こんばんは。ipocoです。
お盆の帰省ラッシュが始まりましたね。夏休みのみなさん、道中は気をつけて、思い切り楽しんで来てくださいね。
私は一足お先に夏休みを済ませたので、ガラガラになった東京でお気楽に通勤しながらみなさんの帰りを待つことにします。
さて、本日は8月15日の終戦の日を前に、3年前に亡くなったipocoのおばあちゃんのお話をしようと思います。
ipocoのおばあちゃんという人は、
戦時中にはまだ赤ちゃんだったipo父を背負って東京の空襲の中を逃げ回ったり、山梨あたりまで知り合いを頼って疎開したり、戦後は焼け野原の中で闇市を巡ったりと、終戦記念日ドラマのような大変な苦労をした人でした。
空襲のときには家のそばに焼夷弾が落ちたりして、何度も防空壕に逃げ込んだり、皇居付近まで逃げて夜明かしをしたり、通りがかりの兵隊に保護されたこともあったそうです。
今では東京はすっかりビルだらけで隣の駅すら見えませんが、焼け野原だった当時は上野のお山(西郷どんの足元辺り)に登ると永田町の国会議事堂が見えたとか。
ちなみに西郷さんから議事堂までをgoogleマップで眺めると直線で約6キロ、歩くと1.5時間ほどですから、いかに「何もかも焼けてしまっていた」のか、わかる気がします。
また、隅田川沿いでは空襲で焼かれ、川へ飛び込んだりして亡くなった方が長期間放置されたままになっていることが度々あったと言います。偶然通りかかった当時のおばあちゃんとそのお兄さんは、持ち合わせの線香を一本、半分に折って分け、見知らぬ方の遺体に供えたこともあったそうです。
映画などでも時々、戦後のインフレの話が出てきますが、政府が新しい通貨に切り替えるために「預金封鎖」と言って、銀行のお金が自由に下ろせなくなった話もしてくれました。新しい通貨に切り替えるための政策だったということですが…現代人の私たちも、もし「夏目さんも樋口さんも諭吉さんも、今日から無効です!なし!」と言われたら、相当ビビりますよね。当時も、大混乱だったそうです。
これはipocoのおばあちゃんが話してくれた戦中・戦後の様子のほんの一部なのですが、それはまるで色のついた映画のような、生きた話としてipocoに引き継がれました。
おばあちゃんには同じように可愛がってくれた孫たちが私の他に5人もいましたが、なぜかipocoにばかり戦争のときの大変だった話を一生懸命してくれたのでした。
その理由はよく分かりませんが、ipocoとおばあちゃんは体型からして小柄でやせっぽっちで外見がそっくりだったので、もしかしたら若い日の自分を重ねていたのかも知れません。
先日、テレビで戦争の特集番組をやっていまして、湾岸戦争の話が出てきました。
当時ipocoは中学生で、連日テレビ報道で空爆の様子を見ていました。アメリカをはじめとする多国籍軍は夜通しイラクを攻撃し、ミサイルの飛ぶ緑の光が夜の空に激しく光り続けていたあの映像を、今でもはっきりと思い出せます。
あの先には、あの空の下には、私のような沢山の子供達や、お父さんや、お母さんたちが暮らしているんだ。
そうして、何もかも焼かれてしまうんだ。当時の私はそう思いました。
そうして昨日、テレビで再びあの映像を見て、私は空襲から逃げ惑い、生き延びたおばあちゃんのことを思い出しました。
ipocoのおばあちゃんは、90歳で亡くなりました。終戦から長い年月が過ぎ、だんだん、おばあちゃんのような戦争の経験をした人が、高齢になって亡くなって行きます。
住む場所や、大事なものや、大事な人を焼かれる恐ろしさを、実際には知らない人達の世代になってきたのです。
わたしは時々、
それが心の底から恐ろしいのです。
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