無口な職人について | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

職人が無口である実情を無口な職人本人が語ります。
無口な職人が語るのを聞く機会は滅多に無いでしょう。
そうでない人が想像で語っても的外れです。





こんにちは、ガリッポです。

また先週も同じ量産メーカーのゴフリラーモデルのチェロをもう一本仕上げました。
この前は、ゴフリラーモデルが柔らかい音、ストラドモデルが暗い鋭い音でした。

今回は明るい鋭い音でした。
機械で作っている量産品でも、音がバラバラで規則性が無いですね。
どれが優れているというのではなくて「違う」としか言えないです。
それが合う演奏者に弾かれることで良い音となるのです。


弦楽器の作りについて考えるのがバカバカしくなります。


初めて4/4のチェロを買うということで楽器選びをしていました。
このメーカーのものは鳴り方がゆったりとしてスケールの大きいもので、他の量産メーカーに比べるとキャパシティが大きいことはすぐにわかります。スケールの小さい楽器のほうが音ははっきりと聞こえます。

この方のお父さんもチェロを弾く人で、お父さんが試すとこのメーカーのチェロでも窮屈に感じました。私はこのメーカーのチェロを改造していますが、さらにゆったりとスケールは大きくなります。

ところが演奏者によってはスケールが小さい楽器のほうが音がはっきり聞こえて手応えが実感できるということはあると思います。このあたりは強度のバランスなのです。誰が弾いても音が良いというわけではありません。チェロは強度のバランスに気を使います。ぼんやりとイメージができて来るようになってきました。


他におもしろいのは明るい音の楽器にも「こもった音」のものがありました。日本で暗い音の楽器が嫌われるのは「こもった音だから」ということがありますが、明るくてもこもった音の楽器はありますね。暗い音の楽器でも反応が良ければ「暖かい音」と感じるはずです。

私のところでは「にぶい」とか「つやがない」とか言うのがおそらく日本の「こもっている」ということに近いのではないかと思います。明るさは関係ありません。モダン楽器などでは健康状態が悪いとこもった音になることがあり、修理が必要です。


あとは古いチェロと新しいチェロの違いです。
野球のピッチャーに例えると、コントロールが楽器の作り、球速が古さと言えるかもしれません。古い楽器は球は速いけどもどこに行くかわからないタイプで、新しい楽器はストライクゾーンには入るけど威力が無いピッチャーという感じです。品質の良いものを作れるからです。

ピッチャーとしてどっちが良いかは微妙です。どこに行くかわからないのではストライクは入りませんが、決まった時のボールはすごいです。多少のボール球でも振ってしまうでしょう。ただし暴投のような楽器を買ってはいけません、古いから何でも良いのではなくて耳で選ばないといけません。

コンスタントにストライクゾーンに入れることが出来ても球速が無いとちょうど打ち頃のボールになってしまいますから、ピッチャーとしてはダメですね。でも将来的にはスピードが上がってきます。

計算ができるのは新しい楽器です。
一か八かなのは古い楽器です。


職人は無口と言いますが・・・・



私は自分が特別だとか才能があるとか思いたくはないのですが、「他の人も自分と同じだろう」と想定すると他人に間違った期待をして失望してしまいます。特別感や優越感に浸る必要はないですが、現実は正しく認識するべきです。


職人によくあるのは「無口」というものです。

これは確かにそういう傾向があって、日本で弦楽器職人が集まって飲み会を開いても師匠が一人でしゃべり、それを皆が黙って聞いているということがありました。他の業界から転職して来た人は「これが飲み会か?」とびっくりしていました。飲み会というよりは授業です。

私もまた無口な職人の一人です。



でも自分ではそうとは思っていなくて、生まれてからずっと普通にしているだけです。
大人になって気が付いたら周りから「物静かな方ですね。」と言われるのです。

私が初対面の人と「今日は我ながらたくさんしゃべったな」と満足していると「無口な方ですね。」と言われます。


私は逆によくしゃべる人(普通の人)が何をして生きているのか不思議です。


日本人は基本的にシャイで大人しい方ですが、外国に住むととんでもなくよくしゃべるひとがいます。アメリカ人やイタリア人は明るいと言われます。アメリカ人はドイツ人を「あいつらは暗い」と言うそうです。そのドイツ人でも日本人よりははるかに社交的でよくしゃべるようです。

ヨーロッパでも職人はその中では大人しい方らしいです。
とはいえ私のようなタイプは見たことが無いです。


欧米の人たちが好きなのはパーティですね。
パーティーが日本の飲み会と違うのは、知らない人同士が集まることです。
うちの会社の飲み会でも、従業員の妹の彼氏とか、近所の人とか、たまたま隣の席にいた人など、関係ない人が混ざってきます。

誕生日となるとパーティを開くのですが、とくに節目では普通の人が日本の結婚式くらい盛大にパーティを開きます。そこで知り合った人の誕生パーティに行くという連鎖で月に何度もパーティーに行っています。


私はそういうパーティーには行きません。
無口な人にとっては暇を持て余してしまいすることが無いのです。


そうなるとやはり自分と同じではないということは認識しないといけません。
むしろ自分みたいな人が珍しいのであってパーティ好きなのが普通ということです。


職場に行っても同じことで、私は黙々と黙って仕事をしています。難しい仕事では神経を集中させなくてはいけません。ところが私以外の人はそうではなく何かをしゃべっています。しゃべり好きの人が一人来るとに歯止めが効かなくなります。



私が嫌いなのは政治の話です。


なんで嫌いかと言うと興味が無いからです。
年を取ってくると多くの人は政治についてあれこれディスカッションをします。私は聞いているのが苦痛です。仕事に集中できなくなるで止めてもらいたいですが、私のほうが少数派なので我慢するしかないです。

職人が仕事に集中するのは当たり前のように思うかもしれませんが、彼らは全く違います。


建前上は、民主主義の尊さを維持するためには皆が政治に関心を持って参加するべきだというのは分かります。私は「自分の仕事すら集中してできない人が政治家の仕事ぶりについて批判する立場にあるのか?」と思います。そんな意見に聞く価値はないです、よそでやってくれと思います。仕事場なのであってディスカッション場ではないはずです。

一人の仕業で全員の作業のクオリティと能率を落としているのに、そのことは何も悪いことではないらしいです。それに対して政治家のすることは悪いらしいです。


政治の話が始まると気持ちよく仕事ができないのです。
自分たちでわざわざ仕事をやりにくくするのを理解できないです。
そんなことを言っても私の方がおかしいので黙って我慢するしかないです。




民主主義のような仕組みで私のように少数派の人間にとってどうにかなることはないのでどうでも良いですね。

優れた芸術や文化が独裁や政治の腐敗、貧富の差によって生み出された事実もあります。
何がどうめぐってどうなるかなんて私には意見することができません。

私は職人なので王様がいた時代なら仕事に恵まれていただろうと想像してみます。
楽器以外にもたくさん職人の凝った仕事がありました。当時の職人をうらやましく思います。

でも王政というは悪い事なんですよね?



歴史について学ぶときも過去に人間がしていたことはとても興味深いです。でも学校で学ぶ歴史は誰が支配していたかという戦争の歴史です。ヒトは本能的に誰がボスであるかということに興味があるようにできているのでしょう。群れで生活する動物の習性か何かが根源にあるのでしょう。政治について立派なことを議論しているつもりでも野獣としての習性にすぎないのです。

私の言う事は変わっているでしょ?





お客さんが来たときでも、私は楽器の話しかしないです。
そのためにやってきたのだから、限られた時間を有効に使いたいからです。

わざわざやってきてくれて貴重な時間を使って関係ない雑談をするのが分からないです。


でも人というのはそういう会話を通して相手を信用するらしいと頭では理解してます。
必要なことを話すのではなくて、会話をして相手を信用して任せるということです。

人を信頼するためのこの人間の習性を利用するのが詐欺師です。
弦楽器の業界で働いていると被害者を多く見ます。一般の職業の平均よりもはるかに多いのかもしれませんが、「会話が弾んだから」という理由で人を信用するのは止めたほうが良いと思います。その手法を取り続ける以上詐欺師、ペテン師による被害はなくならないでしょう。

こっちの通信会社なんて顧客を獲得するために「こんなに得なんだ」とアピールします。ところがトラブルが連発してその人に言いに行くと「なぜサービスセンターに電話しないのか?」と言われました。電話すると人員不足のせいで、滅多につながらないです。

ネット回線のトラブルはよくあって、休日に多いです。
休日にネットが不通になれば平日まで待たないと復旧することはないです。

あんなに良い事づくめのようにアピールしていたのに原因不明のトラブルだらけです。
なんで欧米の人やIT信者の人はそんなに楽観的なのでしょうか?


私は自分で作って、自分で売って、その後数百年間は責任を持たなければいけないです。

ザクセンの量産品の修理



しばらく前に紹介した楽器の修理をしました。
横板が一枚失われている楽器でした。

この楽器は戦前より前に東ドイツのザクセンで作られセバスティアン・クロッツのラベルが貼られたものです。量産品の中でも雑に作られたもので、最も安価なものでした。表板は弦楽器に使うようなものではなく材質が柔らかすぎてぐにゃぐにゃでした。

このような楽器は大掛かりな修理をする値打ちのないものだと普通は考えます。いくら説明しても所有者の方は「本物のクロッツの可能性も捨てきれない」ということで修理を依頼されました。いくら専門家の言う事であったとしても100%信用できないのだそうです。

私はこの楽器がセバスティアン・クロッツ作である可能性はゼロと考えて間違いないと思います。オールド楽器の特徴が全くないからです。

とはいえお金はきっちり払うと修理を頼まれてしまえば断る理由はないです。



この楽器の修理をしましたが、表板を閉めてみると驚くことに内部は暗くて狭いf字孔からはよく見えません。この汚している範囲しか外から見ることはできません。この汚し方はとても雑で私は呆れていましたが、十分だったようです。表板を閉めてしまうと仕事の雑さは見えません。
私みたいな人は職人として向いていないのでしょう。

新しい横板を作りました。新しく楽器を作る時とは違い現物合わせで難しいものです。他の部分の横板の厚みは通常の倍くらいありました。これはザクセンの量産品の場合、初め厚めにしておいてもし裏板や表板と形が合わないときは横板を削って形を合わせるためです。たまにすごく薄くなっていて穴が開く寸前の楽器もあります。開いているものもあります。

とても難しかったです、本来ならこのような安価な楽器に施すような修理ではありません。
そもそも何が普通なのかよくわからなくなります。家宝として大事にしているなら横板を紛失しないと思うのですが。

材料には普段の楽器製作では使わないような安い材料を必要としました。他の部分と合わなくなるからです。ヴァイオリン製作向けにこういう材料は売っていません。会社にもこういう材料が無かったので、特別に頼んで買ってもらいました。そしたら、素晴らしい駒用の材料が含まれていました。

ニスを塗ると・・・

こうなるとこれが新しく作られた横板だとは気付かないでしょう。


ザクセンには独特のオールドイミテーションのトリックがあります。わざとらしいので自作の楽器には施しませんが、修理の技術としてはこれもできないと直せない楽器があることになります。

師匠は仕上がりを大変に気にって「なんでこんなことができるかいまだに理解できない。」と言っていました。なぜできるかと言えば、仕事に集中しているからです。興味を仕事に集中させているからです。政治のことを考えながら仕事をしていないからです。


興味を持続するというのが難しいようです。
私が話をしていて戸惑うのは、今説明していることと関係ないことを聞いてくる人です。
私の話を聞いている間に違うことを考えているのです。
そういう人は集中力が無いなと思います。でも集中力が無い人に努力しろと言っても無駄です。自分で気づいていないからです。


職人が腕を上げていくには対象への興味を持続しなくてはいけません。
2時間と机に向かっていられない人はいます。本人はそういう行動を取っていることに気付いておらずちゃんと仕事をしていると思っています、無意識です。


天才とは?



私はヴァイオリン職人は天才である必要はないと言っています。
天才というのは世界に数人というレベルを私はイメージしています。

それに対して職人を志す人の10人に9人は集中できないです。
そういう意味では向いていません。
したがって、10~20人に一人くらいは十分すぎる腕の良い職人がいるということになります。

才能が全く関係ないということではなく、90%の人は職人の仕事を楽しむことができません。
意外とヴァイオリン職人は多いので20人に1人でも世界に数人というレベルじゃないので天才とは言いません。ヴァイオリン職人の場合過去500年ありますからその中で数人というのが天才です。そんなのは空想の話で実際にはある程度まで行ったら人間はそれ以上はやりようがないというところまで行きつきます。


20人に1人でも腕前は十分ですよ。
銀行を利用するとき、人類史上世界何位の銀行員がいる銀行だけを利用しますか?
ちゃんと仕事できれば十分でしょう?

「自分は世界一の大富豪と友達だ」と言い張るブローカーに財産を預けますか?
そっちの方が怖いですね。


職人の教育は誰を対象にするべきでしょうか?
10%の人を対象にするのか90%の人を対象にするのか?

発展している国家なら90%の方を対象にするでしょう。
向いていない人を何とか使えるようにするのが職人の教育であり、製造現場での技術指導や品質管理であると思います。

だから資格試験や製作コンクールをやっても意味が無いということです。審査員が多数派から選ばれてしまうからです。


私は天才について「他より抜きん出ている人」と理解しています。
つまり同じくらい優れた人がたくさんいればその人は天才には見えません。一方周りのレベルが低ければさほどの能力でなくても天才に見えます。

スポーツではよくあります。
一人抜きん出た選手がいると「天才」に見えます。
人は天才が大好きなので競技の人気が出ます。
競技人口が増え若い優れた選手がたくさん育ちます。
優れた選手が何人もいてだれが勝つかわからない状況になると「今の選手はミスは少ないが小粒だ」などという印象を受けます。

逆に高校生の競技では周りのレベルが低いため一人抜きん出た選手がいると天才という印象を受けます。その後実業団やプロになっても目立った活躍をすることなく引退していくことも少なくありません。



イタリアに天才が多く排出された理由です。
鍛え上げたりしないから、優れた仕事をする人が少ないのです。そのため天才に見えるのです。

イタリア人はしたたかなので天才に丸投げして自分は楽しようとします。
日本人は劣等感にさいなまれてしまいますが、彼らは何でも利用できるものは利用するのです。古代よりいろいろな勢力に支配されてきたからだそうです。はるか昔に天才の作ったイメージを利用して商売をするのです。
そういうイタリア的な考え方はおもしろいです。まじめすぎる日本人は学ぶべきところが多いと思います。分かって学ぶのであってカモになるべきではありません。カモにされたことに気付いて怒っている人がいますが、カモにされることを受け入れて楽しむとイタリアのものはおもしろいです。何でもないものを優れたものと思い込ませる、これがイタリア的なファンタジスタの業です。人生には必要だと思いますよ。普通のものでも特別な何かと思うことは人生を楽しくします。カモにされてお金は取られないようにしましょう。こっちもファンタジスタの業を賢く利用するのです。




職人の仕事は「興味を持つ事を楽しむ」というのがある種の才能です。
興味を持てないのが普通であって、嫌々の修業の結果、立派な職人となり働いているのです。
わたしはそんな仕事の仕方では面白くないだろうと思います。

でも彼らはおもしろさを知らないので今やっていることをつまらないとは思わないのでしょう。
政治の話をしている方が楽しいのでしょう。


私から見ると仕事を楽しんでいるようには見えません。「なんで職人の仕事をしてるのだろう?」と思います。でも楽しんだことが無い人には普通のことなんでしょう。職人の仕事の醍醐味を知らない職人がほとんどなのです。


ここで弦楽器の恐ろしいところは、私のように興味を持って楽しんだところで音が良い楽器が作れるかというところです。見た目やニスの仕上がりは確かに圧倒的な差になります。でも音については微妙です。やっつけ仕事で作られた醜い楽器の音が良かったりします。

ユーザーは音を求めているので私のような仕事は余計なクオリティということになります。
そういう意味でも普通の人で十分ということが言えます。
仕事を楽しめないと嫌になってしまいますが職業選択の自由が無い時代なら仕方なくやり続けることができました。やっつけ仕事のそのような楽器に音が良いものがあるのが弦楽器のメチャクチャさなのです。そのメチャクチャが面白いんですよ。



一方、弦楽器の世界では100年前、200年前、300年前とそれぞれの時代にすばらしい仕事をした人がいます。私はそういう楽器を見ているとそれ以下のものを作ることは許せません。でも消費者はそんなものは知りませんからどうでも良いですよね。消費者の求めるものが正しいという消費者民主主義という考え方もできます。


さっきも私のようなものは職人に向いていないのではないかと書きましたが、修理ができる人がいなければ新しいものが売れるだけです。産業としてはむしろ望まれるでしょう。

職人に向きすぎている人は産業としての職人には向いていないのだと思います。

ビジネスの才能



ブログを読んでいる方には私が無口であるということを意外に思う人もいるかもしれません。

よく漫才コンビでもネタを書くほうは人見知りで内向的だということがあります。それと同じでネタは書きますよ。人前に出たがらないという意味では放送作家のほうが近いかもしれません。
漫才コンビでもネタを書くほうは職人気質で、放送作家を目指す人がラジオに投稿するのもハガキ職人と言いますね。芸人以上の実力があります。

他の職業ではコンビでお互いの性格を補い合うというシステムはないですね。夫婦での自営業くらいです。人格としては偏っていてもコンビを組んで会社を興して成功した話も聞きます。

でも普通は単独では難しいです。
職人と商人のコンビは対極過ぎて水と油です。

日本は商人が絶大な力を持っています。
お金を生み出す力が違いすぎます。
よく日本人を手先が器用な職人気質だと思っている人がいますが、商人の国ですよ。
外国の工芸品を見てください、精緻なものはいくらでもあります。


私の大学時代の教授だって何か質問すると「そりゃあ、君・・・あれだよ・・・・。」と言って腕組みして天井を見つめながらしばらく考えて、ちょっと経ってから話を始めていました。面接試験なら落ちますよね。

ビジネスで成功するというのは全く違う才能が必要だとも思います。

私は楽器職人になってブログを初めて最近は変わってきました。
無愛想なところもあるかもしれませんが大人しいだけですからお許しください。
読者の方で同じような方は同類だと思って安心してください。
他の職人さんもそういう感じですので代弁させていただきました。



この楽器はイギリスのヴァイオリン製作学校を卒業した職人の1999年のものです。
有名な職人としてかつては地方都市で活躍し今は大都市に移っているそうです。
イギリスという言葉の響きはヨーロッパ大陸の人にとっては「海外」という幻想をもたらします。

写真より実際はひどい色でピンクに見えます。1999年とは思えない汚さなのはニスが柔らかくてベトベトしているために汚れがくっついてしまうからです。100年経っている楽器よりもニスが剥げ落ちています。15年程度の使用なら普通はまだまだ新品のようです。

左右の歪みを見てください。シンメトリーとは程遠いですね。

カメラに助けられていますがピンク色のニスは無残な姿です。

お客さんに対しては自分がさも立派な職人であるかのように振る舞っていることでしょう。なぜピンクになるかというと、白木の上に赤いニスを塗っているからです。ヴァイオリンの場合赤いと言っても赤茶色です。ニスは皆茶色でその中では赤味が強いというだけです。それを「本当に赤いニスを塗るバカがいるか!」というレベルの理解度ですが立派な職人のふりをしていると顧客は騙せるものです。

このようなピンクのニスは独学でヴァイオリンを作っている人にたまに見られるものです。無知な人の犯す過ちは世界中同じなのです。完成したときにおかしいと思わなかったのでしょうか?

写真では悪くないと思う人もいるかもしれませんが、普通はヴァイオリン製作学校の学生でももっとましなものを作ります。現代の教育のレベルは高いです。素人が作った以下のレベルのものです。この前の中国のヴァイオリンのほうがずっと良いです。

何となく汚いという感じは伝わると思います。

横板は割れています。このような割れ方は珍しいですね、内部にはライニングで補強されているのでこんな割れ方はしないはずです。表板や裏板にはダメージが一切ないのが事故としてはおかしいですね。こういうクオリティだと作っているときに割ってしまったと疑われてしまいます。この感じだと割れてもそのまま「まあ、いいや」と売り物にしているように見えます。修理の技術があれば割れたとしてももう少しましにできるでしょう。なぜか板目板を横板に使っていますが、板目板は柔らかいので曲げるのは簡単です。それを割ってしまうのはどれだけ不器用な人なんでしょう。

こういう人に限って200万円とかという値段を躊躇なくつけることができます。


メンテナンスを頼まれるのですが、美しくすることなんてできません。
ニスの剥げたところを補修してもピンクのニスが復活するだけです。
私が一番良いと思うのは剥げるだけ剥げさせてしまって上から薄い茶色のニスを塗ることです。
そうするともう少しヴァイオリンに似た楽器になってくるでしょう。


現代の芸術でも同じです。

今ヨーロッパで芸術家として成功するのに必要なのはパーティーを開いて人を集める才能でしょう。部屋にこもって創作の世界に没頭するような人は展覧会を開いても誰も来ないでしょう。一方パーティで人を集めるのが好きな人ならその時点で展覧会には人がたくさん来るはずです。中にはお金持ちの客もいるでしょう。

ルネサンスの頃の芸術家とは求められるものが違いすぎます。
かつては貴族がパーティを開いていましたが、今は芸術家自身にパーティを開く能力が求められるのです。

民主主義によってこのような世の中になってきました。

気持ちよく仕事をするためにわずらわしい服装選びから解放されるか?



私は職人の仕事にのめり込みすぎると生活の他の事が面倒になります。政治も面倒な事なのですが、服装もそうです。それでもちゃんとしないととは思います。ストラディバリはいつも同じ服を着て…なんて怪しげな伝説もありますが職人のイメージにはそういうところがあります。

日本では平日にはビジネススーツや会社指定の制服、作業服、学校では学生服を着ます。それに対するものとして週末にはジーンズやカジュアルウエアがあります。ところが私のいる町では通勤の時間帯でもビジネススーツを着た人なんて見かけることはありません。スーツを着ているのは銀行員や大手企業の管理職など一部の人だけでしょう。それも日本で言うと「ビジネスカジュアル」のレベルです。

じゃあ、何を着ているのかというととにかくジーンズとそれに合うものです。
ヨーロッパの制服じゃないかと思うくらいジーンズを老若男女が履いています。お金持ちは高級ブランドのジーンズを履いていますからそれで、下層労働者だと見下されることはありません。

役所に行って担当者がロックバンドのロゴの入ったTシャツを着ていたとしても「好きなんだな」と思うだけで日常の風景です。スカートを履いた女性などはまずいません。スカートを履いた人がいると「外国の人かな?」と思うくらいです。



このようにヨーロッパの場合には平日と週末の服装の違いが無いということが言えます。お店でもこれらの中間のものが売られています。


私の場合にも黒のジーンズを履いていました。
職人の場合、仕事で履いているときれいな服も汚れてヨレヨレになってしまうのでもったいないです。かといって週末にパーティに行ったりすることもなくきれいな服を着る機会もないです。

お店を何軒も回って試着して「これだ!!」と気に入ったものを選ぶとクローゼットにしまったままになってしまいます。面倒なのでふだん仕事で着るのは大体似たようなもので店に入って考えずにパッと一瞬で決めて買ってしまいます。

どうせ汚れるからとしわ加工されたシャツやワークウエアをモチーフにしたシャツなどを買っていました。ジーンズももともと作業用ズボンです。

前回の帰国のために部屋を出る前にちょっと時間があってふと「職人の服装ってなんだろう?」と思いました。


伝統的な職人の感じで着れそうなものを探した結果アメリカの作業服が売られていることを知りました。ヨーロッパで主流なのは安全なども考えて会社指定のものでしょうが、カジュアルウエアの元になったようなアメリカの作業服も売られているのです。

どうやら戦前までは時代の変化はゆっくりしていたようです。
もちろん文明の発達で変化はしていたでしょうし、日本なら文明開化で激動の変化をしていました。でも西洋の服装なんかを調べてみると1940年くらいまでは労働者階級の流行の変化はゆったりしていたようです。戦後は消費行動が生活物資というレベルから産業が発達して大きく変わりました。


1889年にデトロイトで創業したカーハートというアメリカの作業服メーカーのものは生地が昔の布目の荒いものでリベットでポケットが強化されていたりするのも昔の雰囲気があります。このメーカーの面白いのは新品はとんでもなく格好が悪くて作業服だからそんなもんなのですが、洗ったほうが良く見えるのです。大半の製品はウォッシュ加工が施されています。ネットでモデルが新品を着ている画像を見ると「まず、洗え!」と思います。作業服というマイナスからのスタートだから満足感を感じやすいのが良いです。

このメーカーではありませんが以前私が深く考えずに買ったジーンズがあって、家に持って帰るとブカブカでした。しばらく履かないでいたのですが他のものがダメになってしまったので、仕事で履くくらいなら良いかと履いていました。一年くらいして気が付くとピッタリになっているのです。洗濯で縮んだのでしょう。

これが面白いなと思います。
ヨーロッパの服は袖の長さを合わせると体にはぴったり合います。ところがアメリカの作業服はきつめのところとぶかぶかのところがあるのです。体の形にあっていないのです。きついところを無くそうとするとぶかぶかになります。ヨーロッパの人はそれが嫌いで同じ製品でもアメリカのアマゾンではサイズがちょうどいいと答えた人が大半なのに対し、ヨーロッパのアマゾンでは大きすぎると答えている人が多くいます。

大きすぎると答えた人には「まず、洗え!」と言いたいです。そのうちなじんで合って来るかもしれません。

今のヨーロッパはピタッとした服が主流ですね、背が高いので余計に細く見えます。

作業服はヨーロッパのものでもダボダボしています。丈夫な生地で動きやすくするためです。町を作業服姿でチェーンソーを持って歩いている人もいました。日本なら6㎝以上の刃物を持っていると銃刀法違反と聞きましたが…。正当な理由と判断されるのでしょうか?


最近の趣味は洗濯です。
アパートにコインラインドリーがついていてお湯で洗うことができます。一回の洗濯で作業ズボンなら丈が2mm位縮んでいる感じです。2mm位ならちょっとひっぱるともうわからないほどの差ですが、10回で2㎝になったら結構な差ですね。ノンウォッシュの新品は一回目股下が4.5㎝縮みました。

ちょうどいいサイズになってしまったズボンはおもしろくないのでまたぶかぶかのものを買って寸法を測っては洗濯することを楽しんでいます。



靴はアシックスの革のウォーキングシューズを履いていました。足が疲れないからです。
ところがぶかぶかのズボンに合わないです。
店に行ってイタリアやドイツのブーツを試すと、やはりイタリアのものはオシャレなのですが、何かをふんずけている異物感がありました。ドイツのメーカーのものは内側の底が硬くて足が痛くなります。ドイツ人は硬いものが好きみたいです。初めのころに試してアシックスに行きついていたのでした。

それでアメリカのキャタピラーという重機メーカーのワークブーツになりました。これは25年以上売られ続けているもので革のブーツとてしては安く8000円くらいでした。履き心地もソフトでおしゃれ感が無くて気に入りました。履いた感じも西洋の靴は幅が狭いのでひとつ大きなサイズにするとぶかぶかになります、これはワイドなものでぴったりです。

さらにブーツではない革の作業靴も買いました。これも何のおしゃれ感もないもので大いに気に入りました。およそデパートや靴屋に並ばないような地味なものです。2セット買いました。
最初は凄くカッコ悪いのに擦れてきたりすると雰囲気が出てきます。ブラシで毎回磨いています。

カッコ悪いものを何で買っているのかということが不思議に思うかもしれませんが、格好つけている感じがわざとらしくて嫌いなのです。初めはカッコいいとされていたものがコピーを繰り返していくうちに意味を分からずに作っているのです。今あるものは本来はカッコ良いもののはずだったものです。ダサいものは惰性で繰り返されているからひどくダサく見えるのです。だったらいっそのことカッコ良さなんて要らないのです。

それが職人の仕事とデザイナーの仕事の違いです。
職人が物を作っていた時代は、実用性や生産性を考えて作っているのですが、ちょっとしたバランスや素材の質感に気を使うだけでずいぶん素敵に見えます。
今はそれ以上を求めて物の作りの基本を知らないデザイナーが荒唐無稽なものを絵にするのです。ものの形ではなくて絵がうまいかどうかなのです。さらに紙の上ではなくコンピュータの画面です。絵が描けなくてもデザイナーができるという時代です。



なんやかんや言って結局は服装がめんどくさいから作業服になったわけですが、これが日本ではアメカジファッションとして愛好家がいるというのが面白いですね。カジュアルウエアの元になったものというだけあって格好も悪くないです。私の場合にはこれだけで平日から週末までこなせるということで面倒から解放されることを期待しています。値段も安い割には丈夫で長持ちしそうです。流行の変化が無くダメになっても同じ製品がまた買えます。その度ごとに何軒も店を回ってクローゼットにしまう服を買う必要がありません。気持ちよく仕事に専念することが狙いです。

このような作業服は作業服専門店でしか売っていません。
作業服に慣れてしまうと、普通の洋服屋(和服屋は無いですが)に行くとあまりの綺麗さがまばゆいですね。でも知っていますそれは新品のきれいさであってすぐにくたびれることを。アメリカの作業服のような生地の厚さに慣れるとペラペラに見えます。


楽器作りでも最近は「ゆったりとした構造」をイメージしています。
仕事への興味が強すぎて服装でもそういう好みになってきたのかもしれません。
音楽もジャズを聴いています。誰が演奏しているかには全く興味がありません。ジャズ通には怒られるかもしれませんがただスウィングに身を任せているだけです。文化というのは一部の天才だけが作るものではなく、ファンも含めて多くの人が作っていくものです。

アメリカの文化にもイタリアと同じく、何でもないものを特別なものだと思い込む魔力があると思います。単なる作業服をすてきなものに変えてしまう魔法がリーバイスのジーンズでしょう。
工具などでも中古の工具を探すとアメリカが圧倒的な量なのです。ヨーロッパ大陸は実用的に物を考えます。古い工具はただのガラクタとしか見ません。アメリカの元をたどるとイギリスもそうです。



弦楽器も、イタリア→イギリス→アメリカ→日本と伝わっていく中で今の価値基準ができてきたのだと思います。ヨーロッパ大陸だけなら実用的にしか楽器が評価されなかったでしょう。今でもヨーロッパの人たちが楽器を選ぶときは作者名などは気にせずに実用性で選んでいます。日本人が全く違う楽器の選び方をしているのはこういう歴史の影響があるでしょう。


大したものではないものを神話によって凄いものだと思い込まされているのです。「世界的な評価」が通用するのはイギリス、アメリカ、日本で、クラシック音楽発祥のヨーロッパ大陸の人からは「海外」の出来事です。



しかし、単になるか鳴らないかだけで楽器を選ぶのも面白くないと思います。
「趣き」をちゃんと感じて一見地味なものの良さを分かると良いなと思います。そういう音のするゆったりした構造の楽器を作りたいです。
ギターはアメリカで独特の文化が育ちました。
擦弦楽器にはそういうものが無いこともポップミュージックの経験者には知ってもらいたいです。我々はその楽しみ方を参考にするべきです。



まとめ

なぜ職人が無口かという問いかけにちゃんと答えていません。
そういう人でないと耐えられないタイプの仕事だというのが結論でしょう。
興味関心も重要です。


ただ、皆職人が無口なわけではありません。
その中でも一部の人です。

無口な職人と会う機会はあまりないかもしれません。
そういう人たちは表に出てこないですから。

全員を無口だと思っていると「職人も意外と無口じゃない」と「気さくな人もいるもんだ」と感じるでしょう。そういう人の中には職人から見ると全然仕事に集中していない人もいるということですので、気さくだからと信用するのはいけません。

自分がそうだからと言って他の職人も同じであるはずだと考えるとおかしなことになります。私なら考えられませんが、ピンクのニスを塗って平気な職人もいて、それどころが巨匠のふりをすることで高い支持を集めています。真面目で腕の良い職人ほど実力が評価されていないものです。

自分を特別であると考えているのをさらすは恥ずかしいことですが、単に違うものだと認識する必要はありそうです。



特にイタリアやイギリスやアメリカには何でもないものを何かすごいものであるかのように思い込む文化があります。アメリカにはなんでこんなガラクタを集めているのかというコレクターがたくさんいます。割合としては少ないのかもしれませんが絶対数は多くいるようです。
見過ごされがちの普通のものを見方を変えて素敵なものと思うことは生活を楽しく豊かにする秘訣だと思います。日本でもいろいろなマニアがいますね。

ただし商売人はそれをしたたかにお金儲けに利用します。

40ドルで売られている作業服のズボンを輸入したり国産メーカーがマネしてアメカジファッションとして2万円で売っているとしたら作業服としての本来の魅力は無くなっていると思います。

利用されてはいけないと思います。



カセットテープの売り上げが伸びているという話も聞きます。普通に考えれば利便性も音質も悪いはずなのですが、録音し直して聞くことによってちょっと違う雰囲気を楽しめるということですね。ハイテク至上主義者や音質至上主義者は気に入らないと思いますが、80年代の音楽の空気感を味わえるとしたら立派な趣味です。ソニーというとそう言うめーじはないのですがの90年代後半のカセットデッキに関してはクオリティは凄かったです。そんな職人気質の製品を作っていたせいで経営が行き詰っていたのですが・・・。当時は何とも思わなかったのですが、今ならちょっと良いなという気もします。


弦楽器はもっと古い時代のものですがブランド信仰なんて浅いものはもってのほかで、単によく鳴るとか音量があるという次元だけではなく、何か違う見方をすることでもっと深いディープな味わいの世界を作れないかなと思っています。その見方が広まることが愛好家のたしなみとなるでしょう。楽しみの世界を作っていきたいです。

バロックはもちろん、古典派もそうだし、モダン楽器でも戦前のガット弦を張っていたころの感じも面白いですね。
前回は最新の弦を薦めておきながら何を言ってるのでしょうか?


一般的にはなかなか難しい部分もあります。
それらはヒントとして現実の楽器に生かせないかと思います。