黒い霧事件でエースや主力選手が追放されて弱体化した、かつての西の王者西鉄ライオンズ。
西鉄最後のシーズン1972年は戦力不足で4年目の東尾修と大昭和製紙からドラフト外で入団した新人の加藤初が投げまくったそうです。
しかしチームは弱く、東尾はのんと25敗
最近のゆとり選手たちは先発ローテーションでシーズン通しても、せいぜい25試合か26試合程度の登板なんで二度と破られないでしょうね。
そのうえでも18勝もしとる
18勝25敗!
凄すぎるやろ
新人の加藤初もいきなり17勝!でも16敗もしてる。
加藤初は後に巨人にトレードされるのだけれど西鉄・太平洋での4年間で二桁勝利二度で通算
44勝もしてる投手。
よくもまあ、讀賣の関本と玉井なんて言うポンコツでくれたもんですよ。
関本は移籍初年度は1勝!
玉井は3勝したけど13敗!
子供心にも気になって毎日新聞でチェックしてましたよ。
13敗とw
それでも規定投球回には達したようです。
交換で巨人に来た加藤は移籍初年度は先発に抑えとフル回転で
15勝4敗8セーブと大活躍!
加藤の働き無くして長島巨人の
V1は無かったと言っても過言ではありません。
ついでに後の西武の監督となる伊原春樹までオマケで付いてきたよねw
二年で返品したけど
太平洋の三年目はメジャーで本塁打王二度と言うフランク・ハワードと言う大砲を獲得しました。
ワシは見たことありませんが。
そりゃそうだ。
オープン戦は知らんけど、開幕戦に二打席立っただけで故障離脱。
ほどなく帰国して、二度と戻って来なかったそうです
今でこそメジャーの実績なんて関係無いと言うことがわかってきたけど、当時は大騒ぎだったんやろねえ。
ホーナーのときに近いのかな?
ハワードが何本ホームランを打つかという正解者には抽選で海外旅行だったかな?プレゼントのクイズが出されたそうです。
もちろん正解は 0本❗
正解者がいたそうですwww
すげえ慧眼なのか、ヤケクソだったのかw
果たして海外旅行はプレゼントされたのでしょうか、、
翌年1976年は、今度はメジャーで優勝経験のあるドローチャー氏を監督として招聘。
日本初の青い目の監督誕生。。
は、しませんでした
すでに70歳近いお爺ちゃんで前年に大病を患い、体調不良を理由に来日遅れる!遅れる!
遅れる❗
で、太平洋側はついに諦めてヘッドコーチだった鬼頭コーチと言うこれまたお爺ちゃんを監督としました
ドタバタ劇だったわねえ。
その影響なのか前・後期とも最下位で、もちろんシーズンでも最下位にあえぎました。
それが太平洋クラブライオンズの最後のシーズンでしたね。
そして、クラウンライターライオンズへと。
クラウンはユニフォームはダサいんだかカッコいいんだか、また微妙なユニフォームだったねえ
帽子に王冠マークをあしらってたね。クラウンだけに。
そのクラウンが身売りで西武ライオンズになるタイミングで、石井茂雄と言う40歳の投手が巨人にトレードされてきました。
当時40歳の野球選手ちうたら、ほんと!お爺ちゃん
でもローテの谷間で投げて2勝したのは覚えてます。
キチンも間隔を開けて先発で使い続けてればもう少し勝てたのかなと思ってます。
阪急時代は相当な投手だったらしいし。
当時から長島監督の投手起用は気まぐれだったからねえ
40歳のおじいちゃんが投げてるの見るだけでもワクワクしたもんやけどね。
今でこそ40過ぎても現役にしがみついてる投手はおるけどね。
ちょっとねえ。。
そおいや西武の内海も昔ならおじいちゃんピッチャーの年齢やもんねえ
いやあ、久しぶりに太平洋クラブライオンズのこと思い出して楽しかったわ
西武ライオンズになってからは嫌いやけどね。
まあ、多分に堤の悪イメージのせいもあるけど。
クラウンの最後の監督は、あの根本陸夫さんでしたね。
西武ライオンズでも引き続き監督やって開幕12連敗したけど
西武では名物管理部長だったけど、監督には向いてなかったのね。