アマティ派のデルジェズコピーを作ろう【第6回】パフリングを入れます | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

デルジェズのコピーを作るうえで重要なのはパフリングです。
音には関係ありませんが雰囲気を決定づける部分です。

趣や風情といったところでしょう。








こんにちは、ガリッポです。

弦楽器について理解するうえで重要なことはそれらを作った人たちは必ずしも現代の人ではないということです。現代の常識で物を見ることは深い理解を妨げることになります。
また作られた楽器は100年200年後も使用が可能です。その意味でも現代の考え方に縛られることはつまらない制約となります。

アマティ家が弦楽器の基礎を作った時代はルネサンスからバロック時代にかけてです。フィレンツェやローマが芸術文化の中心地として栄えましたから、クレモナも割と近い地域だということができます。
この時代の芸術が大変に美しいもので私も大いに興味を持っていました。そこでどのような精神によってこれらの芸術が生み出されたのか勉強しました。

現代人の感覚からすると意外で大変面白い物でした。それは二つの意味で謙虚であるということです。


①人間主義
ルネサンスの文化について説明されるのが人文主義、または人間主義というものです。ヒューマニズムとも言いますが、現代にヒューマニズムというと人道的な人助けのような活動の精神となるでしょう。それに対してルネサンスの場合は、世の中は神様が絶対的な存在としてすべての根源となっています。人間よりも上位の存在を常に意識していることになります。地上には人間のほかに動物もいます、また天使や悪魔の存在も信じられていました。そこでの位置づけとして人間は天使と動物の中間の存在と考えられていました。その人のこころがけによっては天使のように清らかにもなり動物のように本能のままに・・どちらにもなりうるということです。

だからと言って常に禁欲的に「清く正しく」というのではなくて、だらしない欲深いずる賢いところもすべてひっくるめて人間だというのです。規則や規範に従うだけではなく知的好奇心も創作意欲も旺盛だったということです。

私が快楽主義を主張するのはこのためでもあります。
正しいか正しくないかではなくて、情熱によって生み出された「美しさに魅了される」ということのほうがずっと価値があると考えています。


それに対して近代以降は人間というものがもっと賢い存在だと考えられるようになったと言えるでしょう。たとえば民主主義も「人間は賢く正しい判断ができる」という前提があればこそ理想的なシステムとすることができるでしょう。「人間はバカでだらしなくてどうしようもない」という前提なら民主主義は国を没落させるシステムだとなるはずです。民主主義自体はずっと古くて古代ギリシャにはあって、実はルネサンス期のフィレンツェでもそれにならって民主政治が行われていたことになっていました。我々が歴史を学ぶとメディチ家の独裁として語られますが制度としては民主政治でした。

いずれにしても神や天使という絶対的な存在に比べて野獣に近い人間ではなく神や天使に近い賢く立派な存在として人間を考えるようになったのです。私はこれには無理があると思います。人間はそこまで立派なものではなく、それが故に美しいものに感動したり人生を楽しんだりすることできるのではないかと思います。人間への過信は芸術家や職人にも過信する、過大評価する根源ではないかと思います。

少なくともオールドの名器を見ているときに私が面白いなと思うのは、その人間的な味わいが醸し出されているところです。有名な職人や鑑定士がしかめっ面で高価なオールドヴァイオリンをにらんでいる写真は絵になりますが、私はたのしさのあまりにほほや眼元が緩んでいるでしょう。

そこには職人の「人間らしさ」が漏れていて伝わってくるのです。このような味わいかというのをぜひ知ってもらいたいです。


②古典主義
私たちは時代が進むほど自動的に文明が発達し人間が優れたものになっていくと無意識のうちに考えています。過去のものはそれだけでバカにする対象になります。

実は、新しいアイデアや可能性もほとんどはボツになっています。技術者であれば経験することですが、新たに試みた方法のうち使えるものはほんのわずかで、新しい技術が実用化されるまでには様々な問題点をクリアーする必要があります。食品メーカーではおびただしい数の新製品を出しますが、店頭に並ぶところまで来るのはそのごく一部でさらにヒットして長年定番として残るのはさらにわずかなものになります。したがって新しい技術の大半はダメなものなのです。しかしながら消費者は「新技術=優れたもの」と考え未来の新技術というイメージだけで喜んで購入するのです。


それに対して驚かされるのはルネサンスの時代の人たちは常に古代人を意識していたことです。ルネサンスとは「再び生まれる」という意味で、「古代の文芸を復興させる運動」ということができます。古代ギリシアやローマの文化を現代によみがえらせることが目標として掲げられたのです。ローマでは遺跡の発掘がされ驚くべき美しい彫刻作品が出土しました。ずっと幼稚なものを作っていた当時の人たちはびっくりしたはずです。

当時の詩人は親しい画家を称賛するのに「彼の作品は我々の時代を古代のレベルまで到達させた」と言いました。昔に並ぶということが最大の褒め言葉だったのです。

学校なんかで教わるイメージだと絵画の技法で遠近法を教わります。あたかもルネサンスの時代に遠近法が考え出されたように思いますが、古代にはすでにあって忘れられていたものをよみがえらせたということです。フィレンツェのシンボル、大聖堂のドーム型の屋根も建築技術をよみがえらせたものです。

俗にいうクラシック音楽の基礎といえばバロック音楽になるわけですが、当時は器楽曲はおまけみたいなもので声楽曲がメインでした。正式なオペラのオペラ・セーリアの主題はギリシャ神話ですね。このオペラというもの自体、「古代ギリシアには歌付の演劇があったらしい」ということで考案されたものです。

とにかく古代には素晴らしい文化の水準があってそれらは忘れ去られ人々の感性や技術は劣化していると考えていたのでしょう。その意味ではとても謙虚だと言えます。

現代は「最新のものが最良」であり若い世代は過去のすぐれた作品や文化について学ぶことをしなくても、直感で感じたものが「若い感性」として称賛されるのです。過去の優れたものについていくらかでも知識を持っていて新しいものを批判すれば「頭が固い古い人間」とバカにされるのです。

それに比べると古代を尊敬の対象とするのはとても謙虚な態度だということができると思います。

古いと言ってバカにされるものも、かつては新しいものでありまた、それだけで満足せず完成度を高めたいという情熱によって高度に洗練されていったのです。現代に新しいものが出てきても完成度はずっと低いものです。新しいものが本当に素晴らしいものになるにはそこからさらに改良をしていく必要があります。もし古いものに対して知識を持っていたのなら今の技術が未完成の未熟なものだと痛感することでしょう。それが無ければ新しいというだけで見切り発車し、それが洗練され本当に素晴らしいものになる前に「飽きた」と今度は別の新しいものに気が移ってしまうのです。これがおよそ現代の文化の姿でしょう。



それに対して現代でも古典に興味を持ち古典を学ぶという人が一定の割合でいます。古典が教養として尊ばれてきたのです。やはり国王など支配階層で尊ばれてきました。世襲制で国を支配するという場合には跡取りに最高の教育を施したいと考えるのが当然です。さもなくば国が滅んでしまいます。

芸術や文化には時代を超える教訓を含んでいます。庶民であれば目の前のことだけ見ていればいいのですが、人の上に立つということはもっと長い目で人間の本質を知る必要があります。

このようなことは現代の経営者や管理職にも求められるかもしれません。一気に会社が急成長して一躍有名になりその後没落していく姿を目にします。同じような過ちは過去を知ればいくらでも出てくることでしょう。ここでも謙虚さに欠けていると思います。現代においても古典を学ぶということは未来を作っていくうえで十分に意義のあることだと思います。

それと同時に権力者のみに許される最高の娯楽として快楽を得る手段でもあったことも事実です。芸術文化の世界に現実逃避し軍事や経済を軽んじれば国は滅亡していきます・・・。その滅亡した国も何百年後の現在には、世界遺産となったり芸術作品が人々を魅了したりして軍事的に負けても名声は永代に続くのものになっていくこともあるのでわからないものです。


しかしながら古典というのは大衆社会でのメインストリームにはなりえないでしょう、ごく限られた人たちがその最前線で味わい、また上に立つ者には教訓として役立ててもらいたいものです。大衆に押し付けることはろくなことにはなりません。「有難い偉大な作曲家」として音楽の授業で子供たちに押し付けたところで興味を持つはずがありません。反発を招いて遠ざけてしまうでしょう。

快楽主義の立場に立てば知っている人達だけが味わえる極上スイーツとも言えます。



19世紀には新古典主義という古典主義の時代がありました。現在のヴァイオリン業界の基礎が形作られた背景になります。ストラディバリが理想のヴァイオリンとして崇拝の対象になっているのもこの時代の価値観によります。私は神格化しすぎだと思います。神に比べればストラディバリも人間らしさがあると思います。ストラディバリでさえも過大評価すべきではないと思います。

このような新古典主義は現代美術では否定されています。クラシック音楽では複雑で作曲界では否定されていますが演奏の世界では現役です。そもそも「クラシック」というのが古典主義以外の何物でもありません。クラシックファンの多くは古典作品を聴きたいのであって最新の作曲家には興味がありません。


現代の社会は「天才のひらめき」、「斬新なアイデア」、「革新的な技術」そのようなものを重視しているように思えます。神など超越したものの存在感が薄れた現代では個人にその代わりを担ってもらいたいのでしょう。しかし古典主義ではそれらは大して重要ではありません。もしありふれたテーマであってもそれをいかに作り上げるかに興味があります。大量生産や記録メディアの発達によって機械でいくらでも同じものが作られる現代では初めのアイデアが重視され実際に作りだされる工程については見向きもされないのです。


現代人の心は神のような個人を必要としています。しかしそのようなものは存在しません。巨匠のふりをした偽者やメディアの宣伝に踊らされてしまうだけなのです。バッハやモーツァルトもとても人気があります。しかし同じような作品を作った人は他にもたくさんいます。個人の手柄ではなく当時音楽に携わった多くの人達の厚みが豊かな文化を生み出したと思います。ヴァイオリンでもストラディバリやデルジェズがゼロから作ったのではなく流派としての厚みがあるわけです。そもそも弦楽器自体がおそらくアジアから伝わったものだと考えています。ほんのわずかな個人だけを取り上げてそれ以外をバカにするというのは楽しみを半減させ快楽主義に反する行為だと思います。偉大だとされる人もそうでない人も神ではなく人間なのです。




デルジェズのヴァイオリンはまさに人間らしさがあふれた作品ですね。そして流派としての厚みが人間らしいデルジェズにこのような楽器を作ることを可能にしたのです。アマティ家、グァルネリ家、ストラディバリ、ベルゴンツィ・・・一連の流れの中で人間らしい楽器を作った、それがデルジェズなのでしょう。

このようにデルジェズについて深く知っていくのはおもしろいことです。古典に学ぶということは現代ではメインストリームではなく斬新なデザインで革新的なヴァイオリンが多くの人に求められているのかも知れません。私はこっそりと極上の楽しみを味わっています。さらに言うと他の流派のマイナーな作者でも皆このような物語があります。楽しみに終わりがありません。

パフリングを作ります

この前アマティモデルのビオラの時と少しやり方を変えてみましょう。パフリングは黒檀とポプラを使いました。それは今回も同じです。前回は2mmほどの幅に切ってそれぞれ別に裏板や表板の形に合わせて曲げてから貼り合わせました。

前回の画像です。

普通に考えれば黒檀、ポプラ、黒檀の薄い板を先に張り付けてそれから2mm幅に切って曲げれば手間が省けると思うでしょう。しかし問題は黒檀という材料は伸び縮みしないため曲げようとすればカーブの内側と外側で長さが変わってくるので曲げることはできません。市販されているものは黒檀ではなくファイバーと呼ばれる人工の材料かカエデなどの白い木を黒く染めたもので、それらは曲げることができます。

手間がものすごくかかりますが自分で作ることによって味わい深いものができます。音には関係ありません。


白い木はポプラです。デルジェズの場合には太いところと細いところがあるので厚みは適当にバラつきを持たせて多めに作りオリジナルと同じなるように選んで用います。

黒檀は今回は業者に薄い板で発注しました。試してみましょう。仕上げは荒いのでスクレーパーで表面を仕上げました。厚みは完成よりも厚めにしておきます。

この三枚を張り合わせてから細く切ります。


黒を太めにしてあります。

長さを切って、表板や裏板の形に合わせて曲げます。何とか曲がらないこともないのですがやはり曲げにくいです。コーナー付近は急なのでを曲げるのはやはり無理でした。貼り合わせたところが過熱によって接着が一旦剥がれてまた冷えてくっつくということで何とかなりました。

曲げる作業は時間がかかり所々上手く曲がらない場所ができてしまいました。アマティのコピーではこのようなことはまずいので試みませんでしたが、デルジェズなら構いません。実験台です。

きれいに仕上げるにはこの前のようにそれぞれ曲げてから貼り付けるほうが良いでしょう。時間がかかるので妥協案としては黒檀とポプラの二枚を張り合わせて幅に切り、曲げた後でもう一つの黒檀を張り付けるのが最良でしょう。


オリジナルのデルジェズはパフリングの黒い部分の厚さにバラつきが大きいです。そこで曲げた後のパフリングでオリジナルと同じ個所が薄くなるようにスクレーパーで削って薄くします。こうすることでオリジナルと同じ分が同じ厚さになるのです。

パフリングを入れます





パフリングの幅が一定ではないのは先ほど説明した理由によります。太いところと細いところがありますので、彫る溝の幅をパフリングに合わせなくてはいけません。初め細めに溝をほっておいてパフリングをあてがいながら溝をナイフで切って広げて合わせていきます。通常ならパフリングの幅は一定なのでそれに合わせて溝を彫れば一発でハマります。パフリングをあてがってその場所ごとに溝の幅を合わせるのです。

なぜデルジェズはこんなに複雑な方法を取っていたのでしょうか?
おそらく雑に溝を彫っておいてそこに合うようにパフリングを削って薄くしながら入れていったのではないかと考えられます。複製で全く同じようにするには逆にパフリングに溝を合わせなくてはいけません。黒いラインが太くなったり細くなったりすることに対してデルジェズは何とも思わなかったのでしょうね。アマティならもう少し均一です。現代のファイバーを使ったものはもっと均一なので雰囲気が違ってきます。


パフリングがあったらにかわで接着します。これがずれたりすると本当に残念なことになります。今回はデルジェズなのでそんなに深刻ではないですが…・

注射器を使って温めて水に溶いたにかわを溝に流し込みます。特に表板はにかわを吸い込むので十分に浸してあげないと接着が甘くなります。これもビリついて異音が発生する原因になります。

接着するときは少し上に出るようにします。

はみ出た部分を削り落とします。

こんな感じです。黒いラインの太さが一定ではないのが分かるでしょうか?

仕上がりは?

まずはコーナーから

オリジナルの写真と比べます。オリジナルは当然摩耗していますからコーナーは丸く短くなっています。後で同じように加工します。



このような感じです。アマティの時とタッチが違うのが分かるでしょうか?

黒いラインの太さにバラつきがあるのが分かりますか?

デルジェズもこの時期はそれほどひどいものではありませんが、現代でこのようなレベルなら凡人以下の腕前ということになります。もう少し後の時代になるとパフリングがガクガクと波打って曲がっていたり途中で折れていたりします。以前作った時は半田ごてを使ってわざとガクガクに曲げたこともありました。この1734年のものはそこまでひどくありません。またパフリングの上の加工の仕方によっては汚れがたまって黒くなり余計に汚く見えます。ニスを塗ればもう少し雰囲気が出るでしょう。

表板は損傷が激しくコーナーはほとんど原型が分かりません。推測で作りました。

もう一度これがアマティ型のビオラです。

次がデルジェズコピーです。

雰囲気が違いますね。




それから木釘です。これは本来なら裏板を固定するときに使うのですがダミーです。ポイントは木釘を先に入れてからパフリングを入れることです。木釘の上にパフリングが入っています。

私は表板には木釘を付けません。表板に木釘を使うと表板が乾燥して縮んだときに木釘のところで割れてひびが入ってしまうからです。
パフリングのほうも味があります。


もっと後期のデルジェズならグッチャグチャのパフリングでわかりやすい特徴になっていますがこの時代のものはそこまではっきりとした特徴はありません。しかしながら、市販されているパフリングを使えば太さも全く違い現代の楽器のようになってしまいます。パフリングは外側からの距離も大事でこれを調整するのは大変に難しいです。

私が複製を作る場合に大事にしているのは大げさにしないことです。さりげなく特徴をにじませるようにしています。オーバーにやるとモノマネ芸のようになってしまいます。

私が嫌うのは特徴をオーバーに表現しているのに随所に現代的な雰囲気が出てしまっているものです。大げさな特徴が無いのに全体として抜け目なく古い時代の楽器の感じ、デルジェズの感じを出すと趣味の良いものになると思います。

アンティーク塗装も大げさなものは大嫌いです。鮮やかなオレンジ色のニスに漆黒で傷や汚れが表現されていると新品の楽器に傷を人工的に描いてあるように見えます。私には新しい楽器にしか見えません。他人から教わったトリックを猿まねしているだけで実際の古い楽器を見ていないのです。

さりげなく自然に古さを表現できるのが本当に上手い塗装なのです。

汚いだけのアンティーク塗装なら新品のほうがはるかにましです。
自分の作ったものに対して謙虚に出来栄えを受け止める必要があると思います。

趣味よく仕上げられたものはそれ自体が趣(おもむき)があっていいですね。
ただ趣きがあるというそれだけのことなのですが…

歴史を顧みることなく鳴るか鳴らないかだけで楽器を選ぶほうがメインストリームですから、その場合には古い比較的良質な量産品のほうが優れていると思いますよ。