こんばんわ

前回の更新からちょっと空いてしまいました、申し訳ない><

今回は、言うまでもないくらい有名なスティーブ・ジョブズ氏のお話第1弾。

では、どうぞ。

【生い立ち】
1955年2月、ポール・ジョブズとクララ・ジョブズは孤児を引き取った。名前はスティーブン・ジョブズ。育ったところはカリフォルニア州ロスアルトスだ。

 学校を卒業すると、ジョブズはヒューレット・パッカード社で行われていた講習を受ける。カリフォルニア大学を中退したスティーブン・ウォズニアックに初めて会ったのは、ヒューレット・パッカードで仕事をしていたある夏の日だった。ウォズニアックは技術のわかる神童で、絶えずいろいろなおもちゃを発明していた。

 再びウォズニアックに出会ったのは、「自作コンピュータクラブ」の集会に出席したときだった。クラブの会員のほとんどはコンピュータおたくで、ダイオード、トランジスタ、そしてこれらを材料にしてつくった電子機器のおもちゃ以外には目もくれなかった。ジョブズは彼らと違い、コンピュータのスタイル、使い勝手、市場性に対する確かな目があった。ジョブズはウォズニアックに対して、2人で協力してPCをつくり上げようと説得する。アップルIの設計はジョブズの寝室、プロトタイプの組み立てはガレージだった。

to be continued

今回はちょっくら短めですがお許しをw

次回は、part.2 【成功への階段】です。

でわ
こんばんわ

前回の続き、part.3を書いていきます。

【転機と決断】
ソフトバンクの初期のころは孫にとってつらい時期だった。設立当初、重度の肝炎にかかり何年間も悩まされ続けた。しかし、初期の症状から回復すると、改めてビジネスに対する人一倍の情熱を発揮した。それは1994年のことで、ちょうど新たな通信の潮流が現れてきていたところだった。マイクロチップが産業界に変革をもたらすことを理解したときと同じように、インターネットが人々の生活の奥深いところにまで影響を及ぼすだろうということに気がついた。

 もう一度アメリカに出かけると、今度はその天分を発揮してバイ・ドットコム、E*トレード、Eローン、ウェブバンなど設立間もないインターネット企業に分散投資をした。その中の1社にヤフーという名のインターネット関連会社がある。その株式の30%を1億ドルで買い入れた。狙い通りか偶然かはともかく、孫はこれでインターネットの大当たり株を引き当てることになった。ヤフーは1996年に株式の公開を果たす。

 インターネットが出現する以前に買収していた企業のいくつかを手放し、孫はその経営をインターネットの世界に集中した。シスコとインテルで働いた経験のあるゲリー・リーシェルを招き、ソフトバンクの新たなベンチャーキャピタル部門、ソフトバンク・テクノロジー社の経営を任せることにした。投資形態はリミティッド・パートナーシップファンドで、カリフォルニア州サンノゼから運用が行われている。このソフトバンク・テクノロジーは最初のファンドの募集で日本から1億7000万ドルを調達した。

1999年の終わりが近づくにつれ、孫はその目を日本に向けるようになる。ソフトバンクの日本のマーケット進出にあたって、アメリカで採用したものとは違う手法を取った。いくつもの企業の株を過半数買収したり創業当初から育てたりすることによって、垂直的に統合されたインターネットの巨人を生み出した。日本のeコマースがアメリカに遅れをとっていた状況を逆に利用して、日本のインターネット業界に確固とした地位を築いた。孫の計画が成功したカギはヤフージャパン株の過半数を買い取ったことだ。

 孫は、ヤフーのポータルサイトを通じて、ネットワーク上の消費者を、ソフトバンクがその一部あるいはすべての株を持っている企業のビジネスに誘導できればよいと考えた。そうした企業には、E*トレード、ジオシティーズ、ブロードキャスト・ドットコム、カーポイントなどの日本法人もある。

 インターネットに対するこうした巨額の投資によって、孫とソフトバンクの資産がナスダックの資産と密接に連携するようになった。新たなミレニアムの始まりとともに、ソフトバンクは急降下するジェットコースターに乗せられてしまい、孫の個人資産もひどい打撃を受けた。2000年の初め、孫の個人資産は4000億ドルも減少した。その年が終わるころには、ソフトバンクの時価総額は1900億ドルから230億ドルに落ちていた。

 とはいえ、帝国を建設するという孫の大胆な野望に対する最終的な評決が下されるのはまだまだ先のことだ。ドットコム企業のバブルははじけたかもしれないが、eコマースは依然として成長を続けており、世界の経済で重要な役割を演じているからだ。孫にとっての課題は、不況下におけるソフトバンクの経営の再構築と指導力だ。1997年、100億ドル企業に育てるという目標について聞かれたとき、どこまでも大胆な夢を追いかける孫はこう答えている。

「数字そのものがゴールではない。それは単なる指標であり、マイルストーンにすぎない。私が今考えているのは300年スケールの計画だ」

 孫がまだ当分の間、経営者の座にとどまるのは明らかだ。



今回で孫正義さんのお話はおしまいです。

次回の偉大な経営者は、誰もが知っている伝説の経営者。その存在感は他のどの経営者と比べても圧倒的に強く、まさに偉大。

ちなみに私が起業を目指した原点の人です笑

では。
こんばんわ。

今回からタイトルの付け方変えました。

では、孫正義さんのお話part.2です!

【成功への階段】
大学在学中から、孫は金をつくる一番よい方法は、何かを発明することだと考えた。そのために、毎日必ず何か新しいアイデアを思いつくようにしようと心に決めた。そうして出てきたアイデアのなかに、電子手帳の原型があった。シャープが100万ドルでその電子手帳関連の特許を買い取った。これがのちに「ウィザード」(日本名ザウルス)になる。

 孫はその現金を足がかりにして次の手を打つ。それは日本から安価なビデオゲーム機を輸入することだった。ゲームはスペースインベーダーだった。その当時、アメリカではビデオゲームはまだこれからという段階だったが、孫は消費者の動向を的確に予測する。そして6か月で300台を輸入し、ゲーム機器販売のトップに躍り出た。次にこの会社を仲間の1人に譲り渡し、母との約束を果たす。その約束とは日本への帰国だった。

 1981年、自分の金と第一勧業銀行から得た融資の8万ドルを元手に、23歳の孫はソフトバンクという名のソフトウェア流通会社を設立した。これは孫の説得力の証明でもあった。若い起業家には相対的に冷たい日本の経済環境のもとで、若い孫は日本の銀行を説得して融資を引き出すことに成功した。同社はまたたく間にコンピュータサービスの巨大企業に成長する。発足後10年で従業員570人、取引先小売店1万5000、6部門を抱え関連企業5社、合弁会社5社、そして年間売上高が3億5000万ドルという企業に成長したのである。

孫はその発明志向の考え方を日本国籍を取得する場面で発揮した。当局は韓国姓のままでの日本国籍取得を認めなかった。そこで日本国籍を持つ妻の姓を合法的に孫に改名させた。そうしたうえで、当局に対して日本人の姓に「孫」が存在すると主張し、孫姓のままでの帰化を受け入れさせている。

to be continued

次回はpart.3【転機と決断】編です!

では。
こんにちわ。

今回は、世界の偉大な経営者シリーズ2人目として日本で知らない人はいないんじゃないかって暗い有名な方、孫正義さんのお話を書いていきます。

【part.1】

自分の設立した企業・ソフトバンクを通じて、孫正義は日本的な「系列」のビジネスモデルに着目し、それをインターネット企業に応用した。この大胆な手法がうまくいくかどうかを判断するのはまだ早い。とはいうものの、メディアから「インターネットの帝王」と呼ばれたその経歴を見ると、才能にめぐまれた、有無を言わさぬ起業家であることがわかる。

 孫は頭のよい生徒で、スポーツや遊びよりもビジネスに関心があり、早くから起業家的能力を発揮した。

 1973年にアメリカに渡ると、カリフォルニア大学で得た知識を応用して電子手帳を考案した。この特許を売却して100万ドルという大金を手にすると、それをもとにビデオゲーム事業を育てて成功をおさめ、1981年に日本に帰国する。そこでつくった会社がソフトバンクだった。少年が切手の収集に走るように、このソフトバンクは創業間もないドットコム企業の株を買いまくった。

 肝炎の病から回復すると、ヤフー株で金脈を掘りあてる。1999年、その目を日本国内に向け、低迷している日本のドットコムマーケットで株を買い集めた。インターネット革命が頓挫して苦境には立たされたものの、生き残った。リストラクチャリングをなし遂げたソフトバンクは、景気後退後のeコマースマーケットで優位に立てるだけの地位を確保した。

【生い立ち】
民族的には韓国人の孫は、1957年8月11日、九州は佐賀県の鳥栖で生まれ、育った。父は小さな企業を経営していた。福岡にある有名校に入ったが、早い時期からビジネスに興味を抱いていた。他の生徒がミュージシャンやスポーツ選手になりたいと考えるような時期、孫のヒーローは日本でマクドナルドを成功させた藤田田だった。どうしても藤田に会いたいという思いからそのオフィスに直接電話をし、東京で面会する約束を取り付けた。藤田と会ったことがきっかけで孫はアメリカに関心を持つようになり、1973年、英語を学ぶ目的でカリフォルニアに渡る。

カリフォルニアでめきめきと英語が上達し、それほどたたないうちにカリフォルニア大学に入学して経済学を専攻した。ものごとにのめり込む生来の性格がはっきりと表れていた。ティーンエージャーは寝室の壁に写真を貼る。音楽や映画のスター、スポーツ選手、ペット、家族あるいは恋人の写真だ。19歳のとき、孫はある雑誌に載っていた1枚の写真に心を奪われた。その写真を切り抜き、保護用のラミネート加工をし、カバンのなかに入れて持ち歩いた。経済学を専攻していたこの学生の想像力を魅了したのは、マイクロチップの写真だった。

to be continued

次回はpart.2【成功への階段】です。

では
こんばんわ。

今回で最終回となるアンドリュー・グローブさんのお話を書いていきます。

【転機と決断】
インテルは当時、日本計算機(ビジコン)からロジックチップの生産を依頼されている。インテルはそれまでに小型のシングルチップ、汎用の論理デバイスの研究を重ね、独自の成果も上げていた。やがてロジックチップが開発された。インテルは特許権を日本計算機に譲らずに保有し、製造と販売の権利をライセンスした。インテルが今日のようなマイクロプロセッサの巨人になる道筋が大きく開かれたのは、グローブとその経営チームによるこの重要な決断のおかげだった。

 インテル成功の原因は、革新的な製品を出し続けるその力量にあっただけでなく、従来コンピュータの汎用機能部品であったものを、有名ブランドに育て上げたその巧みな戦略にもあった。テレビのコマーシャルによって、舞台裏にあったマイクロチップが表舞台に登場した。

「インテル、入ってる」のキャンペーンにのせられて、消費者はインテルのチップを載せたパーソナルコンピュータが欲しいと考えるようになる。インテル製のプロセッサ「ペンティアム」はマイクロソフト社のオペレーティングシステム「ウィンドウズ」と並んで、パーソナルコンピュータには欠かせない存在となった。

アンディ・グローブのビジョンはインテル成功の原動力となる。グローブは同社を小さなメモリチップのメーカーから、マイクロプロセッサ業界の巨人に育て上げた。インテル設立当初から、グローブはマネジメントと製造の間のバランスをうまく取れる経営者だった。1981年、IBM製PC向けマイクロプロセッサの納入をめぐる交渉でモトローラを蹴落とすことに成功した。

 戦争で疲弊したヨーロッパですごした子ども時代の経験は、さまざまな面で、グローブが経営者として生きていくうえで役に立った。あえて厳しい決断も下せる人間になっていた。1980年代、メモリよりもマイクロプロセッサに賭けたほうが有利だと思われるようになると、グローブはインテルの進むべき方向を見直すという、大胆でリスクの大きい意思決定をする。これは何千人ものレイオフが避けられない厳しい決断だった。1987年、グローブはインテルのCEOになったが、意思決定が楽になることはなかった。

 グローブは同社の主要製品、ペンティアムに欠陥が見つかったとき、会社に襲いかかる危機を未然に防いだ。おそらく数学の専門家以外には認識できないような、極端に狭い範囲の技術的な問題ではあるにしても、これがPRの面では桁外れの大騒ぎになる恐れがあると判断し、グローブは断固とした行動を起こす。

 大企業インテルの力を持ってすれば、クレームになった製品の交換だけに限定し、その手間を小売店と消費者に押しつけることもできた。ところがグローブはプロセッサそのものの交換をすることにした。このために4億7500万ドルという莫大なコストが発生したものの、インテルのブランドの名声は保たれた。その後利益は増加している。

 グローブは同社の株主にとっても神からの贈り物だった。そのCEO時代に、インテルの株価は24倍になっている。1998年5月、グローブはCEOを退き、取締役会議長として同社にとどまった。

グローブが経営の第一線を退いてから、インテルは、マイクロチップに対する需要の先細り観測はもちろん、いくつもの難しい局面に対処した。ムーアの法則(インテルの共同創立者ゴードン・ムーアが提唱した)によれば、マイクロプロセッサの演算能力は18か月ごとに2倍になるという。実際、最初の10年間はこの法則通りになり、消費者向けのチップのアップグレードを繰り返したおかげで、インテルの売上高は続伸した。

 ところが、時間の経過につれ、ムーアは能力向上のテンポがゆるやかになると考え始め、現実もその通りになった。グローブはこの流れに対応しようとしているようだ。そして「あらゆる企業がインターネットの関連企業になる」と公言している。この考えを背景に、インテルはインターネットを活用した事業の多角化を図っている。

プロフィール
1936年 誕生
1957年 「8人の裏切り者」がフェアチャイルド・セミコンダクタ社を設立。グローブがアメリカに脱出
1963年 カリフォルニア大学バークレー校から博士号を受ける
1968年 ゴードン・ムーアとボブ・ノイスがインテル社を設立
1979年 インテルの社長兼CEOとなる
1981年 IBMがインテル製のマイクロプロセッサの使用を決める
1985年 インテルが方針転換、マイクロプロセッサに専念する
1987年 インテルのCEOに就任
1994年 マイクロプロセッサ、ペンティアムに欠陥が見つかり回収
1998年 インテルのCEOを辞任

以上となります。

次回の「世界の偉大な経営者」は日本から。
現在も日本でトップクラスの経営者として知られているあの方のお話です。