七瀬は坂道に足を向けた。歩みにあわせて両側の風景がゆっくりと展開し始める。目の前に生まれてくる風景は昔と同じではなかったが、それでも時折、古い時間の名残を見つけると、その風景全体があるやさしさをもって記憶のフレームに重なってきた。新しい戸建てや集合住宅が目について、時間の流れを感じさせたが、坂道の勾配と見えかくれする木々の緑だけは、当時と変らぬ姿で立ち現れてきた。
水滴が頬を伝った。彼は空を見上げた。雨が空の中心から広がりながら落ちてきた。それが髪や肩や靴先を濡らしていった。いろんなものに当たって音のするような雨ではない。ただ静かに、家々を電柱を舗道の木々を煙らせていった。商店がない住宅街の道を歩く人の姿はなかった。目の前には上り坂が、昔、歩いていたその道が続いていた。雨に湿った風景の中から匂いが立ち上がってきた。それはこの街の匂い、あの頃の匂いだった。
坂道は途中で細い道へと枝分かれしながら、その先々にさらに別の住宅地を形作っていた。そんな曲がり角に近づくたびに、ブロック塀や垣根の裏側にまできているその存在に気づいた。やわらかに降り続く雨は、街の音を消し、舗道の脇の土の匂いや、木々や植物の匂いを温めながら上空に昇らせていく。
彼は湿ったジャケットを脱いだ。そして雨に煙る坂道を見上げた。しかし、灰色の空と路面を分ける境界線に立つ人影はなかった。道はまた平坦になり、それから少し下り坂になった。そして最後の坂道を上がりきった高台にそのアパートはあるはずだった。彼はまた歩きだした。道は途中から緩やかに曲がりながら、その先の風景を隠している。
彼は足を止めた。アパートが建っていた場所に出たのだ。しかし、そこにもう、その姿はなかった。同じ配置で二階建ての白い集合住宅が建っていた。ただ、道を挟んだ崖側のガードレールの外には雑草に根本を隠された木立が昔のまま残っていた。静かな雨が木々の梢を濡らし、緑のあいだに崖下の風景がかすんでいる。
彼はその白い建物の前に立った。そして昔、自分の窓が空間に開いていたはずの二階のその部屋を眺めた。窓ガラスに映る灰色の影が人のかたちになって七瀬を見つめていた。その影は少しも動かない。ただガラスを流れる水滴が小さく弱い光のさざ波を冷ややかな表面に描いていた。
七瀬はゆっくりと目を閉じた。もうそれが誰であるのかはっきりとわかっていた。からだから少しずつ雨滴が遠のいていった。空には光が生まれようとしていた。
遠いデザインとは、遺伝子の設計図のこと。
14年前の2001年が舞台。
中年男が若い女性に憧れる、よくあるテーマの小説。
この歳になると。そんなことしか書けませんので…。
地域の産業支援を本格的にやりだしてから、
コピーを前みたいに書けなくなったので、
その手慰みのつもりで書いています。