ミケ様
お元気でお過ごしのことと思います。
にゃんこ先生です。
「号外」の回は、いつもの、ご質問にお答えする易がらみの本筋の流れとは、ちょっとだけ外れてる、でもまあ、そのタイミングでお話してもいいかな、という雑談をします。
前にも一回ありましたな。
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凍てつく夜に救急車が走っていきます。
心配なことはいろいろあります。
仕事のことや将来のことです。
気に病むこともいろいろあります。
生きている限り、不安や心配が消えてなくなることはありません。
カギは「自分の境界」にあります。
すべてのカギは自分というものがどこからどこまでなのか、その範囲を常に感じていることにあるのではないでしょうか。
すべてはそこから立ち現れます。
「境界」を拡張をするということは「ハートを開く」といわれていることと、おそらく同じことか、あるいは通底するものがあると思います。
「境界」は狭くなると、マインドとかエゴとか呼ばれるのでしょう。
こう呼ばれるときの「境界」は、肉体をおおう皮膚で区切られた内側と外側の間……皮膚の前後あたりにあります。自分=肉体という状態です。
「境界」は一定しません。
振動しているといってもいいかもしれません。常にゆらいでいます。
ですから、今まで自分とされていた範囲より小さくなることもありえます。
そんなときたとえば人はこう思います。
『なんでこんな時に腹が痛くなるんだ!いったい何やってるんだこの腸は!』
このとき、あなたの下腹部は「境界」の外にあります。「腸」はもうすでに自分ではなく、切り捨てたいくらいの厄介者なのです。
「腸」にとってはこんなに理不尽な話はありません。今まで肉体に取り込まれたものを忠実に分解・吸収してきました。それなのにちょっとした異常を知らせるためにご主人様にワーニングをあげただけで敵対者扱いです。
☆
逆の方向へ、皮膚から外へ「境界」が拡張されると「境界」はマインドでなくハートと呼ばれるようになります。
「境界」は拡張して、となりに座っている人を包み込みます。
こうして、たとえば恋人の痛みはもはや他人のそれではなく、あなたの痛みになります。
もし恋人が腹痛で倒れたとしたらあなたはそれこそ必死であらゆる手を打とうとすることでしょう。
家族、チーム、職場、村、町、市、県、国家……物理的にそれと判るものも、そうでないものも含めて「境界」はあらゆる所へと広がっていく可能性を持っています。
「境界の拡張」とはすなわち「ハートを開くこと」といわれていることにあたるのではないでしょうか。
「境界」が無限に拡張してこの宇宙と等しくなると、そこにはもはや「境界」はないことになります――「自己」の出現です。
「境界」がないため、そこにあるのは中心=純粋な自覚とその周囲の出来事のみです。
中心は不動であり、ですので「玉座」とも呼ばれます。常にただそこにあり、周囲を観察しています。
自分の「境界」を意識するということは、すなわち自分のハートを意識するということに他ならなのではないかと思います。
すべてのカギは自分というものがどこからどこまでなのか、その範囲を常に実感していることにあるのです。
すべてはそこから立ち現れます。
どこまで[共時性|シンクロニシティ]を認識できるか?は自分の「境界」のその大きさによります。
自分の「境界」が拡張すれば、惑星も、ころがして出たサイコロの目も、自分の「外」にあるものでないことがわかります。
偶然出たサイコロの目や、使い慣れたデッキからひかれたカードの絵柄がなぜ自分に関係するのか?
何億キロもの彼方にある惑星の動きがなぜ自分に関係するのか?
広大な三次元時空と、その中にぽつねんと存在する自分というモデルでは、決して理解することはできません。
なぜならそのモデルを利用するとき、星もサイコロの目も自分の「外」にあるからです。
自分の「外」にあるものとは、すなわち「敵」か、または、せいぜい「無関係」なものということになりましょう。
自分というものの「境界」が拡張されたとき、それらが自分の一部になるという理屈自体は、それほど想像するに難くないと思います。
「境界」が拡張しているとき、サイコロの目や惑星は、自分とは関係のない偶然性の産物でもなければ、はるか彼方にある岩石やガスの塊でもありません。
それらはシンボルであり、あなたという自分の界面を構成する意識を参照するための、ディレクトリであり、構造であり、足がかりなのです。いってみれば意識の地図なのです。
凍てつく夜に救急車が走っていきます。
心配なことはいろいろあります。
気に病むこともいろいろあります。
生きている限り不安や心配が消えてなくなることはありません。
しかしその度合いは「境界」の大きさと連動しています。

【太陽系のそと】
(リビングワルード)