致命的な欠点 【第8回】 ニスの欠点 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

オールドヴァイオリンならほとんどのニスが剥げ落ちていますからあまり関係ありませんが、新しい楽器ではニスの質が音に影響します。

ニスについては超基礎編で詳しく説明しましたので今回は簡単にポイントだけをおさらいしましょう。



こんにちは、ヨーロッパの弦楽器工房で働いているガリッポです。


ニスについて詳しくは過去記事を参照してください。
 http://ameblo.jp/idealtone/entry-11654140116.html


楽器に限らず西洋で数千年前から使われてきたニスは天然樹脂によって作られたものでした。
この天然ニスは製造コストと丈夫さが不足していたために、100年ほど前から戦前にかけて人工樹脂のものに切り替わってしまいました。

伝統的なニスは何千年も歴史があったのにこの100年で途絶えてしまったわけですが、日本が本格的に工業化した時にはすでに過去の技術だったために導入もされなかったでしょう。

ストラディバリは身近にあった安価な材料でニスを作ったわけですが、日本で同じようなものを作るろうとするとかなり難しくなります。

針葉樹の樹脂(松やに)は近年値上がりし入手が難しくなっています。
欧州のプロ用画材業者でも安定供給ができず、毎年のように違う材料がカタログに載っては消えています。
樹脂が変わるとその加工方法や質、粘性や色調がすべて変わってしまうのでこちらはその都度実験を山ほどしなくてはいけなくなって大変です。

工業用には劣っても楽器用に適した天然樹脂ニス

工業分野では天然樹脂を使ったニスは被膜が弱くその欠点を改良するために人工樹脂のニスが用いられるようになりました。

私も楽器以外で木工品を作ったり、工具の柄の部分を塗装するのに楽器用のニスを使うとその「弱さ」に悩まされます。
また埃や手垢が付きやすく、温度にも弱かったりします。

こんなダメダメな天然樹脂のニスですので当然ほとんど使われることはなくなり、西洋でも製法を知っている人もほとんどいなくなりました。

それが唯一残っている分野というのがおそらく弦楽器くらいじゃないでしょうか?
油彩画のプロで画材マニアみたいな人でもこのような材料をダ・ビンチの時代のように使える人は皆無でしょう。


古い技術がいまだに実用として通用しているのは、私が弦楽器製作を愛しているゆえんでもあります。
ノミやカンナやノコギリといった工具も古代ローマのころには今と同じものがあります。
電動工具やコンピュータ制御の工作機械ならずっと利益を高められるでしょうが、私は手作業で楽器を作ることを愛しています。
バンドソーやディスクサンダーなど簡単な電動工具は使っていましたが、近年はペグを取り付けるための下穴以外はすべて手動でやっています。
ペグの穴も手作業で開けられますが、これはペグ取付のクオリティを考えてやむを得ず電動のボール盤を使っています。
欧米のアンティーク工具のショップでは100年くらい前の手動式のボール盤も売っているのですが、仕組みが複雑で手が三本くらいないと無理なんじゃないかなと思います。

演奏者の方々も、電子楽器全盛の現代でも弦楽器にはそれらには出せない音や音楽があることをよく知っていらっしゃると思います。


ニスの材質と音


天然樹脂でニスを作るとそんなに丈夫なものはできません。
私は割と硬めのものを最近は使っていますが、それでも人工樹脂のニスとは比べようもありません。

人工樹脂は超基礎編で説明しましたが、100年くらい前からセルロイドのラッカーが用いられ現在ではプラスチックのアクリルのニスが使われています。

これらのものをスプレーを使って分厚く塗ってしまうと「致命的な欠点」になってしまいます。


なぜ欠点になるかというと、物質の特性によって振動しやすい音の高さが決まっているからです。
弦楽器の音色は倍音など音程以外の音が多く出るのが特徴で、フルートのような木管楽器とは対照的です。

高い倍音があまりに強く出るととても耳障りな音になります。
音響工学は専門ではありませんから、ちょっと怪しい説明になりますが、人工樹脂のような硬いニスでは嫌な音の原因となる音域の音が出やすくなってしまうと思います。

かつては、「ニスは全く塗らないのが音響的には理想だが、楽器を長持ちさせるため仕方なく塗るべきで、塗るなら振動を妨げないようにできるだけ柔らかいニスが良い。」という考えがありました。

私はおそらくそんなに単純なことではないと思います。
木材だけでは振動しにくい音域の音をニスによって補い、また必要のない音を抑える役割もあると思っています。

硬いニスがプラスチックでコーティングしたようなものだというのなら、柔らかいニスならゴムでコーティングしたようなものです。
これではダンピングされてしまい倍音が弱すぎて鈍いもやっとした音になってしまいます。

私も以前は柔らかめのニスを使っていてこのような症状が出ていました。


ただし、新しいうちは問題の柔らかいニスも作られて100年も経った楽器なら全く問題はありません。
ニスの質の差による音の違いも、100年という月日に比べれば大したものではないからです。

100年くらいたった楽器は音がかなり強くなっていることが多いので、柔らかいニスで作られた当初鈍い音でも全く問題ありません。

むしろ、完成してすぐに強い音がしていたような硬いニスの楽器では耳障りでどうしようもない楽器になってしまいます。
それを「音量がある」と評価する人もいますから好みの問題ですが、300年前の一流の名器はそんな「うるさいだけ」の音ではありません。


理屈としてはでたらめでも柔らかいニスが良いというのはあながち間違っていないことになります。

ただし、柔らかすぎるニスはケースの跡がついたり汚れが付着して掃除して汚れを取ろうとするとニスが一緒に取れてなくなっていってしまいますから製品として成り立ちません。


以上のように硬すぎる人工樹脂のニスが塗られているのは致命的な欠点と言えるでしょう。

一番大事なのは本体との相性

これまでも何度か触れてきましたが、やはり大事なのは他の部分とうまく合っていることです。

もともと楽器の木材部分が耳障りな音の楽器に硬いニスを塗ればさらに耳障りになりますし、柔らかい鈍い音の楽器に柔らかいニスを塗ればさらに鈍い音になってしまいます。

したがって理想的なニスはなく、作者は自分でニスは作るべきだと思います。



私の考え方は、2通りのやり方を試して良いほうを自分の作風として採用していくということを何度も繰り返していくことで自分の目指す音に近づいていくことができると思っています。

ここで大事なのは、新しく取り組んだほうを甘く評価しないことです。
それではオカルトになってしまいます。


この考えは賢明な人には納得していただけると思いますが、職人でこれをやるのは本当にまれなことです。

職人に限らず何かと「常識が・・」「常識は・・・」と常識という言葉を口にする人がいます。
このような常識主義者は自分がはじめて教わった方法がこの宇宙で永遠に絶対に正しい常識としてそれ以外の方法を一切認めようとしません。
初めて教わったのがたまたまいくつかあるうちのその方法だったのにすぎなのにです。


進歩させるためには、何回も試行錯誤をして失敗をたくさん出してそしてようやく良いやり方が見つかるわけです。

しかし、常識主義者は正しいと信じている方法以外の試みをたった一度でもすることを許しません。
自分が知っている方法が「絶対に最高」だと思いたいからです。


このような先輩や師匠がほとんどで、私も苦労してきました。
さすがに、今では音や美観の改善や生産性の改善の結果によって認めてもらえるようになりましたが、今思えば本当に首を覚悟で目茶苦茶なことをやっていました。

これによって先輩や師匠の考え方も随分と変わりました。


ほんとうに頑固で厳格な師匠だったら、破門されていたか、こっちが自分を騙す生き方を身に付けていたかどちらかでしょう。
幸運にもいい加減な師匠だったので私の場合は助かりました。
(厳格に指導して根性を叩き直してようやく一人前になる人のほうが多いので教育法としては間違っているとは言えません)


一般人からすれば「めんどくさい人」と思うかもしれませんが職人というのは師匠に教わったやり方に誇りとプライド、人生観、人格のすべてを込めているので、それ否定されると耐えられません。
自分がやっている作り方は「正しいに違いない」と信じています。
正しいやり方しか決してやろうとしません。


私は「正しいか間違っているかよくわからない」と宙ぶらりんの状態にこそわくわくする楽しさを感じます。
試行も回数が増えるごとに新たな良いやり方を発見することがめったに起きなくなります。
進歩の速度が落ちるので、より失敗を進んでやらなくてはいけません。


「じゃあ柔らかいニスと硬いニスの両方を試してみれば?」
こんなのも職人にとっては、イスラム教徒がキリスト教に改宗するくらい難しいことなんです。


また、もともとヨーロッパでは職人は技能職として教育されてきたので、研究開発のようなことを教えることができる指導者も少ないのです。
私は大学を出てから職人の修業しましたが、大学を出てから職人になるなんてヨーロッパでは考えられません。


人は20歳くらいの頃に人生の理想のようなものを描いたらそれ以上の理想を描くことはできないのではないかと思います。
私も学生時代から何かを改良して高いクオリティのものを作るのが人生の理想だと思っていました。
そこで美しさにひかれていた弦楽器を製作するのがふさわしいと思ってこの道を志しました。


この年代の時に、師匠に叩き込まれてしまうとそこで頭が固まって常識主義者が育ってしまうのかなと思います。


話がそれましたが、硬すぎる人工樹脂のニスが分厚く塗ってあるのは致命的な欠点となりえます。
耳元では強い音に感じられるので、「いい音」と評価する人もいるかもしれませんが、たくさんの楽器を聞いている者からするとカップラーメン的な意味での「いい音」にすぎないと思います。
非力な演奏者には心強くても、特に力のある演奏者が弾いているのを聞いていると音の硬さが演奏の幅を制限して頭打ちにしているように感じます。

もちろん私の考えには反対でこのような硬いニスの楽器の音が好きだという人はとても安い値段でいくらでも市場にありますから選び放題ですので自信を持ってご購入ください。


次回はちょうどビオラのニスを塗り終えたところなので、私の個人的なこだわりについて紹介しましょうかね?

そのあと、「致命的な欠点」のシリーズを再開して、今度は気にしなくていいことを解説していきます。
これも本当に重要なことで、熱心に勉強をしているのに間違ってばかりになってしまうのは、どうでもいいことを気にして頭がいっぱいになって大事なことがおろそかになってしまうからです。


物の良し悪しについて理解するセンスのない人というのは、どうでもいいいらない知識ばかり集めていて、何も知らない人よりたちが悪いです。
そうならないようにこれからも続けて読んでいただけると弦楽器への理解を高められると思います。