ビオラ製作で見るクオリティと木工技能【第4回】横板の加工 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

久々にクオリティの話です。
ふつうは外側はきれいにしても内側は手を抜くものです。
腕の良い職人という人種はおかしなもので一銭にもならないところまでしっかり作るのです。



こんにちは、ガリッポです。


ヴィンターリングのチェロですが持ち主のプロ奏者が弾くのを聞かせてもらいました。さらに印象は良くなりました。

ヴィンターリングがおもしろいのは表板が全て4.2~4.3mmくらいになっていることです。低音から高音までバランスよく出ます。ということは3.5では薄すぎるし5.0では厚すぎるということです。ちょうどいい厚さを100年前にすでに見つけている人がいるのです。しかし私は今回初めてこのことを知りました。

一方裏板は中央が極端に厚くそれ以外は薄くなっています。これも同じ厚さの表板に対して極端に違う裏板の厚みという全く逆の組み合わせです。それでちゃんと楽器としてうまく機能するというのがおもしろいです。

試行錯誤を自分でするのも良いですが、過去から学ぶことは知的な活動といえるでしょう。我々が考えるより多くの人がいろいろな試みをしその結果は見向きもされずに忘れ去られているのです。宝の山ですね。

ヴィンターリングを見ると表板の中央が陥没するようなトラブルはありません。
バスバー側が沈み込みf字孔の外側が浮き上がっている楽器もあります。とくにコントラバスに多いです。「変形を防ぐために表板の中央は厚くしなくてはいけない」と我々は考えてきたわけですが違う理由がありそうです。同じ板の厚さであることによって力が均等に分散し極端な変形をしないと考えられます。

一方裏板の場合には魂柱の一点にのみ力が集中するので全体が同じ薄さなら魂柱のところがボコッとアーチの外側に飛び出てくるのです。プレスにはそのような薄い板のチェロがあり音響的にも腰が無いように思います。

トラブルを起こした楽器とそうでない楽器を比べる事でも学ぶことがあります。



よくマネをすることを悪い事と考える風潮があると思います。
人の生み出した手法をまねるのはズルくて、自分で編み出さなければ値打ちが無いというのです。

昭和の頃の「素人のど自慢」というようなテレビ番組のVTRを見ました。今では考えられませんが審査員の人が参加者の歌い方に対してこっぴどく批評しているのです。「君のそれはどこかで聞いたことのあるようなものだ。自分独自の歌い方を見つけなさい。」と・・・・。

素人がどこかで聞いたことのあるようなプロの歌手のように歌えているならすごいことですよね。そのレベルでは出て来るんじゃないと言わんがばかりです。


うまく歌えて当たり前でその上に自分のスタイルを編み出しそれがその人の独自のものだと認識されることが重要だというのです。


弦楽器の世界ではこれはまったく当てはまりません。

弦楽器売買の世界ではうまく作られている楽器の割合は少ないのでたとえ何かに似ていたとしてもその時点で貴重な良いものです。一つはレコードで複製できるという時代には、よくありがちなものではプロモーションにお金をかけ大量に複製する価値がないと考えられたのでしょう。録音技術が無い時代に田舎の町に歌手が来て歌ってくれるのならうまいというだけでも聞いた人は得したと思ったでしょう。弦楽器も高いチケットを買って聞きに行くなら名器であってほしいかもしれませんが、限られた予算の中で自分で購入する場合は独自性は無くてもうまくできていれば買い物としてはかなり良いと思います。

マクロとミクロの視点によっても状況は全然違うと思います。しかし漠然としてこのような考え方は定着しているのだと思います。


私のいるところでは生バンドの演奏というのはよくあってちょっとしたパーティーのようなイベントでも活動しているバンドがあります。高齢者の集まるパーティーならプレスリーやビートルズなどのヒット曲を演奏し、中年ならAC/DCなどが人気があるようです。そのような流しのバンドも「なんだ素人が」と見下すよりもパーティーの演出として好まれているようです。したがって彼らは自分の曲なんて求められていないし場を楽しませるということに役割を見出しています。

日本人のほうが歌手に対して信仰の対象としてのカリスマ性を求めているのでしょう。欧米の人たちは自分たちのパーティーを演出する脇役と考えているようです。これは最近に始まったことではなくて、ハイドンでもモーツァルトでもそうでした。身分はパーティに来ている貴族の方が上ですからお気に入りの音楽家として所有物のように考えられていたことでしょう。自分たちのほうが主役ということです。


日本の文化について特徴的なのは信仰の対象としてのカリスマ性を非常に求めることだと思います。したがって一度あがめられると少しでも違うものは認められなくなるということもあります。
そのためのハードルが非常に高いということがのど自慢での厳しさになっていたと思います。


昭和の歌手がカバーで別の歌手の歌を歌うと癖が強くて面白いです。
森進一が尾崎豊の『I LOVE YOU』を歌っています。

ラジオやテレビなどの音質が悪かったことも「わざとらしい」歌い方のほうが映えるということがあるでしょう。クラシックが不利なのはその点もあります。






それに対して私たち職人が使う道具は全く違います。
何世代にもわたって使い勝手を研究してきた結果、独自性を強調することはありません。商業的に成功するにはそれも必要でしょうが、プロの職人が使う場合実際に使ってみて刃物の質や使い勝手が良ければそれで愛用品となります。形は収斂していきどのメーカーでも違いはありません。実際に使って質がよければ同じメーカーの違う種類のものをまた買ったり同僚に貸して気に入れば彼らが購入します。

切れ味が悪かったりすぐに切れ味が鈍ってしまうのは質が良くありません。切れ味が良くても刃先がもろければボロボロと割れてしまって使い物になりません。一方で理想的なものも存在せず使い手が工夫していく必要もあります。意外と何でも良かったりする面もあります。刃の切れ味以上に重要なのは刃の形状であったり持ち手の形であったりもします。

見た目は同じでもしっくりくるものとそうでないものがあります。

ハンマーなどは石器の中でも原始的なものですからおそらく少なくとも何百万年も前から世界中にあって金属製のものができるようになってからもほとんど形は変わっていません。なぜか使いやすいものとそうでないものがあります。様々な職業に合わせていろいろな形のものが作られました。頭がグラグラしてくるという石器時代来の欠点はいまだに解決していません。すべてを一つの金属で成形すればいいわけでそういうものもありますが全体の重さが変わって使い勝手は違ってきます。


ハンマーのコレクターという人もわずかにいます。キリが無いので始めない方が良い趣味です。
ストラディバリのように名品のようなものはあまりないようです。高価なものは彫刻や宝石などの装飾が施され時計のようなものです。実用性でずば抜けているということはもはやないようです。ハンマーというものがそれだけ完成しているのです。個人の能力でどうにかなるレベルのものというのは大したものじゃないのです。弦楽器の歴史は500年にも満たないのです。


一番良いハンマーは何かと考えるわけですがおそらく鍛冶屋が自分で使うために作ったハンマーが最高ではないかと思います。鍛冶屋は叩くのが重要な仕事だからです。売り物には決してならないので市場には無いでしょう。意外とハンマーは専門外で他の鍛冶屋から買っているのかもしれません。

ともかく道具はものさえよければ独自性なんてものは全く必要がありません。


商業的には製品を選択するときに分かりやすい特徴があることが求められるのです。
包丁もテレビショッピングでは画期的なアイデアがあるように説明しますが、普通の包丁でもまめに研げばよく切れます。


私は音楽についても個人を信仰の対象とするよりも、ジャンル全体の厚みに興味があります。
作る人と聞く人が一体になって作り上げてきたものだからです。

会社でいつもクラシックばかりだと飽きてしまうので違う音楽もかけようとしてきたのですが、どのジャンルのものにしても嫌いな人が出てしまうのです。4人しか職人がいないのにです。嫌いな人がいないのがアメリカの50~60年代のオールディーズというものです。出稼ぎのイタリア人や実習に来ている学生にも好評で不思議なものです。ヒット曲がかかると先代の師匠は「昔はジュークボックスでこればかりが何度も再生された」と言っていました。ラジオや録音技術が低いのでそれに映えるような演奏が好まれたのでしょう。曲調はどれもよく似ていてその時代のアメリカ人がすごくはしゃいでいたのに驚かされます。多くの曲で「サタデーナイト」という歌詞が連呼されているのが聞き取れます。




日本人が信仰の対象になるようなカリスマ性を弦楽器にも求めてきた結果が「イタリアの巨匠」なのです。実際にはただのよくあるようなヴァイオリンなのにそれをあたかも他の人にはとうてい作れないものであるかのように錯覚しています。消費者のほうにカリスマ性を求める心があり、そこに宣伝を持ちかければ思い込みが成立します。

こっちで学んだ日本人の職人と日本の状況の話をすると「宗教か?」とあきれることになります。






昭和の歌謡界のような考え方ももちろんありますが、他の考え方も視野に入れた方が良いと思います。

私も商売としてやっていくなら選びやすいものを作る必要があるかもしれません。
ただし独自性を強調しなくても多くの試行錯誤をしていけば自然と独特のスタイルに行きつくことでしょう。
それをしないで「自分の腕はいいのに売れないのは世の中がおかしい」と毎日言って暮らしていたら誰も寄り付かなくなるでしょう。そういう先輩の話を聞かされてきた私たちの世代はそれを乗り越えていく道を見つける必要があると思います。



ビオラ製作の続き



横板を切り出してカンナをかけ一定の厚さにします。

前にも紹介していますが、杢が深いほど表面が割れたりしやすいものです。今回は特に良い木を使っていますから難しいです。40~50年前のものですから弾力もなくなっていてすごく危ないです。カンナをいかにうまく調整するかが重要になってきます。

アマティのモデルということもあって今回はブロックには柳を使います。木材の種類による音への影響はわかりません。

重要なのは繊維の向きです。柳はねじれている木なので真っ直ぐにするのは難しいものですが、量産品は繊維の向きは無視してありますが機械で加工するなら関係ないところです。手作業では逆目が出ると削るのがすごく難しくなります。ネックを正確に取りつけることも困難になります。スプルースと違って年輪の木目が強くないので質は均一です。

こちらの面が完全な平面になっていて、さらに底面が垂直な平面になっています。さらに両側の面はその2面に対して垂直になっています。幅はきっちり木枠にはまる幅に加工します。

エンドピンを外して穴からのぞいたときにこれがきっちり加工されていると上部ブロックの側面を基準に魂柱を立てると魂柱の傾きが分かります。ブロックが真っ直ぐならそれと同じように魂柱を立てると垂直になります。斜めに魂柱を立てると転倒しやすくなります。ブロックがいい加減だと厳密なセッティングが難しくなります。

この四角い立体を見てもきれいだと思うでしょ?
一つ一つの仕事がきれいだとやっていて楽しいのです。


コーナーのカーブに合わせて加工します。設計通りに正確に加工することが重要です。それとともに木枠のカーブの延長線としてスムーズになっている必要があります。そうでないと接着が不完全になったり横板がガタガタしたりします。割れたりする原因にもなります。
裏と表は同じ形であることになります。

面はどこもかしこも直線になっていなくてはいけません。このようにほんのわずかにくぼんでいると接着が完全になります。大きくくぼんでいたりデコボコがあると接着が不完全になってしまいます。ヴィンターリングのチェロでもこの問題があり今回修理が必要になりました。

外からは分からないところですが私はまじめにやっています。

これらのことを同時やるわけですが削りすぎて寸法を割ってはいけません。木枠とブロックのラインが合わなくなるからです。もちろん設計通りでなくなることも正確とは言えません。
すべてのコーナーでこれが必要です。

横板を曲げる作業も撮影したいのですが本当に緊張する作業でカメラ片手にできるものではありません。曲げた後あてがってみるとこのように木枠と横板に隙間があります。

このような誤差は最終的に表板や裏板の輪郭の形になって現れてきます。横板の曲げが不正確だと輪郭の形がゆがむのです。もしくは表板を型に従って切り抜いた場合、横板と裏板や表板のオーバーハングという張り出し部分が不均一になります。安価な楽器ではここを見るとクオリティが低いことがすぐにわかります。古い楽器の場合にはエッジが摩耗したり何度も修理の度に接着されるときにずれたりしているので参考にはなりません。


木枠と合っていないと形の歪みにつながるということでしたがブロックとの接着面があっていないと接着が不完全となります。これがちゃんと接着されていないと横板が乾燥して割れて来たり異音が発生する原因となります。


修正した結果木枠との隙間が無くなりました。せっかちな雑な人はここまで仕上げることなく完成として次の工程に移っていきます。このような差がクオリティの差なのです。

熱して曲げるわけですが水分の量と温度が程よい時に上手く曲がります。それは失敗して覚えなくてはいけません。まだ温度が足りないとか、水分が蒸発しすぎてしまっていると無理に力を加えると割れてしまうのです。割れている楽器もあります。

木によっても全く加減が違うのです。
水分が足りないと割れてしまうのですが水に浸すと杢が深い木はひとりでにうねってくるのです。弱いところが曲がりやすくなりガタガタしてくるのです。

なおかつ曲げを繰り返していると段々曲がりにくくなってきます。したがってあまり手を入れてはいけません。曲げが足りないところを増している間に熱が伝わって他のところが戻ってしまったりします。

縮んだり幅の方向でも歪んできてしまいます。特にチェロは高さがあるのでゆがみやすいです。グニャグニャのチェロをよく見ます。





外側の面も同じです。ブルドーザーのようになっていますが面がきれいに加工されているのが分かると思います。

酷い楽器というのはこういうところがメチャクチャなのです。

上のブロックもそうです。

やすり掛けをすると端っこが落ちやすいです。消しゴムの角のように丸くなってしまうということです。角が開いているとはがれてくる原因になります。横板がちゃんとついていないとネックがグラつく原因になります。上部ブロックは裏板表板横板に力が分散することでネックを支えています。一か所でも弱いところがあるとウィークポイントになります。ネックに強い力がかかった時の裏板のボタンを折ってネックが外れてしまうのです。そうなると修理代は大変です。すべてがちゃんと接着されている必要があります。

ネックがグラついている楽器のブロックを交換してネックを付け直したら音が力強くなったということはこの前もありました。




だいぶあってきましたが空いているところがあります。

このように波打ってきます。杢が深いと繊維が波打っているのでガタガタしてきます。

小さい隙間がたくさんあります。

これで合格です。

あまり時間がかけすぎても木が変質してダメになってしまいますが、パッと曲げただけでは完成度は低いものです。どのレベルで合格とするかは職人によって違います。

カンナで削って裏板や表板の接着面と合うように平面にします。これは非常に重要でビリついて異音が出る原因になります。異音が発生すると表板を開けて横板を削り直し付け直して、それでもだめなら裏板を開けてもう一度付け直すという修理が必要になることがあります。

ビリつきが発生して楽器を持ってくるのですがその日のうちに持って帰ろうなんて甘い話ではありません。裏板を開けてもう一度付け直すという作業が必要になるのです。それ以外の方法はその場しのぎで問題は解決しません。

量産品やアマチュアの職人では板の上にサンドペーパーを貼ってズリズリとやって仕上げることがあります。こんなのでは全然だめです。カンナをちゃんと使わないといけません。サンドペパーは面を丸くしてしまいます。表板や裏板と接触する面積が小さくなります。消しゴムの角が丸くなるのと同じです。



木口は加工が難しく初心者はブロックのところにカンナをうまくかけることができません。熟練した職人がササッと終るところも初心者ではグチャグチャになっていくだけです。



ライニングを取り付けます。これも今回は柳を使います。

横板同様に曲げていきますが横板にピッタリ合うように曲げないと横板を変形させます。

ミドルバウツはブロックに埋め込みます。これは昔のアマティ派の手法で流派によっていろいろあります。

接着は不完全なことがかなり多くあります。これもビリつきの原因になります。油断なりません。

接着面はすべて隙間なくついているだけでなくカーブはなめらかに流れています。


木枠を外した後で仕上げます。

見えないところまできちんと作る

手抜きをする場合、外側と内側のどちらをおろそかにすると思いますか?

当然外側をきれいにして内側はおろそかにします。逆のパターンはまず無いです。
内側がきれいに作ってあって外が手抜きになっていることはないです。

普通に考えたら見えないところをしっかり作って見えるところをおろそかにすることはしません。普通の工業製品では当たり前のことです。そのため量産品かハンドメイドの高級品か見分けるための重要なポイントになります。量産品で中がきれいに作ってあることはないからです。昔はとても荒く作られていましたが、現在は機械で作ってあることが分かります。接着剤には木工用ボンドのようなものが使われはみ出ているところがあればすぐにわかります。

これまでも中がきれいに作られている楽器を紹介してきました。少なくともモダン楽器や現代の楽器なら中がきれいに作られていれば間違いなく上等なものだと言えます。たとえ作者が不明でも鑑定が不確かでもその楽器は腕の良い職人がキチッと作ったものであることに違いがありません。そのため邪険にすることはできません。

だから音が良いということは言えません。
音はそれぞれ違うので弾いてみて気に入るかどうかの問題になります。


私はオールド楽器の複製を作るときデルジェズのようないい加減な楽器の複製なら外側は荒く内側はきれいに作ります。といっても接着面をきれいにしますが表面は荒く加工します。
そのような名器は過去の修理によって直されています。新作で接着面に問題があるようなものを買うのはリスクが高いです。

これが弦楽器の奥深いところで精巧に作ってあるからと言って音が良いということはありません。粗雑に作ってあるほうが良いかというとほとんどの量産品がそれに当てはまります。デルジェズのような名器と粗悪な量産品とその点では違いが無いことになります。でも全く同じではありません。その違いが分かるのはとても難しいことで分かりやすくはありません。近代以降の楽器であれば上等なものはよく作ってあり、量産品は雑に作ってあるので見分けがつきます。

横板の加工は最終的に表板や裏板の形に影響するためいい加減にすると楽器の形がゆがみます。内枠を使う方法だとどうしても歪みが出てしまうのです。それに対して19世紀フランスの上等な楽器は外枠を使ったため極めて歪みが少ないのです。

内枠式で歪みを無くすためには精巧に加工することが重要になります。この場合横板の加工は最初の方の工程なので精巧に加工する態度で楽器作りに臨むことになります。それは腕の良い職人なのですが、実は楽器製作には大胆さも必要であると思います。音についてはほんのわずかな違いははっきりと音の違いになって現れません。大胆に表板や裏板を加工することで音に違いが出てきます。

したがってミクロの正確さを追求する態度で作られた楽器では、音のことがおろそかになっていることがあります。外見は精巧という意味で美しいのですが音はパッとしなかったり耳障りだったりします。本人は0.1mmまで正確に作ったのだから音が良いはずだと思い込んでいます。お客さんを騙すつもりはありません。まじめすぎる職人です。


しかし楽器製作に対して真摯であるとは言えません。
自分が腕の良い立派な職人であると評価されたいのです。美しい音の楽器を作ることより自分の正当性を主張しているのです。そのような師匠の元で学んだ弟子なら人間としては正しいですよ。


とはいえ真面目にしっかり作ってある時点でそれは貴重な楽器です。
音については購入する人は吟味する必要があります。気に入ったのなら買っても良いです。
しかし精巧に作ってあるからと言って他の楽器よりも優れているということはありません。


さらに言うと美しいということも精巧さとは別に形のバランスによって醸し出されることもあります。アマティやストラディバリが優れているのはこの点で、精巧さについては必ずしも最高ではありません。同時代の中でははるかに精巧に作られてはいますので全く間違っているわけではありませんが、自分は精巧に作っていると思っている職人でもおろそかにしている部分があるのです。アマティやストラディバリが生み出した美しさを備えていないのです。


正確に加工することだけに意識が集中していればアマティやストラディバリを見ても何も得ることがないのです。自分が気にしていない部分があるかもしれないという謙虚さは必要だと思います。


弦楽器製作を学ぶ人はまず初めは正確に加工することをクリアーするべきです。不良品を作っていては話になりません。しかし正確に作っただけで満足していてはそれ以上にはならないのです。