世界史を解りやすく(9)郡県制のイメージ | 新見一郎

新見一郎

勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史に書いてあることを、理系の人にも解るように説明したいと思います。

今日は、中国史の群県制についてです。

山川の世界史のP71です。

 

 

郡県制とは、秦の時代に導入された、国を治める方法です。

 

秦は、BC221年、中国を統一しました。

統一以前は、燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚という7つの大国がありました。

これを戦国の七雄といいます。

秦の始皇帝は、中国を統一したわけですが、地方には七雄時代のリーダー級の部族が大勢いました。

彼らにそのまま地方を支配させ続けさすと、いつ反乱がおきるかわかりません。

そこで、秦が実施したのが郡県制です。

 

始皇帝は、秦から各地に官吏という部下を派遣しました。

そして、この官吏が始皇帝の考え方に基づいて、地方を統治します。

地方ですが、40か所ぐらいのエリアに分けて統治したようです。

これが「郡」ですね。

「郡」の下には、それより小さなエリアの「県」が存在しています。

現在の日本でいうなら、「郡」が都道府県で、「県」が市町村ですね。

それから、秦からの官吏が地方を統治するわけですから、秦の言語や貨幣や数量単位を統一しました。

こんな風に、中央にいるトップが、中央に派遣した官吏により地方を治めることを中央集権と言います。 

その逆に、中央から官吏を派遣せず、その地方のリーダーが統治する方法は地方分権です。

それから、周の時代は、王が、自分の親族に地方の支配権を与えていたようです。

これが封建制ですね。

下の図のとおりです。

 

この段階で、郡県制と封建制をちゃんと理解しておいてください。

なぜなら、漢の時代に、郡国制というのが登場するからです。

 

山川の世界史のP71です。

次のようなことが書いてあります。

 

「郡県制と封建制を併用する郡国制を採用した」

 

これは、何を意味するかというと、あるエリアは、郡県制にする。

つまり、官吏を派遣します。

そして、あるエリアは、封建制にする。つまり、官吏を派遣せずに、その地域の有力者や皇帝の親族に支配を委ねるわけです。

なぜ、こんなことをしたのか?

地方の立場で考えてください。

郡県制にすると、中央から官吏がやってきて、うるさいことを言います。

その地方の有力者にしてみたら、腹が立ちます。

秦の時代、反乱がおきてしまったのです。

全てを中央集権にする郡県制は、変化が激しすぎたわけです。

そこで、あるエリアは郡県制にするけど、あるエリアは官吏を置かず、地方の人間に支配権を認めたわけです。

 

※世界史を解りやすく(8)封建制については、 こちら をどうぞ。