文学は制度で、物語は体質。
文学は表現形式で、物語は構造。
文学は流行で、物語は不易。
まあ、どちらが偉いわけでもない。
役割が違うだけだ。
見てくれが似ているので混同されるが、別物だと位置づければいい。
ただ、昨今は文学が自らの延命のためだけに「新商品」を開発し、
世に送り出すという風潮が、より強まってきているように映る。
文学賞を山ほどつくり、「異彩」か「鬼才」の新人を最低でも年に2人は、送り出す。
そこで、プロモーションをかけ、瞬間風速的な売れ筋を作り出そうとする。
これはもう、発泡酒や、カップラーメンの商品開発と、あまり変わらない。
しかし、こうしたビジネスモデルは徐々に機能しなくなってくるのではないか?
芥川賞受賞作家がロングセラーにならないのは、
プロとして書き続けられる資質がないからだと言われているが、
そもそも、こうした瞬間風速的なヒットが前提となっているビジネスモデルの中の受賞なので、
仕方のない結果ではある。
では、文学はもうダメなのか?
…などという問いに答えるだけの立場も見識もないが、
文学のひとつの可能性は、
読者ひとりひとりが紡ぎだす「物語」のプラットホームになる可能性はある、
という点ではないか。
えげつない言い方をすると、
素人がブログやケータイ小説を書き出すためのモチーフや世界観を提供できるということ。
つまり、「物語」の素材屋さんである。
「プロのひとつの文学作品→無数の素人の物語」
…という仕組みを意識してつくる。
村上春樹の習作で、 大崎善生が作品を書くようなものだ。
作品は読書によって完結せずに、読者の心の中で新たな運動が生まれるようにしていく。
ただし、昨今の読者はそんな訓練ができていないので、
そのためのサポートシステムが必要になってきたりもするのだが。