ワンポイントコラム
<韓国朝鮮歴史のトリビア>
133.古朝鮮の謎③古朝鮮の成立時期
 
 
 
 
前2回に渡り檀君神話について見ました。
 

 

檀君神話が古朝鮮の当代に作られた神話だったとしても、決して現在伝わる檀君神話の内容が歴史的事実だという意味では有りません。
 
そこには歴史的事実と共に、当時の観念やイデオロギー、誇張が含まれており、またそれが伝承されて行く過程で以前述べた様に、後代的な要素も加わって伝承されて行ったと言えます。
 
<古朝鮮の青銅器>
 
従って檀君神話から古朝鮮の歴史を把握する作業ではこれらの様々な要素を検討しながら、古朝鮮当代の歴史的事実や当時の人々が持っていた観念の世界を理解する事が必要です。
 
現在古朝鮮の存在に於いて最も論議される問題の1つは本編でも述べた様に建国時期です。
檀君神話で言えば中国の堯の時代、つまり紀元前2333年という記録が問題になります。
 
 
果たして檀君神話の内容どおり、古朝鮮はこの時建国されたのでしょうか?
 
国が形成される為に一定の社会的条件が必要である事は、歴史学はもちろん、考古学や人類学界の共通した見解です。
つまり、農業経済や青銅器文化が一定水準以上に発展しなければ国家の成立は不可能と言う事です。
 
通常、農業経済はその指標を見つけるのが難しいので、考古学史料を通して比較的分かりやすい青銅器文化の発展水準で判断します。
 
<古代青銅器 琵琶型銅剣出土地>
 
朝鮮半島と中国東北地域で国家の形成条件を満たすレベルの青銅器文化は、およそ紀元前12世紀以前に遡る事は無いと言うのが一般的な見解です。
 
従って青銅器文化を基盤とする古朝鮮の国家形成も早くて紀元前12世紀頃と見るしか無いと言え、檀君神話の紀元前2333年の建国紀年は歴史的事実というより後代の観念的な産物と言えます。
 
一方、日本ではBC 3世紀の(衛)満による衛氏朝鮮(満王朝)建国以前の古朝鮮を神話の世界で有ると貶め、古朝鮮の国家紀年を下げようとする主張も相変わらずです。
 
 
そもそも古い時代に「朝鮮」と言う名称が出現する中国側の文献資料は「管子」「史記」「山海経」を挙げる事が出来ます。
 
↓↓朝鮮の名前の由来はコチラ↓↓↓

 

「管子」は中国の春秋時代(紀元前8〜7世紀)に活動していた斉国の宰相管仲(?〜紀元前645)が編纂したと伝えられますが、実際には戦国時代(紀元前403〜221 )の人々が編纂した本だと言います。

 
この「管子」という本では単に「朝鮮」という名称のみ登場するだけで位置などの具体的な説明は無く、古朝鮮の実体については分かりにくいです。
同様に「史記」「山海経」も朝鮮の位置と周辺種族について簡単に言及しただけです。
 
ここで、各史料の内容を具体的に見る事はしませんが、一応「朝鮮」という名称が紀元前7世紀を前後した時期に存在した事を推測する事は出来ます。
 
朝鮮と言う種族は存在しないので、ここで言う朝鮮は国家である「古朝鮮」と見て間違い無いでしょう。
 
<史記の司馬遷> 
 
紀元前4世紀以降になると司馬遷の史記を始め文献史料は増えます。
戦国七雄の燕と互角に張り合ったと有りますから、紀元前7〜8世紀から国家の体裁が整えられた事と辻褄(つじつま)が合います。
 
その様な「古朝鮮」を日本学会が積極的に認めないのは、一言で古朝鮮の存在を証明する遺跡が無いせいだと言えます。
 
<殷墟>
 
現在では常識となって居る中国の殷王朝(中国・朝鮮では商と呼ぶ)の存在も1928年代以降「殷墟」の発掘によってで有り、それまでは伝説と考えられて居ました。
 
中国・朝鮮で認めて居る夏王朝も日本では認めておらず、近年発掘された二里頭遺跡などが有力視されて居るものの文字記録が無い事から積極的に認める迄に至ってはおりません。
こうした過度に慎重な姿勢から古朝鮮の建国時期が共通の定説を持てずに居る事は残念な事です。
 
<古朝鮮遺跡候補の1つ 城子山遺跡>
 
近年中国東北地方でも開発により多数の遺跡が発掘されており、1日も早く古朝鮮の都市・首都に比定される遺跡が出現する事を待ちます。
 
余談ですが、私達が「古朝鮮」と呼ぶ国の本来の名前が「朝鮮」だった事はもうご存知でしょうが、いつから「古朝鮮」と呼ぶようになったのでしょう?
以前に古朝鮮の歴史でも述べましたが、古朝鮮という名前はイリョン一然「三国遺事」で、檀君朝鮮を指す国号として使用されたのが現存する資料としては最も早い用例です。
 
↓↓古朝鮮の記事はコチラ↓↓↓

 

イリョンが朝鮮を「古朝鮮」としたのは、檀君朝鮮を箕子朝鮮や(衛)満朝鮮と区別する為でした。
 
これより少し後代に書かれたリスンヒュ李承休「チェワンウンギ帝王韻紀」では檀君朝鮮を「前朝鮮」、箕子朝鮮を「後朝鮮」としました。
 
< 帝王韻紀チェワンウンギ>
 
すなわち「古朝鮮」と言う国名は高麗時代に一般的に使用された名前ではなく、「前朝鮮」など、複数の名前で呼ばれた事を知る事が出来ます。
 
今では3つの時代の朝鮮国全てを「古朝鮮」と呼ぶ事も上に挙げた記事で触れました。
 
話しは戻りますが、近年新しい主張として、共和国で檀君陵発掘し、その古墳から出土して年代測定した人骨が、5千年前の物と確認されたと称して、檀君王倹の遺跡と確定し大々的な復元事業を行って居ます。
 
しかし共和国の年代測定が信頼出来る方式なのか不明で、この様な主張をそのまま信じるのは難しいと言えます。
さらに、現在共和国で発掘したという檀君陵は高句麗時代の石管墓である上、そこから出土した金銅冠も三国時代様式です。
 
<共和国の檀君陵>
 
共和国では古朝鮮の檀君陵を高句麗時代に新たに改葬したと主張していますが、とすると尚更問題が多くなります。
なぜなら、一度改葬を経た古墳の史料だと、年代測定データが合わなくなるからです。
 
共和国の檀君陵を発掘したという主張は信頼性を得られず、これを根拠に古朝鮮と檀君の建国時期を考える事は出来ないでしょう。
あくまで政治的プロパガンダと見ます。
 
最後に、なぜ檀君神話は中国の堯の時代としたのでしょう?
 
結論から言うと、中国堯の王様は孔子以来儒教で理想的な支配者として崇拝した人物なので、(我が国の歴史のある時期に)我が国も中国に劣らず長い歴史を持って居るという点を強調する為に、檀君王倹の建国紀年を中国の堯と合わせた物と見る事が出来ます。
 
<堯舜>
 
事実中国史でも堯舜時代を建国と考えはしません。
おかげで中国は4千年、朝鮮は半万年(반만년5千年)と、歴史で中国を追い越して居ますが、これを我が国だけの中国コンプレックスと呼ぶ訳には行きません。
何故なら、以前にも紹介しましたが、ベトナムの建国紀年はBC2879年で、我が国の建国紀年(BC 2333年)より546年も上だからです。
ベトナムは我が国式に言えば6千年の歴史になるかも知れません(笑)。
 
<三国遺事のイリョン一然>
 
これらの観念が登場する時期も儒教が収容されて政治的理念として機能した後代の時期、おそらく高麗時代が有力と推測され、良く言われるモンゴルとの抗争の中で自己のアイデンティティとナショナリズムの向上に合わせて追加されて行ったと推測する事が出来ます。
 
強調しますが、これをイリョンの創作と見ると言うのでは決して有りません。
 
次回は箕子朝鮮について見ます。
↓↓記事はコチラ↓↓↓
<参考文献>
국사편찬위원회  우리 역사넷
한국 민족문화대사전
단군신화 네이버블로그
朝鮮史研究会 朝鮮の歴史
 

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