此方は青天ですが肌寒く感じます。
夫の帰宅は、遅めでタクシー運転手を63歳に成った今も正規雇用で続けてくれています、最近
母との葛藤、息子の結婚と想像もできない事柄に遭遇しているおきらくであります。
ブログで自分見つめと何度投稿してきたことか投稿しているわりに自分見つめがどうもできていなかった気が最近してきております。
母の娘に対する躾の言葉バカ夫婦の行い行動が心配なあまり母なりの言葉で助言してくれていることを素直に聞けていなかったことを感じるのですが母の教えてくれることが嫌で仕方がありませんでした。
(内容が解っていませんでした。)
母とは生まれた時代背景も違い父が病気や怪我ばかりで、母も祖父から我が娘を夫に養ってもらえる様に家庭の影働きが出来るように娘を働きに出したくなかったようで、専業主婦を目標として育てられた母の心の惨めさ、赤穂の田舎から都会に出てきて生活できるかどうかの心の不安さも思いやることなく生きてきたように感じています。
(昭和5年生まれで生活のために勤めにでなければならなくなった母の気持の惨めさは子供のおきらくには理解が出来ていませんでした。)
(高度成長の名残りもあり、労働をいとわなければ私たちの時代はそれなりに社会にも会社にも守られて生きてこられたように感じます。)
父親やの責任感が希薄なことは母が責任感が強くて、そんなにみじめにも育っていなかった感じです、母の実家の伯父や伯母のお蔭でかばってもらって成長してきたことにも感じ取ることが出来ていませんでした。
(父は父でどう表現すればよいのかわかりませんが、成長過程で大切な時期に親に甘えられず自分のしたいことは戦争もあって希望の職種したいことは出来ていなかったように感じます、ものの道理が解らず父独特の決まりがあったようで家族の厄介者扱いされていた感じがしますが、性格が曲がったままであったことを気づかずに死んでいったと思うものがあります。)
祖父の貢献もあり大手の製薬会社に勤務することが出来ていましたが母が父から去った後は仕事を続けることが出来なかった人です。
赤穂工場から道修町まで出来上がった薬を船で運んでいたのですが、父は機関誌をしていました、航海日誌を書く義務付けがありましたが、字を書くことの苦手な父は当たり前のことが出来なくなっていました。
おきらくはこのどんくさい父の因子も受け継いでいます何を覚えるのも人の三倍かかった様な気がします勤めていた会社を辞めたくなくて必死でした、父が病気ばかりしていましたので父が同じ会社に勤めていた友達とも我が家は子供心に貧乏であったことは解っていました。
やすんでばかりいたら給料は普通の給料の6分しかもらえませんから、いまの時代から見ればリストロラに成らなかったのが幸いだったのです。
(父のことを情けなく見ていたような気はします。)
子供ながらに私も働き続ければ人並みの生活が出来るようになるだろうと漠然と考えていたような気がします。
父と母の後姿を見て育ったおきらくは男性に養ってもらうということが身についてませんでした。
娘の生き方を見て母が一番心配していた事柄のようです。
夫は夫で現代版ギャルのような姑に育てられていますので所帯主の自覚をどうすればよいのかわかっていなかったのです、おきらくも相談の仕方も解りませんし私たち夫婦の天秤棒を母が買って出てくれなかったら、生活が成り立たなくなって離婚の憂き目に成っていたことをヤット理解が出来る様に成りました。
兄妹のいない寂しさは教えてもらわなくても肌で感じて生きてきたように思っています。
母は親戚づきあいの面倒さも兄妹関係の難しさも感じていたと思うのですが娘には意識のないところで苦労させたくなかった様子ですが、無いもの欲しさのおきらくは出番が無いと意識のないところで寂しく感じていたようです。
こころの摩擦もなく人の中に入るのは苦手でした、振り返ってみれば思っていることの感じていることの表現下手だったとかんじます、運動も苦手で不器用で勉強も出来ませんでした。
三丁目の夕日の一平君世代に生きてきたおきらくは今振り返るとテレビがお友達でした。
脳天気でお人よしこの性格は現在も続いているような気がしていますが。
(おきらくなんです、恥ずかしながら。)
母が娘を進学させたくて決死の覚悟で父の元を家出した胸の内も察することが出来ていませんでした。
生活が目いっぱいで母子共話し合いも出来ていませんでしたが、伝える難しさも察する難しさも今は実感しています。
母子でお互い何故が無かったのです、自分の本当の境遇も理解していませんでした。
境遇の中で培っていた寂しさも自分で自分のことが見えていませんでした。
意識のないところでそんな面倒な事考えても仕方が無いじゃないと、息子にも何時までも独身を続けていたらもし私たちが病気や怪我をしてあなたの援助が必要になったとき仕事と親の面倒を両方見ることは出来ないでしょとアドバイスしたのはおきらくです。
結婚できない人が結構多く一人息子で条件も良くありませんまさかこんなに早くパートナーが見つかるなんて考えてもみませんでした。
夫とはお互い協力して夫婦生活が出来ていませんでしたので意識のないところで息子を心の支えにしていたようです。
母はおきらくに対して厳しいばかりで反発も甘えることも出来ていませんでした、母なりに精一杯であったことは感じていたような気がします。 姑は大正の初期に生まれている人ですが4人姉妹の末っ子結構経済的には余裕のある家庭で育た感じのする人です。
おきらくのような性格だったらまさか33歳過ぎまでも独身ではいないと思います、お姉さんたにも、注意も小言も言われずに育ってきている様子で姑の生きざまを見ていると夫が気の毒に感じていました、このようなこともどうも偉そうな見解のようですが自分自身の偉そうさは理解していませんでした。 親の自覚のない人に育った人はかわいそうと感じていました自分はそんな親に成りたくないと感じていたようです。
人から言われたこともでもなく意識のないところで、自然に養われたこころのような気がしています 。
夫のような性格には育てたくないとも考えていました、嫁ぎ先の姑の様には成りたくないともっと違った形でかかわりたいと思っていました。
息子は結構素直で所帯主の責任感は理解できているようですお嫁さんにも優しく接している様子で感謝もしています、この事柄を母親として喜べば簡単ですがおきらくは複雑な気持ちでいます、喜びきれないのです、意識のないところで気づいたのですが息子夫婦のことをやきもち焼いている感じです。
無い物ねだりで身の程知らずの欲望も持っている感じですが身の丈の有った小さな幸せを見つけることがとても下手なような気がしています。
自分見つめ自分見つめと、言聞かせながら見つめきれていません。
戦後教育の平等意識も強くナカナカ本当の意味の感謝が出来ていません。
還暦をもうすぐ迎えますがまだまだ深みのある人には成りきれていません。
心のもやもやがやっと見えかけてきたかなという感じでお恥ずかしい限りでございます。