<ドラマ ファンジニより>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
184.キーセン妓生になる方法
 
 
 
ワンポイントコラムも190回を数えました。
まだまだネタは多いのですが、記事として楽しんで読んで頂けるネタとなると、とってもネタ切れに近いです(笑)。
 
書く側が面白いと思って書いても、読んで下さる方々が面白いと思う記事は中々無いので、いつも頭の中でグルグル空回りです。
 
 
その中で、未だにGoogle検索で1番で検索され、ブログ記事アクセスでも年間を通してトップを走って居るのが、「キーセン妓生について」の記事です。
 
 ↓↓↓記事はコチラ↓↓

 

韓国史劇ドラマでは無くてはならない存在なので、ドラマを観終わってキーセン妓生についてもっと詳しく知りたい方が多いのでしょう。
 
と言う事で、今回は前回のキーセン妓生の記事の続編と行きましょう。
前回書けなかった部分を書きたいと思います。
 
 
キーセン妓生の起源は三国時代に既に存在しました。
戦争で連れられて来た女性や、後に白丁となる
「楊水尺」などの賎民を妓女とした記録が有り、これらが高麗時代に官妓となりました。
この官妓から妓生キーセンが発生し、儒教性理学が主導的立場に立った朝鮮王朝時代に、今我々がイメージするキーセン妓生制度が確立したと言います。
 
以前も書きましたが、日帝期のイメージでキーセン妓生を娼婦と勘違いする人も居ますが、儒教社会の朝鮮王朝では売春は禁止されており、「春香伝」の様に官衙でお偉方の夜伽に動員される事が無きにしもあらずでしたが、稀なケースに限られました。
 
 
勿論、朝鮮王朝時代の後期になると紀綱が緩み、こっそり売春を行うイーペ二牌、サンぺ三牌が居た事は確かです。
しかしながら、彼女らはキーセン妓生と名乗る事は許されませんでした。
 
キーセン妓生とはイルペ一牌を指し、彼女らはあの時代の文化人でした。
一部のソンビ(士)は、学問のレベルが合う人が居ないとキーセンと学問の話をするなど、知的交流を交わしました。
 
 
実際キーセンは、特に上流に該当するイルペは知的水準が非常に高く、儒教経典は勿論の事、代々地域に伝わる文学、時調や漢詩などを詠んでおり、「キーセン妓生文学」と言う言葉も残るとおり、彼女たちが詩を書く事も珍しく有りませんでした。
 
何故なら、彼女らが相手にする客は、全てかなりの学識を持ったソンビ(士)であり、彼らは遊ぶ時も詩を詠んだり、四君子(4つの画材)を描いたり、学問と国事について討議する事が常だったからです。
なので、キーセンも当然これに合わせて多くの勉強をしなければならなかったのです。
 
安東アンドンのキーセンは儒教の「大学」を暗唱し、関東(江原道)のキーセンは鄭澈の名高い詩「クァンドンビョルゴク関東別曲」を詠み、咸興ハムンのキーセンは諸葛亮孔明の「出師の表」を誦(そらん)じ、永興ヨンフンキーセン「龍飛御天歌リョンビオチョンガ」を詠んだと言います。
 
 
朝鮮王朝は装身具まで制限する「贅沢禁止法」が有りましたが、キーセンはこの法への数少ない例外対象でした。
 
その為、キーセンらの着る新しい服と化粧はすぐ流行になりました。
しかし、一般の人たちは「贅沢禁止法」が有る為、真似する事は困難でした。
 
イルペ妓生が高度な能力を有し、待遇が高いレベルだったとは言え、前近代社会は女性に抑圧的だった家父長制儒教社会だったので限界も有りました。
上品な男性をもてなす女性として、有る程度の待遇を受けて財産を集める事は出来ても、侍(はべ)る仕事の為、軽蔑が無かった訳でも無く、上流階級に属しても身分の高い女性の様に正式に上流社会には属さず、賎民とされました。
 
 
ともかく、朝鮮王朝時代の妓生はかなりの知識人だったので、朝鮮時代には『妓房五不キバンオブル』と言う、妓房でしてはいけない5つの事が有りました。
 
1)妓生の約束を信じてはならない
 
2)文字を詠んで自慢してはならない
 
3)花をプレゼントしてはならない
 
4)自己の妻を自慢してはならない
 
5)家門の烈女(国で表彰される女性)を自慢してはならない
 
以上で、これらは彼女達の自信から由来し、
その自信を踏みにじる事が無礼だった事を物語ります。
 
さて、彼女らはどの様な過程でキーセン妓生になったのでしょう?
 
<日帝期のキョバン>
 
彼女らは「キョバン敎坊」と言うキーセン妓生学校に通いました。
キョバン高麗時代の記録でも存在を確認する事が出来ます。
 
体系的な記録では無く、口伝で伝承された模様です。
中には全国を廻り師匠から習う事も有ったそうです。
ちなみに、日帝期には日本の芸者制度を倣い「クォンボン券番」と呼ばれる一種の組合に所属する必要が有りました。
 
 
朝鮮王朝前期のソウル妓生は、4日に1度『慣習都監』に通い、楽器と舞踊を学びました。
寒い11〜1月と暑い5〜7月は休みの上、4日に1度の頻度だったので、残りの時間は修行に費やすか、生業に従事しました。
 
以後、成宗代に慣習都監「掌楽院」に改変されましたが、システムは同様でした。
歌曲や楽器を学ぶ時は、師匠を定めその師匠に学びましたが、マメに学ばなければ師匠も一緒に罰を受けました。
又随時「技芸試験」が有り、一定のレベルで無ければ罰を与え、酷いと家に返されました。
 
 
なので彼女らは才色兼備とは行かずとも、一定以上の水準を維持しました。
 
主な地方でも「キョバン敎坊」を設け教習しましたが、妓生の為の住まいで有る『キセンチョン妓生庁』、或いは『キセンバン妓生房』と呼ばれる居住空間が有りました。
 
残念ながらこれら「キョバン敎坊」の教習内容は伝わりません。
「キョバン敎坊」では、歌曲と共に琵琶、弦琴、琴、伽耶琴、チャンゴ、アジェン牙箏、海琴、大琴、小琴、ピルリュル觱篥など、様々な楽器を覚えたと言います。
 
そもそも妓生制度が体系化された理由は、国家で体系的に総合芸術を育成する為だったので、妓生になる事は殆ど士大夫が官職に上がるのに負けずとも劣らずの難易度でした。
 
<旧韓末のキーセン>
 
あらゆる舞踊歌唱、クラスに応じてパンソリや雑歌、民謡、色々な種類の器楽、話術、容姿、各種芸事のみか、ソンビ士大夫が勉強している物を同じ様に勉強しなければならず、現代の多忙な芸能人以上に大変だったと言えます。
 
これはある意味、学問のプロフェッショナルで有る、ソンビ士達と交流をする職業なので当然の事だとも言えます。
 
 
これに加え服を裁断し、刺繍を入れるなど、当代の女性で有れば基本的に備えなければならない嗜(たしな)みも磨く必要が有りました。
 
更に地域によっては乗馬の技術などを必要とする場合も有りました。
この様に修行しても、一定の水準を満たさなければ、披露出来る芸術の種類も制限されました。
 
唯一の利点は、厳格な服飾禁制の唯一の例外対象で、オシャレが出来たと言う点だけだったと言えそうです。
1人で万能なエンターテイナーたる事を要求された特殊な人々だったと言えるでしょう。
 
日本植民地時代に有名な妓生だったパクロクジュの口伝によると、キーセンには「ファチョ花草モリ(頭)上げ」儀式と言う、一種の成人式が有りました。
 
 
キーセンが登場する時代劇でもこの儀式が出る事も有ります。
教育を受けたキーセンが「最初のお客様」を受け入れた後、「ファチョモリ」と呼ばれるカチェ(加髢、かつら:ウィッグ)を頭に乗せる事で、これは一般的な民家の婚姻とも同じ意味を持って居ました。
 
即ち、ファチョモリを上げてくれる人がカチェを乗せ、既婚者の頭を作ってくれると言う意味です。
 
この為「最初のお客様」の資格もかなり重要で、かなり評判が有り、職位も高い人物で無ければならず、掛かるお金も高くついたと言う事です。
 
ファチョモリを上げてくれる人が、キーセンの家やカチェなどの装飾品調度類などを全部準備する必要が有ったので、よほどの資産家で無ければ務まりません。
 
 
この時に初夜を迎える場合も、迎えない場合もあったと言う事で、ファチョモリを上げてくれる人によって異なって居たそうです。
しかしながら、キーセン制度は元々官妓から始まった制度なので、この風習は日本の芸者制度が導入された後の風習だとも言われて居ます。
 
以上の事以外にもキーセン妓生について書く事は沢山有りますが、又機会を見て記したいと思います。
 
我が国のキーセン妓生の中でも名妓と名高い、
ファンジニについての記事をご覧下さい。
 
 ↓↓記事はコチラ↓↓↓

 

 
<参考文献>
국사편찬위원회  우리 역사넷 
나무위키
 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

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