そんなことに運を使ってもいいのか | ぼくは占い師じゃない

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ちょうど一年前の今頃、花形のかっぱえびせんに初めて出会った(「Are you happy?」)。


甲殻類はダメなのだが、かっぱえびせんは大丈夫で、ボリボリやりながら飲んでたら、また出てきた。

袋に「出たらめでたい♪」と書いてある。自慢げに「めでてえだろ」などというと、「あ~あ、またそんなことに『運』使っちゃって」と返されることがある。


やっかみ半分なのだろうが、この言葉の背後には「運」は有限であるというケチくさい前提がある。

個人的にはぜんぜんそうは思っていなくて、実質無限なんじゃないかと さえ思っている。そもそも「運」なんてあるのかどうか知らないけど。

有限というのは「川の流れでいうと、自分というものはその流れに生じた一時的なウズのようなもの」というとらえかたとどこか根底で共通するところがある気がする。方丈記が有名だが、あれはうたかた(泡)だったか。



「クライオニクス」という技術がある。死亡宣告が出た直後、遺体が傷まないように処置をする。血液を抜いて、細胞が凍っても壊れないように特殊な不凍液(保存液)を体に循環させ、最終的にはマイナス196℃の液体窒素の中で半永久的に保存する。将来的な「復活」を期待する事業としてビジネス化されている。

これは川のたとえの「ウズ」を、ウズがほどけて消える寸前に瞬間的に凍らせて保存するようなものだと思うがどうだろうか。解凍したところで、ウズは流れに戻るだけだ。


万一「復活」して目覚めたところで、その自分は今の自分と同じものなのかどうか、知れたもんじゃない。

 

自分=ウズ=有限というわけだが、もし自分=川なら実質無限だ。

「運」が実質無限だというのは「運」も川の流れのようなものじゃないかってこと。

 

酒も瓶の中に残っているだけがすべてじゃない。足りなくなったら買ってくればいい。



「週末だけだっていってたよね、飲むの」
「あ? ああ……」
「今日平日じゃない」
「記念日だから」(ブレードランナー2049より。Kのマネ)
「なんの?」
「これが出たっていう記念日」
「なにこれ~!」

「ひょっとして味ちがうかも」

(ウソ。味は同じ)

「え?ホント? ( ̄~ ̄)」

 「あ……」


こうして議論のすり替えは成功し、冷凍保存する前に、幸運はかみさんに食われていった。


冷凍保存したってしょうがない。