ヴァイオリンの表板がパックリ割れる事故の事例 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

始めに前回のオールドヴァイオリンの音について

それから、事故によって損傷を受けたヴァイオリンの修理について紹介します。
保険の必要性も考えていきます。







こんにちは、ガリッポです。

今日も友達のようにグダグダとお話をしましょう。


先日もお客さんがヴァイオリンを探しに来ていました。
中学生くらいでしょうか?母親の方もヴァイオリンを弾かれるようでなかなかの腕前でした。
先生から音が小さいのでもっと良いヴァイオリンを使えと言われていたそうです。

このようなお客さんの場合「とにかく音が大きいヴァイオリン」というはっきりした選考基準があります。

この場合新作のヴァイオリンにまったく出る幕はありません。
150万円以下のクラスで10数本を試して4本を選んだのですがいずれも50~100年前のヴァイオリンが選ばれました。
すべてドイツ製のものでした。

めずらしくイタリアの新作ヴァイオリンもありましたが選ばれませんでした、私の作ったヴァイオリンもです。


音の強さではやはり50~100年経ったヴァイオリンに新作のものはかないません。音が弱いのです。


逆に言えば新作のヴァイオリンもいずれは力強い音になるということです。


とはいえ、どの楽器も粗悪なものではありませんでしたから、決して悪いものはありませんでした。音が小さいと言ってもどうしようもないほど小さいわけではなく一番音が大きいものから4つ選んだのです。その結果がすべて50~100年前のものになったということです。
音の大きさ以外に注目すれば違う結果になったかもしれませんがこれが平均的なお客さんの姿です。


このような状況は新作のヴァイオリンがはるかに高い値段で売られている日本とはかなり違いますね。日本では「世界的に評価の高い楽器」を求めるあまりブランド信仰になり、結果として出回っている楽器のレベルが低いということになっているのでしょう。実際には無名のはるかに安いドイツのヴァイオリンにまったくかなわないのです。


日本の弦楽器店の選択肢の中では新作しか置いてないのならその中で選ぶしかないですね。そうなると古いものに比べるとやや音量に欠ける新しい楽器も比べる対象が無ければ決して音が小さいというものではないでしょう。

アマチュアなどで誰かと比べるのでなければひどく不満になるということはないでしょう。新作のヴァイオリンはどちらかというと癖がなくバランスが整っていたり、嫌な音が出なかったりしますからそれ以上のものを知らなければ愛用していくうえで満足度の高いものだと思います。



日本に生まれ育ってしまった以上はその中でお買い得なものを探すか、外国に買いに行くかですね。韓国人はヨーロッパに留学している間に楽器を買うようにしているようです。自分の国の弦楽器店を信用していないんですね。日本人は留学に備えて日本で高価な楽器を買って持っていくというもったいないことをしています。ヨーロッパにも悪質な業者がいるので数日間の滞在ではなかなかのことですね。

普通の音のものを異常に高い値段で買うのはあまり得ではありませんね。せめて普通の音のものを普通の値段で買うことができれば買い物はまずまず成功と言えるでしょう。



ともかく面白いのは日本の弦楽器界とは全く違う楽器の選び方をしていることです。
日本の弦楽器店で聞かされるウンチクがヨーロッパでは全く通用しないということです。日本人のほうが弦楽器をより理解していると考えるのなら日本のウンチクを信じてください。

私も一人の人間でしかないので、私も自分の主観からは逃れられません。私がよさそうな楽器として紹介しても「こんなの全然ダメ」という人もいるでしょう。しかし日本で絶対的に信じられていることがヨーロッパでも同じように信じられていないのです。日本だけのことなんです。



もちろんヨーロッパでも大都市の力を持った楽器商は要注意です。現地の学生や愛好家が利用しているお店とは別世界です。

前回のクリンゲンタールのヴァイオリンの音は?

前回紹介したクリンゲンータールのオールドヴァイオリンについて中級者が弾きました。

特徴的なのはとても柔らかいのびのびとしたE線でした。これは非常に素晴らしい物でした。同じ価格帯でこのようなものは全くありません。ずば抜けていました。単に弱いというのとは違い音が固まっているのではなくのびのびとしているのです。

それ以外のA,D、G線に関しては細くて量感のない物でした。E線を除けば取り立てて大したヴァイオリンではありませんでした。

E線だけで言えば数千万円クラスのオールドヴァイオリンに匹敵するでしょう。近代以降の楽器にはこんなものはめったいないと思います。


すごく力のある上級者が弾いたらこんな楽器からも力強い音を出してしまうのかもしれません。中級者以下では弾きこなすのは難しいでしょう。

100万円程度ということで考えると、ADGもひどいということはなくて平凡というだけです。音量が欲しいというのでなく、耳にやさしい音のヴァイオリンを求めている人には良いかもしれません。音楽の山場は高い音になることが多いです、クライマックスで奇跡の美音を聞かせるかもしれません。


事故の事例です

今回持ち込まれたのは事故によって大きな損傷を受けたヴァイオリンです。幸いにも保険に加入していたので修理代はかかりません。しかし、愛する楽器がひどい姿になってしまったのは心が痛むものです。


表板がパックリと割れていて、テールピースの下は表面がごっそりともっていかれています。
それだけでなくよく見ると駒の右の足の下、魂柱の来るところにも割れがあります。これは特別な修理が必要です。

エッジも傷ついています。

この楽器は作者は分かりませんが、オールドヴァイオリンのようなアーチが個性的で分厚いオイルニスが塗られています。大量生産の流派にこのようなものはありませんから、個人の職人の手づくりのものでしょう。

こんなになってしまって大丈夫なんでしょうか?

修理です

ひどい損傷で心配になるかもしれませんが、修理する側から言うとこの程度の損傷は全く問題ありません。壊れていたのが分からないくらいに直すことができるでしょうし、音響上もマイナスになりません。長年手入れをしてない楽器ならついでにオーバーホールもすると事故前よりも音が良くなることさえよくあります。古い名器もこれくらいの損傷を受けて修理されているのが普通です。

この楽器についてはうちで数年前に大掛かりなオーバーホールの修理をしてあるのでそんなに音が良くなるということはないでしょうが、完全に復活させることができます。

問題は修理代なんです。この場合は保険に入っていたので私も全力で取り組んで完璧に直すことができます。

割れているところを接着します。割れてすぐというのは比較的うまくつけやすいです。これが長年放置されてしまうとぴったり合わせるのが難しくなります、汚れが隙間にたまると接着面が真っ黒な線になります。難しいのは段差ができないようにくっつけることです。


魂柱が来るところの傷は、木片を張り付けて補強することができません。木片が邪魔になって魂柱を立てられないからです。このように新しい木を埋め込みます。この当て木を魂柱パッチといいます。

最終的にはこのように割れた部分に新しい木を埋め込んでもオリジナルと同じ厚さになります。魂柱によってへこみができている場合は少し厚くします。


このように駒の足と魂柱が来るところを中心に滑らかに掘り込みます。まだ100年くらいしか経っていない楽器なのでこれから先も同様の修理が必要になるかもしれません、したがってあまり深く彫りすぎないようにします。もう一度やるときはすべて削り落とさなければいけません。1mmほど残してあります。

このとき表板を枠に固定るするとともにこのような型をあてがいます。前回は石膏の型を紹介しました。この楽器はまだそんなに古くなく厚みもありしっかりしているので表板全体の型を取る必要はないと考えました。これはプラスチックの弾力のない硬いもので医療用のものです。写真では大きく見えるかもしれませんが、魂柱の当て木はとても小さなものです。これくらいの型を作れば十分です。この型を外側にあてがうことで表板を変形させることなくパッチを埋め込むことができます。


チョークなどを表板のほうに塗ってパッチの接着面全面につくように加工して接着します。この画像はまだまだ周辺部分がついていないところがあります、これは大変に難しいもので一日かかりました。


型をあてがってしっかりと締め付けて固定します。木がつぶれたり、にかわを吸って膨らむ部分があるのでわずかな隙間ならこれで埋まります。


余計な部分を削り落として厚みを仕上げます。


以前もチェロで同様の修理を少し紹介しました。この時は表板の陥没というおまけつきでした。
所有者の方はチェロの音が気に入らずに売るために修理を依頼されました。
私が修理した結果音が良くなったと気に入っていただいて売ることはやめて愛用することになりました。

商売人としてはチェロを売るチャンスを逃してしまったということになるでしょうが、私はそんなに小さな人間じゃありません。修理がうまくいってお客さんの想定以上に満足していただいたことを誇りに思っています。

問題のニス

割れてしまった表板は接着すればよいだけなので地道に作業すればよいのですが、厄介なのはニスです。ごっそり剥げ落ちてしまっています。


このニスは弾力が少なくもろい性質のものです。したがってこのようにテールピースとアジャスターがこすれてニスがボロボロと落ちてしまいました。普段の使用でボロボロ剥がれることはないので品質の悪いものというわけではなさそうです。

今回難しいことが2点あります。

①とても分厚い
②クラックと呼ばれる亀裂が入っている

おそらくオリジナルはオイルニスだと思います。まず①ですが、修理では乾くのが早いアルコールニスを使います。アルコールニスの難点は厚く塗るのが難しいです。

②クラックはニスの表面にしわのようにひび割れが生じる現象です。人工的にクラックを作ることもできますが、ヒビのでき方はニスの材質などによっても違ってくるので同じものを作るのは困難です。塗ってみたらこんなヒビになったということです。乾燥の遅いニスで似たような亀裂が生じたこともありますが、時間も限られていますし、成功する確率も100%とは言えません。

どうなったかですが・・・

撮影した場所の明るさは違いますが、どこが剥がれていた所かわからないようになったと思います。まだ完全には仕上がっていませんが、何とかなりそうです。

どうやったかと言うと、まず厚く塗るために材料をブレンドしてニスを作りました。厚みが稼げたところでヒビを手書きで書きました。大槻ケンヂというロックシンガーが顔にヒビを書いていましたがその要領です。

保険の必要性

もしこれが保険に加入していなければ多額の修理代が生じるところでした。

私のいる地域では保険に加入している人が多く、加入している人が多いことが保険の条件も良いという好循環になっています。保険というと何千万円以上するこうな楽器のものと思うかもしれませんが、こちらでは子どもが使うような安価な大量生産品にも保険をかけている人が多くいます。子供こそ保険が必要なのです。本人は気を付けても他の子供が壊してしまうこともあります。

この辺はヨーロッパ人らしい考え方です。
生活していて、ものが壊れたりすることがとても多いです。
私の社長の家も、旅行に行っている間に食器洗い機から水漏れし家が水浸しになってしまいました。床もすべてはがしてキッチンも家具も絨毯もすべてダメになりました。絨毯なんて本当のペルシャじゅうたんで500万円とかですよ。

故障のおかげで内装は最新の高級ホテルのように生まれ変わりました。


工業製品の故障に対して日本人はとても厳しいですね。同じように外国の人もそう考えているかと言えばそうでもないのです。その理由で日本では故障が少ない日本メーカーの製品が圧倒的に売れていても外国では必ずしも同じようにはいきません。

なぜ、故障をよく起こすようなメーカーの製品を気楽に買ってしまうのか日本人には理解しにくいところかもしれません。日本人は平均すればはるかに不安症なんだと思います。欧米人の楽観性には驚かされます。

その一つが「保険に入っているから良いよ」という感じでしょう。


組織も日本とは違っていて自分の持ち場にしか責任を持たないです。同じ会社の人に何かを訴えても自分は責任がないから知らないと全然相手にしてくれないことがよくあります。

保険会社も自分の持ち場しか興味がないせいなのか、支払いを渋ったりしません。私たち職人の言い分をすべて聞いて修理代を払ってくれます。

職人も信用されているのですが、一方で楽器を売るときの値段ついても責任を負います。日本の楽器店であれば、値段は結構自由に付けているように思います。私たちのところで売られているよりも倍以上の値段がついていることもあるようです。そのようなことをしたら保険の評価額というのが目茶苦茶になってしまいます。

私自身は保険についてはあまり詳しくありませんが、楽器の値段を専門家が査定してそれに対して掛け金をかけるわけです。安価な楽器では保証される額も低く掛け金も安いです。

日本のように店によって値段が極端に高いところがあるとなるとその辺はややこしくなります。
その値段を参考にヨーロッパで買ってきた楽器にバカ高い保険をかけてぶっ壊せば保険金をだまし取ることができてしまいます。もちろん犯罪です。



それはともかく、日本と違って大企業ほど信用されていません。
たらいまわしにされたり、はるか遠方の「サービスセンターに電話しろ」と言われ、電話しても話し中でかからなかったりまともに対応してくれないかったりするのでしょう。

その結果が私が働いているような職人の個人経営のお店が信用されるのです。
日本では個人の職人は全く信用されないで、店構えの立派な弦楽器店の営業マンの言うことは絶対的に信用されています。


品物は自分で手に取って選ぶ、取引業者も自分で経営者に直接会って選びたいのでしょう。個人経営の店が好まれるのはそのためです。それだけ大企業の現場の対応が不親切なのです。

まとめ

弦楽器にはこんな事故もあるということを知っていただきたいと思い紹介しました。実際にこのようなことが起きると大変にショックを受けるでしょう。

事前に知っていただくことで少しでも冷静に対処できればと思います。
この場合、外観からは全く分からないように修復が可能で、音響的にも悪くなることはありません。場合によっては音が良くなることすらあります。

ストラディバリの多くもこのような修理が施されています。普通のことなのです。



ヨーロッパのおもしろいところは働いている人にやさしくて消費者に厳しいところです。日本は消費者が一番で消費者に万が一なことが起きないように万全の対応を求められます。品質の管理は万全であるべきでそのための厳しい労働が科せられるのです。

あまくすればサボるのがほとんどですが、場合によっては、製造業者は自分の創造性を発揮するチャンスが与えられます。製造業者はのびのびと自らが理想と考えるものを作ることができます。

それに対してあまりにも働く人に厳しいと、欠点がないだけの製品づくりになってしまいます。品質管理のコストも消費者に課すことができないので製品価格に転嫁することもできません。かくして欠点がないだけ、素人ウケする部分だけに特化した安物が作られるのです。メーカーは消費者第一と考えて最高の製品を作ったと考えているかもしれませんが、厳しい労働で人生を楽しまず遊び心もない製造業者に魅力的な製品が作れるのでしょうか?

厳密に品質が管理された大企業の安物と、品質は甘いけど贅沢に作られた小規模メーカーの高級品というのがおおよその日本とヨーロッパの工業製品の違いということになります。

それを輸入業者は高級品であることを過剰に演出してバカ高い値段で売るというシステムになっています。
製造者が消費者の優しさに甘えてばかりのヨーロッパメーカーも腐るほどあるわけですので、何でも信じてはいけません。


魅力的な製品を買うには「働いている人には優しく、品物は自分で見定める」と言ったところでしょうか?


私は日本人ならではの品質の良さは損なわずに魅力ある製品を作りたいと考えています。
考えているからといって実現できるとは限らないのですが、楽しんで創造性を発揮していきたいと思っています。