ないものが美しいものとなります。ギリシャ的な意味では違います。


ギリシャ的な美しさとは「何となくバランスが良い」というものです。それは何となくなのであって言葉で定義づけたり数値化することはできません。バランスに欠点が無いということではありません。

哲学者のプラトンは人が死んだ後に転生してもう一度生まれ変わると信じていて、その時に天国を垣間見た人は美しいものを作り出せると考えていたと・・・そのようなことを本で読んだことがあります。


と言われてもちんぷんかんぷんだと思いますが、美しさというのは感じられる人にしか感じられないものなのです。高価な楽器の売買を専門にしている人でも、偉い職人でもその人が美しさを理解できているかは怪しいものです。なぜなら美しさを分かる人が出世する仕組みがないからです。少なくとも民主主義の多数決のしくみでは選ばれません。

私が、世界的に有名なディーラーや職人の意見であったとしても全く相手にしないのはそのためです。私が美しいと感じるかどうかが重要なのです。

私は他人が作った評価を利用してわかっているふりをするんじゃなくて、真剣に楽器に向き合いたいのです。


それは私個人が真剣に向き合って感じた考えであって、他の人に強要できるものではありません。「私はそう思います」というだけです。他の職人には他の考えがあっても何も言えません。



楽器の値段を査定するという公の仕事では私が美しいと思うかどうかという個人的な要素を反映させるのはまずいです。仕上げが丁寧で正確であれば不恰好と私が感じてもそれはクオリティの高い品物です。

不恰好なものを作っている職人は自分が作っているものを高品質と満足しているのです。彼も立派なプロですからプロの価値基準です。



楽器は音を出す道具ですから、機能を果たせばそれで優れた道具と言えます。




分からないからおもしろい

何事も上級者は難易度が高い方が面白さを感じるということはあるでしょう。

登山家であれば登るのが難しい山ほど挑戦したいのです。
99%の人はそんな苦労をする人は頭がおかしいと考えます。ロープウェイで行きます。

簡単で、できて当然ということは面白くありません。
逆に全くどうにもならないと面白くもありません。
ワクワクするような楽しさを最大化するにはもしかしたらできるかもしれないという難題に取り組むことです。

できるかもしれないと思ってやってみても考えが甘くて失敗します。そこからどうするか考えてジタバタしていくことが楽しいのです。


弦楽器の面白さは分かりそうで分からないというところにあるでしょう。変人にとっては挑戦する対象が困難なほうが楽しいわけですから弦楽器は理解できないものであってほしいものです。そうでない人は表面を知って分かった気になるのと精神が安定します。


これが面白いのは一つは外国のものであること。もう一つは昔のものであることです。理解するためには難易度が高くなります。生まれ育ってきて身近で見たり聞いたりしていたものが全く違う人が作ったものです。分からなくて当然です。でも全くが歯が立たないということもなくわかりそうな気もするのです。そこが絶妙で面白いものです。


現代の工業製品でも時代に伴って変わっていきます。
同じメーカーでも働いている中の人が若返って変わっていきます。
世代によって生まれてから見たり聞いたりしてきた経験が違ってきます。そうなると同じメーカーでも昔と同じ製品を作るのが難しくなります。デザインのことを言うと会社は売れ行きを低迷させず伸ばすために、新しい時代の人たちの目に美しく見えるものを作ります。デザインが評価され売れ行きを記録するのはその時代の「目」に美しく写るものです。

デザインを作る人はどんどん世代交代していきます。今の「目」では50年前のものを作ることができないのです。50年前の人はそれを美しいと思って作ったのでした。今の人がやってもレトロ趣味という違ったものになっています。


職人の場合には修業によって師匠から同じ「目」を学びます。
そのため時代が変わっても同じようなものが作られます。これが消費者の目とずれてくるので「古臭いもの」に見えてきて衰退してきます。


特に古臭く見えるのはその時代にもてはやされ一世を風靡して美しいとされたものです。振り子が逆に振れて古臭く見えるのです。

こういうものが良いという考えが広まると皆こぞってそちらに流れます。次に新しい価値が出て来るとそっちに急に流れあんなに絶賛されていたものが逆に酷評されるようになります。

それは製品の買い替えを促して販売数を増やす戦略として企業を成長させてきました。



このことからも一番格好が悪いものは、一昔前にもてはやされたものということになります。このブログの読者の皆さんはすでにそのようなことに気づいてしまっている人も多くいると思います。90年代くらいに称賛されていた楽器を買ったのに今となっては気に入らないという人から相談を受けます。


私は時代と関係のないものを作りたいと思ってます。英語には「timeless」という単語があります。直訳すれば時間が無いという事になりますが忙しいというわけではなくて時代を超越しているという意味です。日本語でもそういう言葉が広まって欲しいものです。時代を超越したものはこの瞬間に見る者を強く刺激することは無いかもしれませんが10年経ってもひどく格好の悪いものになったりはしません。クラシック音楽もまさにそれです。強く求めすぎると目先の刺激にとらわれてしまいます。


アンティーク塗装も「そのころはアンティーク塗装が流行った」というレベルではいけないと思います。実際に今流行のアンティーク塗装の手法はあります。そういう職人たちは大きな顔をしています。若い人たちはこぞってそれを真似します。

私はそういうものからは距離を置いています。

アンティーク塗装はそのトリックの手法が独り歩きします。たとえばフランスの19世紀のものには独特のスタイルがあり、見ればすぐにアンティーク塗装だとわかります。それがドイツのザクセン州で大量生産されるといかにもドイツの量産品というアンティーク塗装の手法があります。ハンガリーのものも見ればハンガリーの楽器だろうとわかります。エアブラシ、スプレーによる塗装が実用化するといかにもスプレーという塗装になりました。

それらは本当の楽器が古くなったものとは違います。本物を見てない上に手間を省略しているからです。


オールド楽器を理解して再現することはとても難しいです。
昔の人が美しいと感じたものであり、外国のものでもあります。使っていくうちに古くなっていく変化もあります。

ジーンズなどでもその時代その時代に編み出され流行するユーズド加工の手法があったそうです。ユーズド加工の雰囲気によって時代が分かるのです。古いものを再現するという意味では時代の流行とは逆のように思います。しかしリアルな本当に使っていく中で古くなったものとは違い手法が独り歩きしているために、これは80年代のユーズド加工だなとか、90年代のだなとか、ヨーロッパのものだとかアメリカのものだとか違いが出てきます。一昔前に一世を風靡したものがカッコ悪く見えるので若い世代には中古品がカッコ悪く見えるのです。そうかと思えば、リバイバルとして復活したりします。いずれにしても時代によって見え方が変わります。

今ではひざに穴が開いたジーンズを履いている若者を見かけます。そうならないように100年前の人は考えて対策を施しました。業務用の作業ズボンではひざのところが2重になっています。プロテクターをひざのところに取り付けることもできます。そんなものは彼らにとってはオシャレではありません。物の良し悪しにとって時代というのがいかに大きな意味を成すか思い知らされます。自分が物を感じる感じ方はその人の心で感じているのではなくて時代にそうさせられているようにも思います。その時代の中で素直に物を感じるとその時代に染まってしまうとも言えます。


それに対して本当に古くなったものは時代を超越します。
そのためには本当に古くなったものを研究して再現する必要があるでしょう。ただし、大量生産品では手間暇をかけていられませんから、手法が独り歩きしてしまいます。流行を作り出したほうがビジネスも成功するでしょう。



私はアンティーク塗装をするのなら、本当に古くなったように再現するか、控えめにしておいてその楽器が自然と古くなるのを待つかのどちらかだと思います。わざとらしいのが一番ダメだと思います。手法をまねたものだとその時代のアンティーク塗装になります。


現代の楽器作りは19世紀のフランスのストラディバリモデルが基本になっているためにそれ以外の美意識を持つことが大変に難しいです。本当のオールド楽器を理解するのはとても難しいです。当時の人たちの美意識が現代の職人のものとは違うからです。

わたしはコピーとしてならオールド楽器のようなものを作ることができるようになってきていますが、自分のデザインでそれを作るのは難しいです。見たり聞いたりしてきたものが違うからです。

全く分からないわけでなくて分かろうとするのが楽しいです。


私は「どのオールドの作者が一番好きですか?」と聞かれても答えることはできません。古い楽器は作っていた人と感覚が違うので完全には分かっていません。分かっていないのに良し悪しを語ることはできません。分かろうと試みるのが面白いのです。現代の職人の感覚から離れているものほど挑戦する相手としては魅力的ということになります。

特に難しいのは特徴がはっきりしたものよりも、一見普通なのに何となく独特の雰囲気を醸し出しているものです。何が原因でそうなっているのかわかるのが特に難しいです。出来上がってみて「あれ?違った」と気付くレベルのものですから、いきなり作れるものではありません。何が違ったのか考えるのです。

楽器が持っている雰囲気というのはその人が意図的につけたというよりも、知らず知らずのうちにその人の癖がにじみ出ているからです。それは師匠から受け継ぐ部分もあります。多くの産地では職人の移動があり別のところがから人がやってきて作風が混ざったりすることもあります。
本人は意図せず無意識でやっていることを再現するには同じ感覚を身に着けるしかありません。だから難しいのです。それは面白いということでもあります。

腕前さえ良ければどんな楽器でもたちまち同じものが作れると私も以前は考えていました。そんなに簡単なことではなさそうです。ある程度専門分野ができてくると思います。


面白い楽器はありますが、好きな楽器というのはまだわかっていません。
不可能に近い挑戦ですが自分の育った環境で培った目以外の目を学ぶことがとても面白いのです。

訳が分からなくてもアマティの形を忠実に再現することを繰り返していけば徐々にオールドのクレモナ派の目が身に付いてくると思います。やっているときは私もよくわかっていません。「こんなもんかな?」という程度しか実感はないです。後で目がニュートラルになってみると「アマティになっているじゃん」と思えれば成長しています。

完全にオールドの時代の目が身に付いたときに自分のデザインで楽器を作れば現代の流行の目でオリジナリティを強調したつもりになっているものとは全く違うものができるでしょう。



それは初めにも言ったように道具の種類や使いこなしの裏付けが無くてはできません。頭でイメージしても工具があっていなければできないのです。感覚を身に付けて体で作っていくのです。


これからアマティモデルのビオラ作りを通してクオリティついてい語っていきたいと思います。