「治さなくていい」という発想そのものが
緘黙症状を長期化させる最大の社会的障壁
「社会モデル」の考え方
「障害」を理解するための視点の一つに、「社会モデル」という考え方があります。
「社会モデル」は「医学モデル」と対比される考え方で、「障害」を個人の特性としてではなく、社会の側によって作られたものと捉えます。例えば何らかの病気のある人が社会生活を営むのに支障がある場合、それはその人の病気があるからではなく、社会の側(例えば建物や人やサービスなど)に問題があるからだと考えます。
社会モデルでは、障害のある方の活動や参加を阻害するものを「社会的障壁」と呼びます。そして、その社会的障壁を取り除いたり、軽減したりすることによって、障害のある方の活動や参加を促進することを目指します。
社会モデルの考え方に立って問題の解決を図ると、例えば次のようになります。
・目が見えない人のために、音や触覚で分かる情報を提示する
・段差があって移動しづらい人のために、できるだけ段差をなくす
・階段が登れない人のために、エレベーターやスロープを設置する
・声で話せない人のために、話さなくてもいいコミュニケーションの道具を用意する
こういった例は社会の中に無数に存在します。
社会モデルは「障害」を理解し対応を考える上で、極めて重要な考え方です。
当然、緘黙症状のある人にとっても社会モデルの視点で支援を考えていくのが有効です。
「社会モデル」の考え方で場面緘黙への対応を考えると…
ところが、この社会モデルを場面緘黙の症状に当てはめすぎると、問題が生じてきます。
次の例を見てください。
1.緘黙症状のある人に、話す以外のコミュニケーションができる道具や方法を用意する
→そういった支援や配慮が必要なときは、これはいい方法です。
ただし、必要以上に代替的な方法を使いすぎると、話す機会を減らしてしまうこともあります。
2.緘黙症状のある人に、話さなくてもいい環境を整える
→これも基本的には悪くない方法です。
ただし、学校などで「話さなくてもいい環境」を整えすぎてしまうのは、同様に要注意です。
3.緘黙症状のある人に、治療的な対応をせず「社会モデル」だけで対応する
→こうなってくると、かなり問題が出てきます。
例えば次のような考え方や対応につながっていきます。
□ 教師から「話せなくても周りが助けてくれるから学校では困っていない」と言われる
□ 専門機関で「話す以外のコミュニケーションができれば問題ない」と言われる
□ 医師に「場面緘黙は無理に治そうとせず、つきあっていくことが大事」と言われる
…これではかえって緘黙症状は長期化してしまいます。
緘黙症状は適切に対応すれば治せるのに、いつまでも治らない状態が続いてしまうのです。
このように、行き過ぎた社会モデルの考え方は緘黙症状を長期化させることがあります。
本来、専門機関や病院は、緘黙症状を「治す」べき立場の存在です。
ですが上記のように対応によっては、かえって緘黙症状を長期化させてしまうこともあります。
もし緘黙症状を治すべき専門家が「話せなくていい」という対応をしたらどうでしょう。
それこそまさに場面緘黙にとっての最大の「社会的障壁」に他なりません。
「社会モデル」だけでの対応に問題がある、単純な理由
最初に説明した通り、社会モデルは障害への理解と対応を考える上で重要な考え方です。
ではなぜ、場面緘黙への対応では社会モデルだけでは問題があるのでしょう。
その理由はとても簡単です。
「場面緘黙は治らない障害ではないから」。
社会モデルが力を発揮するのは「治らない障害や疾患」に対してです。
リハビリや治療では根本的に治らないものだから、社会の側を変えるのが大事なのです。
ですが場面緘黙の症状は違います。
適切な対応によって、話せるようになります。
場面緘黙の症状は治るものなのです。
例えば骨折や一時的な心身の不調なら、まずは治療を優先するはずです。
(骨折した人に社会モデルだけで対応したら、本当に歩けない人になってしまいます)
場面緘黙の症状は、どちらかと言えばこちらに近いのです。
「社会モデル」との付き合い方
もちろん、「社会モデル」がすべて間違っている訳ではありません。
緘黙症状のある人は多くの場面で支援や配慮を必要とします。
周りの環境を変えることによって、話せなくても過ごせる状態を作るのは大事なことです。
ですので、まずは園や学校でも、安心して過ごせる環境を整えましょう。
でも、それが100%になってしまってはいけないのです。
必要な場面では支援や配慮をしながら、緘黙症状の改善を目指す。
これが正解です。
「社会モデル」での対応の中に、適切に「医学モデル」の対応を入れていく必要があるのです。