小沢一郎=アテルイ説 | 不況になると口紅が売れる

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 小沢一郎という人は、要するにアテルイ になりたいのではないか、と思う。


 アテルイとは、坂上田村麻呂に敗れた蝦夷の指導者で、結局京に連れて行かれて処刑されたが、朝廷軍を何度も撃退させ、その戦いぶりは近年、さらに評価されてきている。そのアテルイが守り抜こうとしたのが、現在の岩手県、つまりは小沢の故郷である。

 私は日本の現代政治にはまるで造詣がなく、以下は単なる感想なのだが、小沢一郎の軌跡を見る限り、政党政治というものを脱構築しようとしているとしか思えないのである。政党を離脱し、立ち上げ、破壊し、再構成することを通じて、政党政治の無意味さ、無根拠さを提示しようとしているようだ。

 政党政治とは、要するに「数」の論理、それも「メジャーな意見であれば、どんなものであれ、それが正しい」という思想(それを民主主義とも呼ぶが)に支えられたシステムである。それはそれでよい。しかし、問題もある。微妙な意見の違いが圧殺されるという点である。

政策レベルでは、個々の政治家がそれぞれ違う意見を持っていていいはずで、国民も個々の政策レベルで評価・投票したいはずだ。しかし、そうした微妙な差異を捨象して政党単位で結束せよ、政党単位で評価せよ、とするのが現代の政党政治ってやつだ。それゆえに、政党や政治家レベルの好き嫌いで、選挙結果が左右される。羽田政権が復縁を求めてきたときに「烏合の衆」になるのを拒否したのは、数が多けりゃそれでいいとする政党政治の姿勢を否定する小沢ならではのエピソードであろう。

 こうした「みんながそう言ってるんだから、お前もそうしろよ」的な押しつけを、小沢は本能的・体質的に好まないのではないだろうか?なぜなら蝦夷や東北は、この国の「みんな」という名の押しつけに、1200年間耐えてきたからである。

 

 トップになろうとすればなれたのに、頑なにそれを拒否する。正攻法で戦うこともできるのに、なぜか相手を幻惑させるような奇策に走る。数のパワーで突っ走る小泉・安倍政権とは真っ向から対立する。そして今回のように、民主党のガキどもが「数の論理」に依存してモノを語りはじめたときに、民主党の根幹を揺るがすようなことを平気で行う。


 1200年間の敗者の歴史を体現しようとする男こそ、小沢一郎なのかも知れない。

 私は、特段小沢が好きなわけではないし、民主党がどうなろうと知ったことではないが、少なくとも「みんなの意見」を押しつけてくるような学級委員たちよりは、小沢のやり方のほうを支持したいと思う。