詰将棋作家が活躍する小説×2 | 不況になると口紅が売れる

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年末年始はインフルエンザの毒牙にかかり、ほぼ何もできず。
後遺症?もあって、2週間使い物にならなかった。
ホントに貧乏性そのものである。

で何をしたかというと、詰将棋作家が主人公という小説を2冊読んだ。
いずれも少し前の本だが、小学館文庫の書き下ろしである。

まずはこれ。
鳴海風(2007)「美しき魔法陣」(小学館)

江戸時代の天才曲詰作家・久留島喜内が、磐城平藩を乗っ取ろうとする悪徳数学者と対決する、という話。
本書では詰将棋作家というよりも、江戸の三大和算家・久留島義太(よしひろ)として描かれている。
最後、ひらめきを失った喜内が浴びるように酒を飲んで復活するというのは…、ちょっとマンガっぽいオチだけど、途中までの組み立てと作者の筆力はなかなかよくて、一気に読めた。
最後の「詰め」の部分にどんでん返しが欲しかった…かな?
しかし、脇役であの伊野辺看斎(「将棋手段草」の作者といわれる)も出てくるのは嬉しい。
喜内に元気がないので、宗看・看寿兄弟に会わせようということになったが、あまりの才能の違いに逆に落ち込むというシーンがあった(サービスカット!!)。
しかしむしろ、本家家元が当時の民間詰将棋作家の活躍にインスパイアされて、最高峰の作品創作を目指した、というのが実態ではないかと思う。
なぜなら、元禄8(1695)年から宝暦2(1752)年までの58年間で、民間棋士たちによる詰将棋作品集が8冊も刊行されている。
中でも伊野辺看斎は「飛先飛歩」「銀鋸」などのテーマ性を持った現代的な作品を遺しているし、添田宗太夫に至っては伊藤宗印「将棋勇略」のゴーストライターであったというのが定説だ。
この出会いは完全に創作のシーンだけど、もし私が描くとするなら、久留島喜内の曲詰作品の持つ自由奔放さに感激し、「兄さん、私たちももっと凄い詰物をつくりましょう!」と弟の看寿が叫ぶ、とかいうシーンにしたと思う。
ところで作者の鳴海風氏は、なんとデンソーのエンジニアだったんですね。
あの「電王手くん」開発に、鳴海さんも関係しているのかな?


次はこれ。
湯川博士(2006)「大江戸将棋所 伊藤宗印伝」(小学館)

5世名人・伊藤宗印の一代記である。
宗印は名人、詰将棋作家であるとともに、江戸時代の将棋家元の中興の祖として知られている。
伊藤家は、将棋家元であるが分家であり、しかも宗印は養子である。
若年期においては大橋家から不当に扱われ、実力がありながらも昇段が許されなかった。
初代・大橋宗桂から約100年。時は元禄、将棋は武家から庶民まで、大流行していた。
この時代の空気感を捉えた宗印は、伊藤家のみならず、大橋家をも立て直すために奔走する。
長男の印達を、無為な争い将棋で亡くしたのは本当に残念であったと思うが、その弟たちが実に優秀だった。
印寿(のちの宗看)、助左衛門(のちの看恕)、政福(のちの看寿)の三兄弟である。
このうち、宗看「将棋無双」と看寿「将棋図巧」は有名だが、これらは兄弟、門人たちが協力して創った共同作品だったというのがいまや通説?である。
御城将棋も指さなかったくせに、なぜか七段まで賜った真ん中の看恕こそが「逆算」の始祖ではないか(つまり詰将棋創作の功を評価された)、という説もある。
いずれにせよ、レンブラント工房的な詰将棋共同創作のシステムをつくったのは、宗印だったのではないか、と思う。


江戸時代の始祖・大橋宗桂が将棋所をつくって以降、頑張ったのはむしろ「分家」であり、「養子」であった。
さらにいうと、将棋の対局そのものよりも、詰将棋献上というシステムこそが、家元の権威を支え、知的遊戯としての奥深さを暗示することにつながった。
そしてその詰将棋のレベルを大幅に上げたのは、実は本家・家元ではなく、在野の天才作家たちである。
傍流・亜流の自由奔放な発想が奔流に刺激を与え、最終的には神局「無双」「図巧」に結集した…というのは言い過ぎだろうか?





インフルさんのおかげで(ではなく老化のせい?)解けない、創れない…ので、今日は「読む」詰将棋のお話でした。