<ドラマ イサン>
 
第6章 朝鮮の人物-41 近世25
チョンジョ正祖とホングギョン洪国栄
 
 
 
 
待ちかねて居た正祖の回になりました。
一度も会った事が無いのに何となくイメージが浮かぶのは何故でしょう?
ドラマ「イサン」を始めメディアで散々目にして居るせいかも知れません(笑)。
 
 
とにかく現在韓国での正祖人気は凄まじく、時期が朝鮮王朝後期なので時代背景の自由度が比較的高いと言う事も有り、ドラマ・映画ではダントツ人気な事はこのブログを読んで下さる方々はお分かりの事と思います。
ドラマ映画登場回数、改めて数えてみると31作に増えてました。
最新作が『赤い袖先(袖先赤いクットン)』です。
 

<最新作 赤い袖先>

 

同じ名君でもセジョン世宗には少々堅苦しいイメージが有りますが、チョンジョ正祖はざっくばらんで取っつきやすいイメージが有ります。
確かに私が作った名言、迷言?「名君と暴君はドラマになりやすい」の言葉通り彼をモチーフに史実・創作いずれを描いても説得力が有ります。
それ程彼の人生がドラマチックな上、人間味に溢れ親しみやすいキャラクターイメージなせいだと思われます。
 
 
しかし、多分にこれはイビョンフン監督作のドラマ「イサン」のイメージが強く、一種イサン「バブル」が起きている事は否めません。
このドラマによって正祖=イサンのイメージが大きくなり、イソジンの人間味溢れる姿がオーバーラップして居ると言えます。
 
実際、イソジンは共演したイスンジェが惚れ込む程の好青年ですが、若き苦労人の青年王とピッタリです。
その意味ではある意味「イサン」のイメージを脱皮する時が真の正祖の評価の時かも知れません。
 
イサンこと正祖には彼の前半生に強く関わったホングギョン洪国栄と後半生に強く関わったチョンヤギョン丁若鏞が居ますが、丁若鏞については次回述べる事にして前者を述べる事にしましょう。
 
チョンジョとドラマ『イサン』をより身近に知るべく2023年船橋公民館で行った講義録をUPします。
上記を手っ取り早く知りたい方はご覧下さい。
 
記事はコチラ
<イソジン>
 
まずは正祖(在位1776~1800)ですが1752年生、名前はドラマで有名なリサン李祘(後にリソンに変更)、字はヒョンウン亨運、号はホンジェ弘齋です。
英祖の次男であるチャンホンセジャ荘献世子(別名サドセジャ思悼世子)とヘギョングンホンシ惠慶宮洪氏の間で長男に生まれ、妃はヒョイワンフ孝懿王后です。
 
1759年(英祖35)世孫に冊封され、1762年父親の思悼世子が悲劇の死を遂げると、若くして夭折した英祖の長男ヒョジャン孝章世子の養子として王統を継ぎました。
 
1775年に代理聴政を始め、翌年英祖が崩御すると25歳で王位に上りました。
実父思悼世子が党争の犠牲になった様に、彼もまた世孫として様々な危険を潜り抜けます。
 
洪国栄初め自分の臣僚たちの支援を受けて困難を勝ち抜きました。
 
ここで洪国栄について述べます。
 
<ホングギョン役で人気のハンサンジン>
 
彼は1771年(英祖48)定試文科にて丙科で合格して世子付き官吏の坐を射止めました。
その頃丁度英祖思悼世子を米びつに閉じ込めて殺し孫の正祖を後継に定めましたが、その件で分かれた時派・僻派の内、世孫(正祖)の即位に反対した僻派の様々な陰謀から彼を保護した功労で世孫の厚い寵愛と信頼を得る事になりました。
 
続いて司書に昇進し、世孫の代理聴政に反対していたチョンフギョム鄭厚謙キムキジュ金龜柱などを弾劾して失脚させました。
 

<赤い袖先のホングクヨン(ホントクロ)>

 

また1776年には世孫を弑害しようとする謀反を摘発するなど活躍しました。
正祖が即位するとすぐに承政院のトンブスンジ同副承旨に特進、軍の宿衛所を創設して宿衛大将を兼職し王宮の護衛を担当、しばらくのち都承旨に昇進します。
 
 
国王正祖のすぐ近くで実権を握った彼は三司(監査、諫言、顧問機関)の書類を全てチェック出来る地位に有った事から三公六卿(3大臣と6曹長官)まで彼に盲従する事になります。
 
正祖の厚い信任に支えられ朝廷百官はもちろん八道監使や守令も彼の言葉に敢えて異議を提起出来ず、只々従いました。
そして都承知トスンジを初め大提学、吏曹参判など要職を歴任しています。
ここに政治権力を一手に握る「勢道」という言葉が生じ、彼は元祖「勢道政治」家となりました。
 

 

1778年(正祖2)妹を正祖の後宮に差し出しウォンビン元嬪と名付け、外戚として自分の地位を固めようとしました。
しかし彼女は1年足らずで20歳にもならぬまま病気で亡くなってしまいます。
 
すると彼は正祖の弟恩彦君の息子タム湛を亡きウォンビンの養子にしてワンプングン完豊君としました。
そして正祖の後継者にしようと企み策を弄(ろう)しました。
 
 
しかし傍若無人な彼も、執権4年ぶりに追放されます。
彼が職を解かれた理由は諸説有りますが、正祖の子が生まれない様に後宮冊封を妨害、王妃のヒョイワンフ孝懿王后がウォンビン元嬪を殺害したと信じて王妃を毒殺しようとしたなど様々な説が有ります。
真実は藪の中ですがいずれにせよ多くの行動が正祖の目に余ったと言う事でしょう。
 
その後故郷に下りて蟄居して居た最中、病を得て亡くなりました。
彼は元々惚れ惚れする程容貌が優れ、人より抜きん出て居たそうですが、亡くなる直前はかなり落ちぶれ見る影も無かったと言います。
 
正祖は彼の寵愛を傘に着て勢道政治を強行した洪国栄を追放した後、親政体制を構築する事に励みました。
 
<ヒョンビン主演 王の涙>
 
清の乾隆文化に関心を持って本を輸入し学問研磨に尽力、そして「キュジャンガク奎章閣」を設置し、文化政治を標榜、衰退してしまった弘文館に代わって奎章閣を文化政治の象徴的存在とし、弘文館・春秋館などの機能を付与して政権の核心的機構として育てて行きました。
そして世宗期の「集賢殿」の様に優秀な人材を自己の親衛勢力として育成して行きます。
この様なシステムから次回述べる彼の最側近で我が国実学の百科全書的大家と呼ばれる丁若鏞チョンヤギョンなどを輩出しました。
 
<チョンヤギョン丁若鏞>
 
この奎章閣は当時は意義の有る機関でしたが、以前にも述べた通りその後機能が肥大化し、少なからぬ弊害をもたらす事になりますがそれは後の話しです。
 
彼は書籍の出版に力を注いで新しい活字を開発しました。
イムジン壬辰字・チョンユ丁酉字・チュンチュグァン春秋館字などを新たに作り多くの書籍を編纂しました。
また王朝初期に制定、整備された文物制度を変化する朝鮮後期の社会に合わせて再調整する為に、英祖の時から始まった整備作業を継承、完結しました。
「増補東国文献備考」・「国朝宝鑑」・「大典通編」など多くの図書が出版されて居ます。
 
 
彼は父思悼世子の死により党争に極度の嫌悪感を持ち、王権を強化しシステムを再構築する為に英祖以来の基本方針で有るタンピョンチェク蕩平策を継承しました。
 
しかし前回述べた様に政治勢力が思悼世子サドセジャを巡る問題で今までの縦割りの党派を横切りにしたとも言えるシパ時派・ピョクパ僻派に変化し、党派間を超えた新たな葛藤という様相で複雑に展開されて居ました。

 

 

正祖はそれまで政界で疎外されて居た南人と小論強硬派を積極的に登用し、政界の中心に登場した老論のビョクパ僻派を牽制しました。
それと共に正祖自らが複数の党派を登用する方針を掲げながら、これまでの政局運営から抜け出す方針を打ち出し、英祖のタンピョンチェク蕩平策よりも少し進展したタンピョンチェクを打ち出します。
しかし、正祖の政務の激化と正祖の急死のより蕩平政治は未完に終わり、次の純祖の時代には本格的な勢道政治に移って行きますがそれはのちの話し。
 
ドラマ「イサン」や映画「王の涙」などに見える様に正祖はかなり多くの暗殺の危機に苦しめられました。
 
これらの暗殺の危機は彼に自分を護衛すべき軍事の必要性を提起させました。
当時軍営はほとんど主要な党派に掌握された状況で有った為、彼自身を護衛する軍事を持つ事を目的とし、1784年父思悼世子の尊号を祝う為に科挙を実施しました。
 
 
そして武科で何と2000人もの合格者を輩出させ1785年チャンヨンイ壮勇衛を結成、1788年にはそれをチャンヨンヨン壮勇営に改称し、正祖は自分の親衛部隊を持つようになりました。
 
以後正祖は父の墓を改葬しながら、理想の都市の建設を進めます。
これこそ正に現在ユネスコ文化遺産に登録されて居る「水原ファソン華城」の建設です。
 
水原ファソンについてはコチラ
この都市の建設目的の真意は彼の突然の死によりハッキリしませんが、漢陽で広げられない多様な政策を広げようとしていた物と思われます。
 
 
彼の業績の大きな1つがシネトンゴン辛亥通交です。
朝鮮前期には商業が抑制されていたので専売商人で有る「リュギジョン六矣廛」を始めとする御用商人の特権は強固な物でした。
しかし朝鮮後期商業の発達により私商人が進出すると、彼らの特権が脅かされ不満が表出、
最終的には彼らの排他的商圏を認め「禁乱廛権」を付与して権利を守りました。

 

 

しかし、これらの禁乱廛権は都市の商業を停滞させ物価の上昇を招き、零細商人と手工業者や都市貧困層に脅威となって行きました。
またこれらの御用商人は中央の高官らとの癒着が進み大きな弊害を生んで居ました。
 
これらに対する打開策として1787年禁乱廛権を廃止する辛亥通交シネトンゴンを施行、六矣廛ユギジョン以外の禁乱廛権を廃止、商業の自由化と活性化を促進しました。

 

 

正祖時代を語るには文体反正を抜かす事が出来ません。
一般的に知られる正祖の改革的なイメージとは異なり、彼は当代の有名な実学者パクチウォン朴趾源熱河日記に代表される新文体を心から嫌悪し、旧文体を固執しました。
そして民心を汚すとの触れ込みで三国志演義などの小説を嫌いました。
 
 
これは一種の焚書坑儒と言え、当時清国で盛行して居た陽明学を取り入れた北学派朴趾源らを排斥し、儒教性理学を正そうとする正祖の性理学者としての根本を知る事が出来ます。
 
彼は文体の改革を主張したのみか、書体も改革する事を主張しましたが、これを書体反正と言います。
正祖の文化統制政策を知る事が出来ます。
朝鮮王朝初期に書体は質素でしたが時代が下がるほど派手になって英祖の時期になると男性が書いたとは信じられない位柔らかく美しい文字が流行しました。
 
 
しかし正祖は子供の頃から自分だけの書道哲学が有り、王位に上がった後もこの哲学は維持され、素直で素朴な書体に戻すことを主張しました。
 
彼のこの影響を受けて秋史キムジョンフィ金正喜チュサチェ秋史体が誕生し、素朴で男性的な書体は朝鮮後期の主流として君臨しました。
 
彼は他にも朱子学の価値を明らかにしようと朱子大全集の編纂プロジェクトを打ち出しますが、彼の死と共に挫折して居ます。

 

 

君主としての使命感が徹底して居た正祖は真の
「為民政治」を実現しようと言う高い理想も持って第2の世宗と呼ぶに不足が無い国王でしたが彼の短い生涯により挫折してしまった事がとても残念です。
 
正祖が逝去すると勢道政治が開始され、硬直した反動政治は朝鮮を日本の植民地に追い込みました。
 
私たちは英祖・正祖期の短い黄金期をとても残念に思いますが、短い幕間は正祖の統治スタイル、いわゆる「一人悩み一人決定し、一人で指示する」いわゆる「カリスマコンプレックス」の帰結でした。
 
 
正祖の政治と19世紀の勢道政治の間には大きな断絶が有る様に見えますが、勢道政治がもたらされた政治構造などを見ると両者の間に断絶だけで無く連続を見る事が出来、勢道政治朋党政治-換局-蕩平政治からつながる朝鮮後期の政治史の産物で有る事を知る事が出来ます。
 
この様に正祖の功労と共に彼の治世の影の部分も直視する必要が有ります
。
いずれにせよ彼は酷く健康を害し1800年享年47歳の若さで惜しくも急死しました。
彼の早過ぎる死と共に我が国の黄金期は終わり、暗黒期へと突入します。
 
最後に、彼の出演するドラマ・映画は数多く制作されて居ますが、触れずには終われないのが最新作で今話題の『赤い袖先(袖先赤いクットン)붉은 옷소매 끝동』でしょう。
史実を基にフィクションを大胆に取り入れた骨太のフュージョン史劇です。
機会を見て是非一度ご覧下さい。
 
ドラマレビューはコチラ

<赤い袖先(袖先赤いクットン)>

 

<参加文献>
한국민족문화대사전
나무위키

 

#韓国ドラマ #韓国時代劇ドラマ #韓国映画

 愛のムチならぬ愛のポチお願いします ↓

 にほんブログ村 テレビブログ 韓国ドラマへ

  ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログ村に参加して居ます↑
↓読者登録はコチラから↓
韓国・朝鮮よもやまばなし - にほんブログ村