今日、都知事選でしたね。いつも思うのは投票率が低いことですよね。私は欠かさず選挙に行っていました。自分の意志を表明する絶好の機会だったからです。それに、投票にいかなかったら文句も言えないし。いつも思うことは、なぜこんなに投票率が低いのか?恐らく行っても意味ないって思う人が大半なのでしょうね。であれば、いかなかった人たちは、絶対に政治に文句を言わないでください。お願いします。行く行かないは自由ですが、政治に参加していないのだから文句を言う資格はありません。やっぱり結果が出ないことに関しては動かないのでしょうね。

最近ふと自分のやる気のなさや、後回しする事がとても多くなり、このままじゃいけないと思うのに、また明日があるかいいやって言うように明日が必ずくると思っていながら過ごしていました。しかしよきよく考えてみると、それっておかしい事だと思いました。私はよくニュースを観たり読んだりするのが好きで英語の勉強を兼ねてオーストラリア国内のニュースを色々と読んだり観たりするのです。そこでは、毎日のように人が亡くなったと言う報道が流れてくるのです。事故や事件で亡くなった人がとても多いことに気付きました。この前はシドニーの大型ショッピングセンターで無差別殺人を起こした容疑者が警官によって射殺されると言う事件もありました。被害者はともかく加害者はまさか今日で自分の命が終わるなんて夢にも思っていなかった事でしょう。それに昨日も今住んでいる近所の道路で車に轢かれて亡くなったと言う報道もありました。それらを見て、私自身もいつ死ぬか分からないなって言う気持ちになったと同時に、もっと真剣に生きないとだめだって思ったのです。何もなく過ごせることが奇跡な事なのだなと改めて思いました。そう思うと、いつ死んでももいいよう、毎日を一生懸命に生きよう、自分が決めたタスクを責任を持ってこなそう。いつ死んでも良いように部屋はきちんと常にきれいにしておこう。残された人達に迷惑を必要最低限に済むようにしよう。と心がけたいと思いました。いい加減、自分はまさか死なないだろうと言うバカな妄想は辞めました。だって、絶対後悔するって目に見えてるから。あぁ、あの時もっとやっておけばとか、なんか自分の人生不完全燃焼だったなぁとか死ぬ直前にきっと思うだろうから、その後悔の度合いを少しでの減らせれば良いかなって思ったのです。いつも、自分自身に今日が命日になっても大丈夫なように過ごしていこうと言い聞かせていこうと思いました。

いつまで生きるつもりなんだ?自分。まさか明日、朝いつも通り起きられる、明日も退屈な日になるからつまんないなぁとか明日生きている前提で考えているのか?なんてお前はそんなお花畑な頭持ってんだ?そんなんだからバカなんだよ。もっと真剣に生きろや。って自分の能天気な頭に言い聞かせようと思いました。

こんばんは。久しぶりの更新です。自分自身でいろいろと考えていて、なかなか更新できませんでした。自分の心の変化についてお伝えします。物事は常に移ろい行くものなのだと言う事。同じ状況は長くは続かない事。良い事も悪い事もすべてです。他人は自分の思い通りにならない事は前々から知っていたのですが、更に自分自身もなかなか思い通りにならない事を思い知りました。人間は勝手に人に期待して、その期待が裏切られたと言う事を勝手に自分自身を思い込んで、勝手に落ち込むことがあるんですね。相手は、そんな自分気持ちなんか知る由もないですよね。人を好きにならなければ、こんなにつらい事もなかったのに、それがわかっているのに人をすきになるなんて、自分って本当にバカだなぁってつくづく思うのです。それだったら、人を好きになったり、人を信頼なんてことを一切せず、だれも関わらない状態で過ごした方が断然自分自身の心に傷が出来る原因がなくなるので、その方が良いのではないか?と思う時もありました。だって、一人でいれば、相手の事を心配しなくても済むし、憂いを持つこともしなくていいのですからね。そんなめんどくさい事に自分が振り回されて無駄な時間を過ごしてしまうのが自分の人生を見て非常にもったいないと言う事と思いました。しかし、つらい事、理不尽な事をたくさん経験した方がより自分自身の心を成長させるいい機会でもあるのですよね。傷つくことで、人の痛みも少なからず理解できるようになるし、寄り添う事もできるし、逆にその人の成長の為に見守る事も出来るのだと思います。

本当に、生きるって言うのは食べ物の味に少し似ているのではないか?って思いました。例えば、ハンバーガーやポテト、炭酸飲料などのジャンクフード。脂肪分たっぷりのケーキ、みんな大好きポテチ、白米、ハンバーグ、ステーキ、とんかつなどなど、よだれが出てきそうなものばかりですよね。みんな大好きですよね。しかし、食べすぎると体が不調をきたしますよね。その反対で、いわしをやいて、丸ごと頭から食べる。野菜を食べる、お酢で調理されたモズク、先に書いたジャンクフードと比べてすっごい美味しい幸せって言う事にはならないですよね。でも、間違いなくジャンクフードなどよりも間違いなく体に良い事は分ると思います。例えがわかりづらいかもしれませんが、ようは人間を作っていくのはつらい事、ダメにするのはすぐに幸せな感覚が得られることなのかなって思いました。つらい事を経験すればするほど自分自身の心の成長がするのだなぁって思いました。

人生は良い事だけだとつまらないし、つらい事だと、だめになるし。ほんと難しいですよね。

なにか私が行っている事に対して、もっとわかりやすい例えがあれば是非教えてください。

それでは、また。

こんばんは。今回は自分の心の移り変わりについてお話ししますね。最近、帰国後のお金の心配をしていて気が気では無い時を過ごしています。帰国後は貯金も殆ど無い状態で再スタートを切るわけです。まだ起きてもいないことに頭を巡らせてしまい悶々としているのです。お金を使いたくもないので殆ど出掛けていません。8月にあるIELTS の試験のために勉強しなきゃと思っているのに、なかなか集中できずただ時間だけが過ぎていく。言葉と行動が一致していない。グダグダしている。本当に悪循環なんです。しかし、ふとこのままじゃダメだなって気づくきっかけが幸いにもありました。それはYouTubeで人生についての内容を知りたいと思い色々な動画を観て回っているときに、ある動画で限界を超えてみろって言う内容の動画がありました。グダグダしているのは暇なせい。自分の欠点に気づき落ち込んでしまうのも暇なせい。多いに時間があれば、なんでも良いから限界を超えてみろって言っているのを聞いてはっとしました。確かに、働いていた頃はあっという間に時間が過ぎその間はなにも考えられなくなっていたし。わざと疲れさせてみろ、そうしたらそのままバタンキューだから。くよくよ考えている暇もなく寝ることが出きるぞって言っていました。確かに、やろうやろうと思っていてそのままでいてしまうから暇になってしまうんだ。なんでも良いからこれやったぞって思えるような小さいもとでも良いから取り組んでいこうと思いました。1分間集中してみる。簡単なことなのですが、スマホがあるので1分すら集中できない自分がいるのです。勝手に自分で自分の約束を破っておきながら自分にはやりとげることすらできないと言うバカな自己嫌悪に陥っているのです。本当にバカだと思います。だって自分ができそうな事ができずにいてそれで落ち込んでいるにですから。とりあえず、これからは少しづつ負荷をかけていき、継続して勉強をしていきたいと思いました。最終的には1日に12時間をどれくらい連続で出きるのかとかやってみたいです。それが自分の限界を知ると言うことに繋がると思います。それに24時間自分の時間として誰にも邪魔されずに使うことが出来る環境は今しかないと思うのでしっかりと取り組んできたいと思いました。それにしても、自分の心なのに自分の思い通りにもなってくれず、勝手にしょげたり喜んだりするのを何とかしたいですね。さっきまではかなり落ち込んでいたのに次の瞬間目の前がパッと明るくなるような幸せを感じた利、その逆もあったり。なんとかならないかな💦

こんばんは。突然ですが、初心わするるべからず。と言うことわざがあると思うのですが、これって忘れる前提で言ってますよね?もし初心を忘れることが無ければ、このことわざ自体存在していなかったと思います。結局のところ、人っていつの間にか忘れちゃうんですよ、大切なことであれそうでないであれ。だからあえて思い出させるようなことわざができたと思います。

人は忘れる前提で生きています。

しかし、忘れそうなことも何かをきっかけにして忘れずに覚えておく事が出来る能力を持っていると思います。物事は全て移ろい行くものの中で、あえてそのまま思っていることをキープできるきっかけ(ここではこのことわざがトリガーとなる)を持っていることってすごいと思いませんか?

経験を積んで色々出来るようになったとしても、初めての時に決意した事を忘れないように。って言う戒めの言葉でもあると思います。驕り高ぶるなよ?足元すくわれるぞ!って警告の意味もあると思います。

でも、誰がこういった言葉を残したのでしょうかね?恐らく、ネットもスマホもFAXも車も電車も自転車も何も無い時代に生まれたと思うのですが、それがどの様に伝わったのかも興味深いところですよね。

話は変わりますが、2,500年以上前のお釈迦様の教えが現代の私達にすんなり意味が入ってくることを考えると、昔も今も、考え方や感じ方は一切変わっていないんだなぁって思うのです。これって諸行無常じゃないじゃん!って思うこともありますが😅

物事が常に移り変わっているのならば、1分前の出来事や、このブログを書き始めた時間は過去なんだから、そこからどんどん変化しているのに、考え方は、固定化されているのか?って思ってしまうのです。(厳密に言うと少なからず、過去と現在は大きく変わっていると思いますが。)

毎日毎日をしっかりと過ごしていく。これが重要ですね。悪い時も良い時も初心を忘れずに、常に自分をアップデートしていこうと決意をしてこれからも過ごしていこうと思いました😊

こんばんは。皆様にとって今日は、どんな一日でしたか?私は毎日充実して過ごしています。

さて、今回は、同じような事象が目の前に起きた時になぜ人は異なった捉え方をするのか?と考えてみて、自分なりの答えが出たので、それをお伝えしますね。

そもそも、良いも悪いもその人の捉え方次第で変わって来るのだと思います。それも、同じような事象事象が起きた時に、ある時はとてもヘコんで自己嫌悪に陥ったり、ある時は落ち込むことがそんなんでもなく、逆に頑張れるきっかけを得られた!って思ったり。人それぞれ違うのですよね。コップの半分水が入っているのを見て、コップも水もなんとも思っていないのに、ある人はコップにまだ水が半分もあるぞ!ラッキー!って感謝しながらそのコップの水を見たり、一方では、もう半分しか無い、どうしよう😥ってあたふたしたり、なんだ!もう半分か!コンチクショーってコップに入った水を恨んだり。

本当に、コップや水に仮に意識があったとしたら、

何いってんだ?コイツラは。っておかしく思うかもしれません。勝手に落ち込んで、勝手に舞い上がっているわけですからね、我々人間が。

でも、同じ事象で異なる考えを持つのが人間なんだと思います。なぜならば、全ての物質は常に移ろい行くもので常がないのですから。コップの水だって、時間が経てば腐って行くでしょう。もしくは蒸発して無くなって行くでしょう。もしかしてコップにヒビが入り割れてしまうのかもしれません。いずれにしても、その状態が永遠に続くことは無いのです。人間それぞれの捉え方も人それぞれ違うし、自分自身の捉え方もいつでも同じとは行きません。それも常に常がない事に関連しているのかもしれません。人間の考えも刻一刻と変化していて、もちろん脳も日に日に更新されているのです。だから、その日その日で捉え方も違うし、他の人も違うわけだから、異なって当然と言えると思うのです。そうです、結局のところ諸行無常(すべての事象は常が無く、移ろい行くもの)なので、今日考えていた事は明日になったら変わっているかもしれません。少なくても、人間が死ぬ時まで、ずーーーーと同じ考えは持っていないと思うのです。だったら、そんな日に日に変わっていく気持ちを全て受け入れて、そこからどうやって明るく元気に過ごしていけば良いのかを考えれば良いと思うのです。落ち込むことも大切な事です。ネガティブな考えがなければ、じっくり考える事もできないと思います。しっかり自分自身と向き合うために、落ち込んだりするのだと思います。なので、結論として常が無いから自分自身を含めてすべての人間は、ある事実をいろいろな角度でみてその結果いろいろな意見が出て当然で、更にその考えもコロコロ変わると言う事になると思います。良いことも悪いことも自分達の成長の為にあえて自分オリジナルなフィルターで物事を見ているのかな?って思いました。そして、もしかして我々人間も既に無意識化で諸行無常の理を理解していているのかもしれません。

これらのことを鑑みると、良い時も悪い時もずっと続かない。だったら、今までおきた過去の事実を反省し、まだ来てもいない未来に憂い持たないで今に生きるというふうに考えを変えれば良いと思います。

確かに過去は変えられませんが、その過去を作っているのは今の自分って認識する事が大切なものだなって思いました。


諸行無常なので物事をどう見るかなんて一過性の事で、すぐに状況は変わっていきます。その場その場で判断していき、乗り越えればいいのでは無いのでしょうか?どうせ、すべてが正解なのですから。(同じ人間が何人かいて、人生の分岐点でそれぞれの選択肢に各々が進んでいき、その結果どうなった?みたいな事は、不可能なので。)

こんばんは。今日はとあるYouTube動画で興味深い事をお話されていた方のお話をしますね。その内容って、上手くいく時って本当は怖い事と言う旨の話をされていました。具体的には、人生の基本は思い通りにならない事が標準と話されていました。私はそこは納得しています。で、上手くいく時は実は怖いことと話されたのを聞いて、私はなんで?って思いました。上手くいく行く時、上手く行っている時のどこが怖いのか?と言うことが気になり続きを聞いてなるほどと思いました。それは、上手く行くときというのは、とても幸せな事、心から満足して満ち足りている事。しかし、これらの現象は長くは続かず、いずれは悩みに変わる。幸せと感じる度合いが大きければ大きいほど悩みの度合いも大きくなる。あったものが無くなってしまった時、そのものに愛情があればあるほど、なくなった時の心の落ち込みは尋常じゃないぐらい落ち込むこともある。別の言い方をすると、先程申し上げた、人生は苦しみがデフォルトなので、上手く行っている時って異常事態なんだそいです。私はこれを聞いて、ではなぜ人間は苦しんで苦しんで最終的には死んでしまうのに、なぜ生まれてくるのか?と思ってしまいました。物事は常に移ろいゆくもので、刻一刻と状況は変化する。幸せと感じる事もそれが終わってしまうと虚無感に襲われる。幸せだと思っていても、いつまでもこの状態が続かないこともわかっている。辛いこと(デフォルト状態に戻る)がまた私の頭を悩ませる。人生は結局苦難の連続なんだなって思いました。上手く行かないで悩む。上手く行ってもいずれはそれも終わってしまう。今の状態(上手く行っている状態)が長く続けばと思うが、それも叶わない。であれば、悩みのもとになる幸せに思う事、すなわち、上手く行っている事が本当は怖いことと言っていたこの方の話に妙に納得しました。しかし、なんにも悩みが無い人生、上手くいくことも上手く行かないこともひっくるめて、人生なのかな?って思います。だって、好きなケーキを毎日お腹いっぱい食べても、時期にそのケーキに飽きてくるでしょう。ケーキを毎日たくさん食べた為にお腹がもたれたり、病気になってしまうでしょう。このような例えが適切かどうかはわかりませんが、ある意味、何をするのにも程々になさい。って言う事で比喩的にこのような言葉をお話したのかもしれません。

人生には悩みがつきもの。悩んでいるから悩みが解消された時の幸せ感を感じることが出来るし、その幸せ感が強ければ強いほど失った時の喪失感や空虚感も相当だろうし。結局、この幸せか不幸かと言う波の中で生きていかねばならないのでしょうね。

なんの苦難もなくて毎日が平凡に過ぎて行くのはある意味羨ましいと思うこともありますが、逆に言うと平凡で退屈な状態でもあるかもしれません。

上手く行ってもだめ、上手くいかなくてもだめ、何もない状態もだめ。みんな、だめ、だめ、だめ。なんです。

本当に悩ましいですよね。いつまで経っても悩みは無くならないし、解消したと思ったらまた次の悩みが出てくるし、どーしたらいいんだよ!って思いたくなりますよね。そう思った時に、人生は苦しみが標準と言う事を覚えておけば、悩みも少しは軽減できるのかな?(なくすことは出来ないけど。)

上手く行っている事が実は怖いこと(悩みの種を蒔いていること)と思えれば、いずれは悩むんだと心の準備が出来るのかな?って思いました。

事前に知っていることと、何も知らされないでいることは大きく違いますので、そういった事前準備を各々がするために、このような言葉が出て来たのかなと思うと、この言葉に対しての見方が変わると思いました。それに、幸せだと思うか不幸と思うかも各個人で変わってきますからね。

生きて行くのって本当に難しい事なんですよね。

でも、良い事もあれば悪い事もあるって自分の中で言い聞かせれば、物事の捉え方も少しは変わっていくのでしょうね。

みなさんはどう思われましたか?

おはようございます。今朝のブリスベンの気温は10℃位です。結構寒いです。

先程、目が覚めたのに寒いから布団の中にいた時に、ふと格言の様な言葉が頭の中に湧いてきました。それは、


人は生まれた時から、自分が成長していく段階でいろいろな人に恩を受けて来て成長していくのだから、その受けた恩をきちんと返さないといけないから、出来るだけ人様には親切にしなさい。何かあれば助けてあげなさい


みたいな感じでした。

なるほど、既に今まで受けてきた恩を返すために、今度は自分が相手の役に立って日々過ごしていくのか。それだったら、相手に過度な期待(自分はこうしたんだから、相手も自分にこうして欲しいみたいな相手対して期待する気持ち)を持たなくてもいいんだな?逆に持つのがおかしいよね?みたいに思えてきました。

なんか、今とても穏やかな気持ちでとても充実している感じです。

考え方次第で、こうも自分の気持が変わるとは!って思っています😊


皆さんはどう思いますか?


こんにちは😃ここのところのオーストラリアは冬に向かいつつあり、朝晩は結構寒くなる時が多くなってきました。

さて、本日はとても満ち足りた気分になっています。

今までは、無いものばかり目を向けていましたが、あるものに目を向けた途端に、とても幸せな気持ちに包まれて来たのです。

こうしてブリスベンで生活できること、親切な先生や友達が私をサポートしてくれている事。贅沢をしなくとも、十分に良い生活が営めること。仕事が見つからず落ち込んでいましたが、逆に言うと自由な時間が確保出来ている事。などなど。今まで見えてなかった事柄が見えるようになった途端に、霧が晴れたかのように、周りの世界がとてもありがたく思ったのです。

誰も何も言っていないのに、自分自身でよくなったり悪くなっていたりを日々繰り返しているのですから。

残りのブリスベン生活も日々きちんと過ごして行きたいと思いました。

オーストラリアに来て、日本にいたときよりもより時間の使い方に気を使う様になりました。

さぁ、午後も頑張ります。




久々の投稿でございます。間隔を開けてしまいごめんなさい。
さて、今日は、自分自身に降りかかる嫌なことについて個人的に思った事があったので、それをお話しようと思います。
よく、ついていないことや嫌なことなどのネガティブな事が生きていくうえで起こると思います。本当に嫌なこと、がっかりする事、落ち込む事。などなどたくさん起きるんですよね。私もブリスベンに一年以上住んでいて、日本にはない文化の違いによるショックや自分自身で被った嫌なこと、夜も眠れないときもたくさん過ごして来ました。でも、不思議となんとかなるものなんだと思ったのです。仕事をしていてミスしたり行動自体が遅く上司に叱られたりした時もしょっちゅうあり、その時はよく自分なんか価値ないんだ。役に立とうとしているのにそれが出来ない。そんな自分は消えてしまえばいいとよく思っていました。しかし、なんとか乗り越えて生きていっているのです。だから、こういったブログの更新も出来るのです。そう思えば、自分自身に降りかかる嫌なこともも自分を成長させるためのイベントなのかなって思うようになったのです。嫌なことがあれば、やけ酒や買物による散財、誰かに八つ当たりをする事や、自分自身を傷つける等に走りがちなんですよね。でも、何とか堪えて生きていく。結局その繰り返しなんだと思いました。でも、よくよく考えてみると、自分自身の成長のために、半ば自動的とも思える事象(私自身の忍耐力を試すようなイベント)が起きるってすごく便利なのかなって思うのです。だって、自分から自分自身を成長させるぞ!って意気込んでも、その事象は起きるわけがなく、生きている中で不意に、それもよりによってこんな時になんで???と思うタイミングで起こるので、考えようにはラッキーな事なのかな??とも思うのです。
私自身もいずれはこの世を去ります。そして、死ぬ間際に、あまり後悔したくないと思うようにもなりました。そこで、そうならない為に、悔しくても悲しくてもいいから、決して他人のせいにしたり、愚痴や泣き言等も最小限(絶対言ってはいけないというものでは無い)で心で泣いて顔は笑っていられるようにしようと思いました。だって、時間が経つとみんな過去の出来事になるのだから。いつもニコニコして穏やかに過ごしておいたほうが全然良いと思ったんです。だって死ぬ直前に後悔しても過去の出来事は変えられないので。であれば、死ぬ直前に色々あったけど、穏やかに過ごせてきて良かったと思いながら死を迎えたほうがいいのかなって思いました。最終的にはなんとかなるものなんですよね、人生って。なんとかなるってわかっているのであれば、穏やかに過ごしていきたいなって思うようになりました。ムスってした態度よりもニコニコしている人に人は惹かれるのだと思うので、私も常にニコニコして生きていこうと思いました。