2011年3月11日
私は東京の築地で被災した。
2回目の地震の際に壁が軋む音がして「あ、死ぬかも」と本気で思い、「妻子に会えずに死んでたまるか」と我に返った後、ビルの外に出た。いろんなビルから人が通りに出てきていた。
そうだ、近くの学校に避難することになっているのだ!と、会社のみんなで学校に向かうも、溢れかえる近くの会社から避難してきた人の数を見て諦めた。
子供たちが校舎から出れない程、人でごった返してたのだ。避難する会社員たちは皆んなでヘルメットを被り2列歩行するところもあれば、バラバラ避難する人たちもいた。会社の日頃の訓練の差がはっきり出ていた。
学校を勝手に去り、「これから暫くは暖かいものが食べられないかも」と、近くの牛丼屋に押し入り(停電していたので正にドアをこじ開けて入った)腹も減ってないのに牛丼を食べた。店員さんとこの先どうなるんだろうね?なんて取り留めない話をして。
会社の役員車庫にあった電話から横浜にかけたけど通じず、九州ならと電話したら通じたので、本部は建物も人も無事だと伝えた。
その後またふらふら街を歩いてきた。何をどうしていいか分からなかったから歩くしか思いつかなかった。
携帯が通じないので、公衆電話に並んでやっとの思いで無事を妻に伝えたら「何のこと?」と言われて脱力してテレビをつけてみればわかると話し、暫くすると驚いた声で大丈夫か?と聞かれた。2度目の脱力を感じて気が楽になった。
その夜は横浜に帰れず、会社に泊まった。会社でテレビを見て言葉を失った。マジでどうなるのか?と思った。
夜中に地下鉄が動いたので、暇だから銀座四丁目から新橋、その後地下鉄に乗って六本木やらを歩いてみた。沢山のサラリーマンが大宴会していて世紀末はこんなふうになるのだろうか?とおどりゃなソンソン♪的な切ない感じになった。
翌日からしばらく経つとスーパーマーケットから食べ物が消えた。
電車はダイヤという概念がなくなり来たのに乗るだけ。押し合いへし合いだけど、皆んなが互いに気を使う感じで妙な連帯感があったりした。知らない人と「お互い大変ですけど頑張りましょう」なんて言葉を交わすこともあった。
311のあと、何度も聞かされた緊急地震速報のチャイムは本当にトラウマになった。ギターであのチャイムコピーして克服したつもりになってたけど、今改めて本物を聞くとやっぱり胸が痛むし気持ちが塞ぐ。トラウマは続いている。
今、あの時に不自由した全てが、当たり前に手に入る暮らしている。時々、あの時の経験は何だったんだろうと思い出すけど、特別に意味を持たないようにしている。でも確かに圧倒的な何かを感じた経験だった。
犠牲になった全ての人に、そして今も苦しむ全ての人に心の平安を祈ります。