六十四卦雑想—水と火 | ぼくは占い師じゃない

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易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

 

33:離
66:坎
TP02:生命

 

   ☆

 

花札の中に「雨」と呼ばれる一連の札がある。
十一月のグループ。
「柳」とも。

比較的具体的なものが描かれていることが多い花札の中で、きわめて抽象的なデザインの札が「雨」のカス札である。
抽象的なだけでなく、赤と黒だけの構図には、なんでこれがカスなんだ?と思うくらいの強烈なインパクトがある。

 


【雨のカス札】

 

離と坎のペアのゼンタングルをどうしようかと想っていたのだが、雨のカス札のパターンを借用することにした。

 

なんで?

 

それは……よくわからない。

 

昔、妹とコイコイ(花札のゲーム)をやって、ひどい目にあわされた記憶がある。
賭事と勝負事の才能がないことに気がついたのはそれがきっかけだった。
今思えば安い授業料だったともいえるが、そんな思い出ともあまり関係はなさそうだ。

 

易で雨は陰物だが、同時に恵みの雨でもある。
降りすぎると災害をもたらすが、小蓄の卦辞「密雲あれど雨降らず」にもあるように、恵みの雨を待ちこがれる様子はいかにも乾燥した大陸的である。

 

そのように意図したわけではないが、TP01:呼吸で始まった宇宙の動きは、この、TP02:生命で、自他を区分する単位としていったん結実する。
大地に滋養をもたらす雨(水=坎)は生命の基盤であり、火は変容をもたらす作用であり自他を区分する原動力だ。

 

水も火もどちらも浄化の作用があるとされている。

 


【66:坎】

 

水のゼンタングルは、泡のような網目状になったパターンを何層かに重ねて、黒い深淵を取り囲むように描いた。
水が持つ得体の知れない深さと、その不定形性をあらわしたつもり。

 

一般に「坎」は窪み、暗闇、湿った低い所など、あまりいいイメージはない。
四難卦と呼ばれる4つの大成卦にはすべて「坎」が含まれる。

 

しかし「坎=悪い」と決めつけてしまうのはいかにも早計すぎる。

「水は方円の器に従う」のことわざどおり、水は素直さの象徴でもある。
水は高いところから低いところへ流れる。
素直であると同時に自然の法則そのものをなぞろうとする純粋さでもある。

 

易卦の象では、陽爻が上下の陰爻でサンドイッチになっているが、これは外柔内剛、外面はものやわらかだが芯は強くゆるぎない象でもある。
坎には一本筋がとおっているのだ。
誠心いう筋が。

 


【33:離】

 

離は火である。
離は離別と付着という相矛盾する意味を持っている。
どちらかというと離すという意味の方が強いかもしれない。

 

何を何から離すのだろう?

 

火は明かりをもたらし、不明確なものを明確にする。
光を闇から(あるいはその逆)分離分別し、照らし出すことにより物事を明確にする。
それは文明の光であり、技術であり、知性、知恵でもある。
それは「見る」ことであり「見える」ようにすることであり、その「眼」を「離」のゼンタングルはあらわしている。

 

他方、火自体に実体はない。
ローソクの芯なりマッチの軸なり必ずなにかに「くっついて」あらわれるものでもあ

る。
そんなところから「付着」という意味が出てくる。

 

易卦全体においてそうだが、特定の象(カタチ)に与えられた意味はひとつであることはなく、多義的重層的である。
それらの意味の中には、この「離」の「分離」と「付着」のように、互いに反対の意味を持つものさえある。

 

易卦を中心に広がる意味の空間の中からどれが選ばれるかは、占者のセンスとその象があらわれた時の状況、タイミングによる。
結局のところ、易システムは道具であり、それ自体がなにか特別なパワーを持っているわけではない。
道具ということでは同列の、包丁の例を出すまでもなく、道具はつかう目的によってよくも悪くもなる。
また道具はいずれそれを乗り越えていかなければならないものでもある。

 

足の怪我が回復して歩けるまでになった人が、それまで使っていた松葉杖を手放すように、自ら物を食べ、飲み物が飲めるようになった子供は、いつまでもほ乳瓶をくわえていることはない。

 

   ☆

 

「ゼンタングル」、「易タングル」については、「六十四卦雑想ーはじめに」を参照してください。