「グレートジャパン」と「スモールジャパン」を比較した図は、こんな感じだった。
真ん中の「白枠」概念の新解釈が「黄色枠」である。
スモールジャパンは、「新しいもの」をどこからか持ってくるのではなく、
「既にあるもの」を別の視点から捉え直すところに楽しみを見出すような側面がある。
かつて「アメリカではこんな面白いものがあるよ」とか、
「いま、若い人たちの間ではこんなものが流行ってる」
といった、新しい文化をどこかから「持ってくる」タイプの人たちがいた。
大橋巨泉なんかは、その典型である。
広告代理店の連中もそういう考え方が正しいと信じ込んでいた
(いまだにそういうおっさんはいるが…)。
アンテナとか、情報量の多さ、人脈の豊富さ…なんかが、
新しい面白さ(トレンド)を発見するためのバックボーンであった。
1980年代までは雑誌のつくりも大抵そうだったし、
テレビもファッションも、学問の世界だって同じようなもんである。
翻訳者が偉かった時代。
高度成長期までは、ある程度これがまかり通ったのだ。
しかしいつの頃からか、「持ってくる」文化よりも、
いままでそこにあった既存のものの面白さを「見出す」文化に傾き始める。
あえて高い買い物して新しいものを輸入するのではなく、
身の回りにあるものを異なる視点で眺めることで楽しもう、
とする風潮が現れてきたのである。
「見出す文化」の一例を挙げると、こんな感じになる。
地域社会への見直し
コンテンツのリメイク
二次創作やパロディ文化
商品の新用途の開発(創発的消費)
自力デザイン(デコ)
街歩き
ファミリーヒストリー
身の回りのヒーロー
…
これを単に低成長時代のたしなみとして片づけるのは簡単だ。
しかし、黄枠の世界では「低成長」という言葉自体が無効なのである。
「変わんねえなあ」(天野アキ)が褒め言葉になる世界がステキ、
ということなのだ。
むろん、その根っこは昔からあることはあった(「超芸術トマソン」とか)。
ただ、これらを定着させたのは「タモリの笑い」ではないかと思う。
例えばタモリは「坂道」「中国のニュース」「牧師の日本語」「歌詞の聞き間違え」…
などが面白いことを教えてくれた。
巨泉がタモリを絶賛したのは、自分にはない才能、
目の前にある何でもないモノに面白さを見出す才能に愕然としたからではないか。
「持ってくる派」がガキだとすれば、「見い出す派」はオトナ。
見い出す文化は、内向きで低成長時代のたしなみという面はあるが、
一方で高度で成熟した知性のあり方ともいえる。
遣唐使から国風文化に転換した1000年前の状況と照らし合わせて考えてもいいだろう。
ちょっと大袈裟だけど…。
真の意味で「文化の時代」は、これからなのだと思う。






