アマティ派のデルジェズコピーを作ろう【第5回】横板作りと個性 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

久しぶりにデルジェズのヴァイオリンの複製です。
複製を作るためには特別気を付けること、通常よりも手間のかかることが多くあります。
音響的に変わったことはありませんが横板でもデルジェズの特徴はあります。





こんにちはガリッポです。

工業製品というのは同じメーカーが違う製品を作ってもどうしても似ている部分というのが出てきます。上の画像でも日本の窓枠とは全然違いますし、壁の質感も違います。日本の建材メーカーが「西洋風」として窓や壁のパネルを作っても中途半端なものにしかなりません。その土地に根差して長い年数をかけて培われてきたものは簡単なことではありません。

その一方で称賛されるものもあります。
たとえば、「アルプスの少女ハイジ」というアニメがありますよね。原作は西洋のものですがアニメーションは日本の製作です。これが凄いのは、私のいる国でも何度も再放送がされていて女の子なら誰もがこれを見て育つのです。
何が凄いかというと彼女たちはこのアニメが日本で作られたということを知りません。西洋の暮らしぶりを描いたわけですが、現地の人達が見ても全く違和感がないというのです。

当時の人たちはよく研究して絵を描いていたんだということが言えます。


このようなものはむしろ例外です。
デルジェズのコピーを複製を作る場合も同じで普段現代風の楽器を作っている人がデルジェズの複製を作っても現代的な雰囲気が出てしまいます。これが非常に難しい点です。

私もアマティやストラディバリの複製を近年は作っています。そうするとデルジェズの複製と言ってもアマティやストラディバリの複製と似ている雰囲気になってしまいます。モデルの形とかf字孔とかスクロールとかそういう分かりやすい形は似せることができます。しかし全体として醸し出される雰囲気というのが難しいところです。

ただ、アマティの雰囲気がデルジェズコピーから出てしまっていてもそれほど問題にはなりません。なぜなら同じ流派だからです。一番まずいのは現代風の雰囲気が出てしまうことです。デルジェズの複製はストラディバリ以上に作る人が多いです。というのは腕前に相当な自信が無いとストラディバリの複製は作れないし、腕が良いと今度は現代の作風をきっちり作ろうとしてしまうからです。腕に自信がないためにある種禁欲的な真面目さを求められるストラディバリよりも、アバウトでいい加減なデルジェズコピーのほうが一見簡単に思えるからです。

しかしそのように作られたものは「ヘタクソな現代の職人」の楽器にしか見えません。



また大量生産品でもデルジェズモデルのものはよく作られました。これも大量生産品の雰囲気がまずあるので形をいくらデルジェズから採ってもパッと見で大量生産品だとわかります。これは大量生産の流派の職人が、ドイツならマイスターがハンドメイドで丁寧に作ってもやっぱり大量生産品の雰囲気が出ます。

これらの楽器は音響的には悪くなく場合によってはとても優れたもので、見た目も美しいものです。旧東ドイツのものであればヴィヨーム、チェコのボヘミアではイタリアの楽器の面影もあります。問題は美しいけども大量生産品に似た雰囲気が出てしまっているのです。これは難しい問題ですね。「もの」ということでいうと美しく見事に作られていて機能上も優れています。ただイメージの話になると何か残念な印象があります。

逆に考えると大量生産品がマイスターの作品に似ているということもできます。したがって良質な大量生産品というのはコストパフォーマンスに優れた素晴らしい製品だということもできます。職人や楽器店の営業マンでもよほど目が良くないとわからないものです。

「製造技術」という理系のような視点ではこれは本当に優れたものであると言えます。

私の職場で、大学の工学部の学生がヴァイオリン製造の一工程のための機械を卒業制作のようなことで作ろうという人に協力したことがあります。ヴァイオリンの加工は大変難しいものでそれができる機械というのは大変に技術の高い優れたものであるはずです。工学部の学生はそれに対して何の疑いもないことでしょう。

しかし私たちは、とても高度で優れた機械であっても機械を使ったことによって楽器の価値が暴落することを知っています。彼が一生懸命優れた機械を作ったとしても私がそれを使い日は来ません。私が情緒豊かな製品を作るのに切望しているのは良質な工具であって機械ではないのです。



大量生産について勉強してみました。
とくに有名なのはヘンリー・フォードです。
それまでとても高価で普及していなかった自動車を大量生産によって庶民にも買えるようにした。それだけではなく従業員には倍の給料を払うということも謳っていました。これによって大成功し自動車王として有名になりました。初めて乗ったり買ったりした自動車がフォードのモデルT(T型フォード)だったという人が多かったそうです。日本でも最初のタクシーはT型フォードで横浜に工場があったそうです。

ヘンリーフォードのこの話は学校でも習うお話なのですが、私が興味を持っているのは生産技術だけでなく工業製品の魅力という部分です。フォードの言い分によると、馬から自動車に買い替える革新的な製品だったということらしいです。

ちなみにデトロイトのフォードミュージアムに行くとストラディバリやデルジェズ、ベルゴンツィなどの名器がずらり展示されています。フォードミュージアムに訪れる人でヴァイオリンに興味を持っている人はほとんどいないので誰も見向きもしていません。クレモナのミュージアムなら人だかりができていますがそれに劣らないヴァイオリンのコレクションがあります。フォード家は文化や芸術にも造詣が深かったのですね。


そんなヘンリーフォードですが、革命児であったにもかかわらず晩年には頭の固い石頭になってしまいます。大成功したT型はアメリカで販売された自動車の半分を占めることもあったそうです。道路にはT型があふれていたことでしょう。ヘンリーはT型を理想の自動車と考えていたのでしょう。20年にもわたって作りつづけました。その間の競争相手の自動車メーカーは性能の優れたものを開発していきました。量産によって値段がさらに下がっていったT型ももちろん売れ続けていましたが、道路が舗装されるようになりスピードが速い他社の自動車が次々とT型を追い抜く状態になっていたそうです。
私たちの世代ならファミコンに一番最初のF1レースというゲームがあって自分の操縦するマシンがなぜか前を行く遅い車をどんどん追い越していくというものでしたがそれを思い出します。なぜ最後尾からのスタートなのでしょうか?予選で失敗したのでしょうか?

それはともかく大量生産品には品質や性能が悪い安物だというイメージが定着しました。
ゼネラルモーターズは毎年改良を加えるという「モデルチェンジ」という概念を1920年代に考えだして成功しました。今でも米国で1位がゼネラルモーターズで2位がフォードです。これが意欲的なのは毎年製品を改良するというものです。

フォードシステムとトヨタシステムについては有名でよく聞く話ですが、ゼネラルモーターズの話はあまり聞きません。おそらく生産技術に関してフォードシステムとトヨタシステムが重要だからなのでしょう。あくまで理系の話です。ゼネラルモーターズが魅力的な製品を作ったということについては語られません。

ゼネラルモーターズは多くの自動車メーカーを買収して多くのブランドを持っていました。それぞれのブランドはディビジョン(事業部)といいある程度独立した組織になっていました。それぞれ自分たちが得意とするタイプの製品を作ることでGM全体として多くの車種を作ることができ幅広いユーザーに製品を提供し販売台数でトップになったのです。

しかしこれには問題があってフォードのような少品種大量生産に比べ効率が悪いのです。車種が多すぎることによって改良が追い付かなくなっていくのです。弱小メーカーの集合体とも言えます。
これを改良したのがトヨタシステムなのです。多品種少量生産と言って多くの種類のものを効率よく生産することができるようなったのです。小さいメーカーが斬新なアイデアや経営資源を集中させてヒット商品を出すと、トヨタはそれに対抗製品を作ってぶつけていくのです。「トヨタに作れないタイプの製品はない」ということですね。製造技術の高さが効率と品質を高め世界最大手の自動車メーカになりました。

レクサスという高級車ブランドがあります。これもGMのキャデラックに対抗するために作ったのでしょう。
思惑通りアメリカでは成功しました。しかしヨーロッパでは散々なものです。ヨーロッパ最大の自動車市場を持つドイツでブランド別の登録台数でその他を除くと最下位争いをしているのです。

ヨーロッパではもともと小さな自動車メーカーが多く彼らは自分の得意とするジャンルに力を集中していました。トヨタのようにどんなタイプの自動車でも作れるというのではなくて、得意なものだけを作るという具合です。レクサスも優れた品質の製品であり、ドイツの評論家もドイツの高級車と同等の評価をしています。BMWもベンツもレクサスも発売時期の新しいものから順位を付けています。

それに比べると市場のイメージは大きくかけ離れていると言えます。販売台数ではベンツやBMWとは全く勝負になりません。

これは冒頭でも言ったように大量生産の流派のマイスター作のヴァイオリンがいかに優れていたとしても雰囲気として安物と同じものが感じられるのと同じではないかと思います。これまで大衆車を設計していた同じ組織が急に高級車をつくろうとしてもやはり大衆車の雰囲気が漂ってしまうのです。このことを消費者は敏感にかぎ取っているのではないかと思います。高級電気自動車のテスラなどは人気がありますから消費者は必ずしも保守的だからということでもなさそうです。

何でも作れるというのではなく、得意なものに集中していることが名品というイメージにつながるのでしょう。単に実用品としてだけではなく作り手がいろいろな可能性の中でもいろいろなものに手を出さず、自社の製品を大事に思っていることが使う者も大事に思えるのでしょう。魂がこもった力作という感じがしますね。

多品種少量生産は製造技術や生産管理の観点から見たら可能になっているはずですが、製品が醸し出す雰囲気という点で言うと実現できていないことになります。



私個人としては優秀なビジネスマンでも資産家の息子でもありませんから大衆向けの大量生産品というものはありがたいもので大好きです。旧東ドイツの大量生産品のヴァイオリンでも上等なものをとても高く評価しています。50~100年前のものなら私がいくら試行錯誤をしてこだわって気を使って作っても音の強さでかないません。特別な趣味趣向を持っていないのなら大いにお勧めします。

私の働いている店で売っている手ごろな価格のものは大量生産品です。大量生産品には安ければ何でも良いというものと品質が良くちゃんと作られているものがあります。ヘタなハンドメイドものよりずっと良くできているものも少なくありません。

ヘタクソなハンドメイドの楽器でも日本では「見た目じゃなくて音を作っている」などと言うセールス文句で高い値段をつけているかもしれません。職人から見れば金をどぶに捨てるようなものです。



技術者から見ると工業技術というのはあっちが良ければこっちがダメ、こっちが良ければあっちがダメというようになります。大メーカーの多品種少量生産と小メーカーの少品種少量生産では人によって求める性能や特徴が違うので相反する性質のうちユーザーの気を引くどちらかに特化し気にしないもう一方は切り捨てるのです。

それに対して少品種大量生産では多くのユーザーに好まれるため極端な特性にすることはできません。技術者から見て「すごいな」と思うのは相反する特性の両方を高い次元で両立していることです。現在のフォードは世界で一位、米国で一位、ヨーロッパで一位、中国で一位というベストセラーの車種があります。これらは大量に販売することで大きな開発予算を得て相反する特性を両立するために費やしているのです。技術者からすると素晴らしい製品です。相反する性質を両立させプロの演奏者から初心者まで音量を重視する人にも音色を重視する人誰にでも喜ばれるヴァイオリンを作ることができたらどんなに素晴らしいでしょうか?しかし私には何千億円もの開発予算はないです。


大量生産品には数をさばくため安さだけを売りにした粗悪なものばかりでなく、このように良い方の大量生産品というものもあると思います。
いつでもそのような製品を仕入れいたいと思いますし、弦楽器演奏の初心者にはぜひそういうものを使ってもらいたいです。
ヴィヨームはほとんど大量生産と言ってもいいくらいの数の楽器を作りました。優秀な弟子を育成し彼らをうまくマネジメントして高品質な楽器を相当な数作りました。大量生産の理想的な姿です。


またハンドメイドの楽器でも優れた量産品に音ついて勝るのは簡単なことではないと思います。ハンドメイドだからと言って何でも高級品だと言って有難がるのは違うと思います。
別にお金が無いのに無理にハンドメイドの楽器を買う必要はないと思います。


これに対して個人の職人が作るものは「雰囲気」が違うものを作れるかということになると考えています。
大量生産品もハンドメイドも楽器の構造が同じであれば音も見た目も似たようなものになると思います。それだったら安いほうを買ったほうが得じゃないかと思うのです。安い楽器で音に満足している人は無理に買い替える必要はないと私は思います。安くて音が良い最高の楽器なのです。

「なんでも作れます」というのではなくて得意なものに集中するということは心に響くものを作る上では重要なようですね。


私も、現代的な楽器も、フランス的なものも、現代のクレモナのようなもの、ドイツのオールドでも何でも作れます。だからと言って何でも作るのではなくヴァイオリンの複製ならストラディバリとデルジェズともう一つくらいを作っていきたいと思っています。複製ではない自分オリジナルのものも作りたいですけど、それもストラディバリやデルジェズなどアマティ派に似たものになると思います。似ても悪いことではないですよね?

まあ、私のような異なる流派のスタイルのものを作れる人は例外的ですから、何でも作れるというのはすごいことなのです。ほとんどの人は自分の作風しか作れません。研究のためにまったく違うタイプの楽器を作るのは素晴らしい経験ですが使う人の心にどう響くかというのはまた別の話です。

予算や好みなどでバリエーションはあっても全く異なる性格のものを作るのではなくどれもそのメーカーの一貫する精神がある、つまりシリーズのようなものですね。こうなると似ているということはプラスになります。

大企業でも多品種少量生産に変わるのは少シリーズ多品種生産なのかもしれません。


様々なサイズのビオラ、チェロ、バロック楽器などとてもじゃないけど多品種になりすぎると手に負えません。ん~時間がない…・



いつも言っているように弦楽器を作るのに特別な才能などいりません。誰でもまじめに訓練すれば作れるのです。誰が作っても教科書通り作れば極端に悪いものにはなりません。特別こだわりを持って作っても加工技術が高い職人が作っても万人が絶賛するような極端に良いものはできません。誰が作っても大して良くも悪くもない楽器しか存在しないのに、名品を求めるユーザーの要求がブランド信仰を作り上げて名前だけが独り歩きするのです。

それでも音色や音の出方、見た目の雰囲気はすべての楽器で微妙に違います。私が取り組んでいるようなことは、わかる人にしかわからない趣や雰囲気の世界の話です。

横板を作ります

まずは木枠を作るところからです。今回は表板と裏板をそれぞれ実物大の写真からとります。この場合裏板と表板の形がだいぶ違うのでつじつまを合わせるのがポイントです。


木枠も今回のために新しく作りました。木枠も裏板と表板にあてがってみて最終的に仕上げます。

コーナーブロックにはスプルースを使います。アマティやストラディバリでは柳を使いました。スプルースのほうが材料としては一般的に用いられているものです。

塊から切り出していきます。木の繊維が真っ直ぐになるようにします。繊維が斜めに入っていると加工するときに割れてしまってうまく削れないことがあります。

一つの面を基準に3つの面を垂直にします。

仮に接着しておきます。最終的には枠から取り外します。


裏板と表板にあてがってコーナーブロックを加工します。

このようにすると裏板と表板のコーナーが微妙にずれていても横板の先端が上手く一致します。


このデルジェズで面白いのはミドルバウツだけ別の木からとったものになっています。音が良くなるように特別な材質のものを選んだ・・・・そんなわけありませんね。材料が足りなかったのでしょう。私は材料があるのにわざわざ別の木のものにしました。

先ほどの話です。裏板と表板の形が違いますから横板は垂直にならないところが出てきます。木枠もそのようにするべきです。実際にあてがってみて角度が適切になるように調整します。

これだと傾斜がつきすぎていて余白がちょっと足りなくなります。調整します。何台も楽器を作ることで作業が早くなる人もいますが、私の場合にはこだわるポイントが増えてくることによって手間暇がどんどん増えていきます。

コーナーブロックの外側も同様に加工します。
材質が柳とスプルースでは若干違いがあります。加工の仕方には気を付ける必要があります。刃物がうまく使えていればどちらにしても問題はありません。未熟な人では柳は柔らかいので削りすぎる心配があるでしょう。

ベンディングアイロンという道具で曲げます。木枠の側面が斜めになっているところがありますから曲げたときにうまく合うようにしなくてはいけません。カエデには杢といううねりがあります。曲げたときに波打つのです。以前も言ったように少し波打たせておくと古くなって歪んできた感じが出ます。

木枠ぴったりに曲げて、ずれないように接着するのは難しいものです。木枠に治具で押さえつける方法もありますが、きれいに曲げてずれないように接着すれば十分なレベルになります。


ライニングにもスプルースを用います。アマティやストラディバリでは柳でしたね。

一定の幅に切断します。この幅も作者によって広かったり狭かったりします。特徴が出る部分です。切り方もこのようにきれいに真っ直ぐ切る場合もあれば、ガタガタになっている人もいます。デルジェズもまっすぐで良いと思います。


ライニングも曲げて長さを合わせていきます。


ミドルバウツは溝を掘って埋め込みます。デルジェズの場合には溝の彫り方がグッチャグチャです。

後で枠をはずしてからもう少しグッチャグチャにしましょう。

ライニングを接着した後の加工はアマティの時と同じです。ライニングを接着するときずれると幅広くなったり細くなったりします。普通は均一になるように気を付けるわけですが、均一すぎるとデルジェズっぽくなりません。太かったり細かったりするほうが雰囲気が出ます。

品質?

デルジェズのヴァイオリンが雑に作ってあるとはいえやはり接着面が確実に接着されている必要があります。グッチャグチャなのもダミーであって品質はちゃんとしたものにしないとトラブルの原因になります。

横板もわずかに波打っていると雰囲気が出ます。裏板や表板の際のくぼんだ所には汚れがたまります。波打っているだけでも雰囲気が出ますが、くぼみに汚れがたまっているところも再現すると古さを表現できます。つるんとしてぴちっとした横板なら現代風に見えてしまいます。

やたらにサンドペーパーなどをかけてしまうと波がなくなってしまいます。波が深すぎても今度は出ているところが擦れてニスがすぐに剥げてしまうのです。この辺の加減が本当に難しいです。

表板と裏板の形が全然違うというのはイタリアのオールドヴァイオリンではよくあることです。製法が現在と違うからなのですが、そもそも昔の人は左右、裏表を対象にしようと思っていなかったのです。人間の顔と同じで左右が微妙に違うほうが自然で全く対称だと違う雰囲気に見えますね。

歪みをすべて計算して作り出すというなんと手間のかかることでしょう。
それもひとえに趣(おもむき)ということに尽きますね。