郷愁の太平洋クラブライオンズ。 | いちご王国15丁目15番地15号 新いちごの気持ち

50歳以下の方に説明しましょう。

太平洋クラブライオンズとは、今の西武ライオンズの前身のチームです。

西鉄ライオンズが黒い霧事件で戦力ががた落ちとなり経営に行き詰まり、西鉄が球団を手放すとなったとき買い手が付かずに、中村長芳氏が私財を投げ売って買い取った個人所有のプロ野球チーム。


メジャーリーグかよポーン

太平洋クラブという会社がオーナーなわけでわない、今で言うネーミングライツだったんですね。 

当時はそんなこと知らんもんなあ。

太平洋は1973年から1976年までのわずか4年間でした。


その後クラウンライターライオンズとなり西武ライオンズとなっていきます。


西鉄時代は全く知らないのだけど、太平洋で覚えてるのはやはり赤いユニフォームよね。


赤と言えば広島カープのイメージやけど元祖は太平洋w


帽子やヘルメットが青かったからねえ。

ツバだけ赤かった。


でも、今見ると結構カッコいいよね。


ホーム用なんて白と青を基調としてフツーにカッコいい❗


まあ、弱いチームだったけど、1975年は移籍してきた、白仁天が首位打者で土井正博がホームラン王となってます。


開けて1976年は、あの衝撃のワインカラーで胸番号のユニフォーム滝汗


どうしてそうなったポーン

日拓フライヤーズ(現日ハム)の7色のユニフォームに継ぐお笑いユニフォーム笑い泣き


でも、日拓の7色の方が酷かったけどなw

あんなん、よく張本が発狂しなかったよね。


1976年で覚えてるのは胸番号以外では吉岡悟と言う選手が

1リーグ時代とかは知らんけど、恐らく2リーグ制度以降では史上最低打率の.309という打率での首位打者かな。

しかも!規定打席ギリギリの

403打席で、ドロボーみたいなタイトルだったわゲロー


なので翌年以降は、また鳴かず飛ばずの二流に逆戻り。


巨人ファンなのに、何故そんなに覚えているかというと、当時のパ・リーグと言えばオープン戦かオールスターでしか見られない神秘的なリーグでね。


たまに見るとワクワクしてましたよ。

パ・リーグでは南海ホークスと日本ハムが好きでしたね。


もちろん日ハムは大沢親分の時代です。


中学生のとき友達と後楽園での日本ハム対南海見に行こうぜ!って話ししていたのに何故か行かなかったなあ。。

何故なのか真顔


当時のパ・リーグなら余裕でチケット手に入れることできたのにね。

もしもその時パ・リーグの試合を見に行ってたら、その後のワシのファン歴史は変わっていたのやもしれない。


太平洋からクラウンライターライオンズに変わっても、弱かったなあw


でも、オープン戦でクラウンと試合のときはワクワクしながら見てましたよ。


思えばあの時はまだ、真弓とかもいたんだよなあ。


シーズンオフになると太田卓二がいつも巨人にトレードか⁉️とか、楠城と言うキャッチャーも巨人獲得へとかの見出しを見て新聞を買っていた中学高校時代。


ええ、東スポですよ真顔


今でこそ東スポは日付以外全て誤報とわかってるけど、そんなこと知らない純真な時代やからねえ笑い泣き


でも、今思うとあのワインカラーのユニフォーム。


当時は無かったけど、レプリカユニフォームとかあったなら買っていたのかも。。


まあ、それは今の感覚やけどね。


日拓も7色のレプリカユニフォームを発売していてら大儲けできたやも知れん。


今そんなことを、クソフトバンクがやってるねムキー

ピンクとか黄色とか水色とか赤とかどれが本当のユニフォームかわかんねえちうのムキー


昔のパ・リーグは良かった。


あぶさんを子供ながら読んでいた影響もあったかな。


ありがとう水島新司先生ニコニコ