不況になると口紅が売れる -37ページ目

不況になると口紅が売れる

~遊びゴコロで、世界を救おう!~

⑥「見立て」その2


「見立て」の精神は、今日なお生きています。


例えば、バーチャルアイドルなんかはその典型ともいえます。
「初音ミクのコンサート」というのも、現代的な見立ての一種でしょう。
これは神が降臨した(という設定の)場に集まり、祭を決行するようなものです。
実在する「何か」がなくても、人は萌えることができるわけです。
ロラン・バルトの指摘した「表徴の帝国」にも通じるものがあります。


ただ、非在の2次元アイドルを仮設して楽しむ風習(?)は、いまに始まったことでもありません。
「超時空要塞マクロス」に登場した「リン・ミンメイ」、
ホリプロのバーチャルタレント「伊達杏子」、
伊集院光がプロデュースした「芳賀ゆい」、
AKB48の「江口愛美」などなどです。


しかも、ローソンクルーのバーチャルアルバイト「あきこちゃん」、
NTT東日本やイケアのバーチャル受付嬢なんかも含めて、
コーポレートコミュニケーションにも「見立て」は使用されています。
ちなみに、バーチャル受付嬢はパイオニアで開発され、製品化されていますね。


しかしまあ、極めつけは「ラブプラス」ですか。
限定クリスマスケーキが都内3店舗で発売されたときは、開店前に行列ができて即完売、
熱心なファンは、早朝4時から並んでいたということです。
ちなみに「ラブプラス」とは、女子高生3人の「カノジョ」と恋人気分が味わえる
ニンテンドーDS用ゲームソフト(09年にコナミデジタルエンタテインメントから発売)です。


擬人化大好き、という特性もあります。
擬人化そのものは、古代ギリシアの比喩の手法からあるとのことですが、
日本でも、八百万の神々や妖怪、付喪神(つくもがみ)などの擬人化伝統があります。
さらには、自然現象やら都道府県やら乗り物やら大学やらブランドやら、
あらゆる対象を擬人化したイラストがpixivなんかに投稿されている現状については、
いまさらここで語るまでもないほど、花盛りといえます。


自治体のゆるキャラがいま全盛ですが、これらもまた、
地域の産物や特長をキャラクターに見立てたものと位置づけることができます。


今日、代替現実ゲーム(ARG=Alternative Reality Game)やOtoOマーケティングなど、
バーチャルリアリティを積極的に活用して現実生活を豊かにしようといった試みが
生まれてきています。


リアルを尊ぶのも大事ですが、虚構を楽しむという姿勢は、
乗法的な、高度な文化技法なのだと思います。

⑥「見立て」その1


「見立て」も、よく登場する概念かと思います。


「ある物の様子から、別のものの様子を見て取ること」であり、
もっといえば「何かを、別の何かでなぞらえる方法」ということになります。


存在しないけど存在するってことにしておく、
まあ言うなれば、オトナの共同幻想の作法かと思っています。
「見立て」は人間の類推志向の本質ともつながりがある(松岡正剛)らしいので、
かなり高度な文化の技といえましょう。


日本は、いうなれば見立ての国でもあります。


神の依り代やご神木などは、そこに神が降臨した場所という設定です。
屏風は、室内に意味ある空間を見立てました。
江戸時代にやたらつくられた富士塚も、富士山に登ったことにする見立て。
落語家は、扇子一本でさまざまな見立てを披露します。
道具に神が宿るとされた付喪神(つくもがみ)なんてのもありました。
存在しないものを見出すために、別の何かを設置するテクニックですね。


聖徳太子と水戸黄門といった聖人伝説もまた、見立ての一種といえます。


石渡信一郎氏や大山誠一氏の著作で「太子不在説」の方がいまや有力になりつつありますが、
のちの国家アイデンティティの形成や官吏の統制に、聖徳太子という見立ては十分機能してきました。
あの肖像画が「どうも違うらしい」という話は、どこかでお聞きになったこともあろうかと思います。
厩皇子という実在の人物をメチャクチャ拡大解釈して生まれた古代の架空ヒーローということです。


一方、水戸光圀が全国を行脚して悪代官を懲らしめたのが「つくり話」なのは子供でも知っていますが、
お上の本質がそうあってほしいという民衆の願望を救い上げたストーリーは、
明治以降も浪曲などの影響で、広く受け入れられることになります。
水戸藩が、次期将軍候補・慶喜のイメージアップのために「漫遊記」を流布したという説もありますが、
創作にあたっては、中国や朝鮮の隠密官吏や貴種流離譚をモデルにしているようです。


つまりは、実在の人物をモデルとした架空の聖人なわけです。
ただ、こうした聖人たちがいたかいなかったかを議論するよりも、
「いたってことにしようや」とする精神の方が高等な感じがするのは、私だけでしょうか。

⑤「むすび」 その3


今日、「カスタマーイノベーション」に期待が集まっています。
ヘビーユーザーの知恵を組織化し、商品の改善や開発に繋げるために、
ソーシャルネットワークはお誂え向きのツールといえます。


自社サイトで既存製品の用途開発のアイデアを公募したり、
SNSのコミュニティを使った商品開発プロジェクトを行ったりと、
いくつかの企業はすでにこうした試みを本格化しつつあります。


しかし問題は、顧客コミュニティと企業との距離感にあるようです。
多くのヘビーカスタマーにとっては、
自分の発想が商品の使い勝手の改善などに役立てば大変嬉しいし、
アイデアを無償で出すことにためらいはないものの、
その結果が「企業側の売上アップ」では虚しい…
というか、「話が違うだろう」ということになるでしょう。


知と利益とを還元すべき対象は企業側にではなく、市場側にあります。
もっというと、「ユーザー会」的な組織が利益を得る形をとるべきなのです。



原田保氏(多摩大学大学院教授)によると、
顧客コミュニティに対してマーケッターがダイレクトで強固な関係を構築するのではなく、
むしろ第三者的な場(イノベーション・エージェント)を構築し、
企業(マーケッター)は、そこを支援する方法が有効ということです(「カスタマーマイニング」)。
よって、有力顧客を見極め、その場に誘引することが、第一次のマーケティング目標になります。


やれブランドロイアルティだ、やれエンゲージメントだのと騒がれ、
顧客との(ほぼ一時的な)強い繋がりをつくる手法がマーケティングであるとする向きもいまだにありますが、
実は顧客間、そして企業と顧客コミュニティとの間の「弱いつながり」づくりが大事で、
それを地道に支援していく姿勢が「カスタマーイノベーション」の基盤なのでしょう。



「社中」という言葉があります。
ひとりの家元がいて、その弟子筋にあたる人々の集まりをそう呼びます。
同好会、同志会、勉強会…のような意味合いです。
大学のゼミ(学生が自発的な勉強するタイプの、ですが)みたいなものですね。


「社中」は、相互の学習関係を生み出す場であり、教師が直接教育する場=「教室」ではありません。
しかし、教師は社中を陰からそっと支援しなければならない。
顧客組織が活性化するためには、この「社中」のような「むすび」の関係を創り上げることです。

まあ、顧客の自由演技を優しく見守る勇気…ってことでしょうかね。

⑤「むすび」 その2


日本には「ひとりひとりは弱い力でも、合体すれば強い」という物語がたくさんあります。
「七人の侍」しかり「戦隊ヒーロー」しかり「セーラームーン」しかり…。
AKB48もひとりひとりはそれほどのアイドルとは思えませんが、
あれだけ集まると、別次元のオーラを醸し出すわけです。


弱い力を繋げることで、高次元の価値を生むのが「むすび」の力です。
これもまた「創発」ですね。


特に「講」は、「むすび」を体現した日本独特の経済システムといえるでしょう。
講にもさまざまな種類がありました。
なかでも「五常講」は、二宮尊徳が小田原藩で創始した(1814)仕組みとして名高いものです。
講のメンバーの貧者に対して、無利子・無担保(但し返済時には冥加米を支払う)でお金を貸し出します。
しかし、もし不払いになったら、共同責任として組合員が負担するわけです。
これは裏返すと、「仲間に迷惑をかけないために、借り手が勤勉に働いて返すこと」につながります。
単なる融資制度というよりも、領民の経済的社会的な自立心を育成したわけです。
「五常」とは、「仁義礼智信」の五徳の日常的実践を指します。
また、余裕のある人が他のメンバーに融資することで、皆が幸せになることを「推譲」と呼びました。
やっぱ、二宮金次郎は偉かったんですねぇ。


これで思い出すのは、ノーベル平和賞を受賞した、
バングラデシュ「グラミン銀行」の無担保少額融資(マイクロクレジット)ですね。
これも、農村部の女性たちの経済的社会的自立を促すことに主眼が置かれていました。



さて、「むすび」の今日的な意味とは…ソーシャル・ネットワークということになるでしょうか。
SNSは、クラウドソーシング(集合知)の基盤にもなりえますが、
しかし、何でもんかんでも単につながればいいってもんじゃない。
結びつけ方、結びつき方をもう少し考えるべき時期に入っているような気がします。


⑤「むすび」 その1


現代でも「結び」という言葉は、それなりに機能しています。
単なる「つながり」以上の何か、を感じさせる言葉です。


もともと「むすび」には、
「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働き」
あるいは、
「ある形のものが集まって、全く違った形に固まること」
といった意味合いがあるようです。


「生(む)す」「蒸(む)す」という言葉からもわかるように、

何かが組み合わされて新たなものが生じるパワフルさを感じさせる概念です。
単なるネットワークとか、つなぐとか、絆とかではなく

「結びつけ方」の工夫が価値を生むということですね。


それで思い出すのが「連歌」という方法です。
これは、複数の人が一堂に会して定型詩を連ねていく俳諧の手法で、

松尾芭蕉も好んだ集団創作イベントです。
特に日本の中世においては、盛んに行なわれたとされています。
最初に席主が「五七五」の句を詠み、

そのあとの「七七」を別の人が連ねるといった形がとられます。
前の句を解釈しながら、自分なりの創意を加味していき、

それでいて全体の流れも重視するのが流儀というわけです。


「市中は物のにほひや夏の月」(席主)
→「あつしあつしあつしと門門の声」
→「二番草取りも果さず穂に出でて」
→「灰うちたたくうるめ一枚」…
といったように、物語世界がどんどん展開していく面白さがあります。


参加者は、読者であると同時に批評家であり、

作者であるというスリリングな立場に晒されます。

連歌では、個々の「小さな発話」が集まることによって、

大きな別世界の作品をつくりあげることになります。
芭蕉のような大御所でも、自分の発想と異なる世界が展開していくことに、

面白味を覚えていたのだと思います。


連歌は、遊びの要素を採り入れた集団的文芸創作の手法ですが、

結果的に最終作品が面白くなるかならないかは、

「結びつけ方」の巧拙に左右されたのではないでしょうか。
ルール、主催者、席主の題詠のセンス、場の雰囲気…等々、

プロデューサーの手腕が求められたはずです。


「むすび」の文化力は、こんなところにあるようです。